間話 古い文書庫の奥にて
若干設定の補足回というかなんというか
――インクは、まだ生きている。
その部屋は、もともと封印されていた。
かつて禁書と呼ばれた書物たちが眠る、王城地下の、更にその下にある「深書庫」。
ティエルとリュミエルが、今まさにその扉の封を解いたのだ。
「……本当に、入るのね」
「本当に、入るのさ。好奇心が命より強い奴らってのは、昔から一定数いるんだよ」
ティエルが鼻を鳴らす。白衣のポケットにはメモ用紙が詰まっている。
その背後を歩くリュミエルは、少しだけ深呼吸をした。目を閉じて、心を沈める。
――ここで必要なのは、心の重さを消すこと。
彼女は王家の人間だ。感情を押し殺し、処刑文や暗殺命令文を声に出して読まねばならなかった過去がある。
その「読み方」を今、この禁書に向ける。
「じゃ、始めるぞ。俺は写本。お前は――そっちの記録文書の解析」
「了解」
リュミエルは手袋をはめ、古い羊皮紙に目を走らせた。
それは目を覆いたくなるような内容だった。拷問の記録。処刑の手順。反乱者の断末魔すら、活字で綴られている。
だが彼女の目は、揺れない。
「……平気なのか?」
「この程度なら。中毒症状は出ていないわ」
「不思議なもんだな。新インクの開発過程で耐性がついたのか、もともとの読み方の訓練のたまものなのか……」
「たぶん、両方よ。ティエルの新インクに出会ってなければ、今頃倒れていたかもしれない」
「お前、実験材料として優秀すぎて、ちょっと怖ぇよ」
「感謝してもいいのよ?」
「はいはい」
二人は黙って作業を続けた。
ページをめくる音だけが、地下に響いている。
それは、象形文字の表音化の作業を終えた数日後のことだった。
「来い、見せたいものがある」
ティエルに呼び出された蒼太は、王都の外れにある古い文書庫へと連れていかれた。
「ここ、誰も使ってないって話じゃ……」
「“使ってない”んじゃない。“使っちゃいけない”のさ」
鉄扉の奥。積まれた紙束と木箱の山。その中央に、奇妙な書物が並ぶ一角があった。まるで万象を刻んだような、複雑で繊細な象形文字の数々。
「これは……旧文字?」
「禁書のなかでも“最も手強い”やつらだ。写すだけで中毒が起きる危険があった。けどな――今は違う。お前のインクと組み合わせれば、こいつらも復活できる」
ティエルが棚の奥から、分厚い製本を一冊取り出す。だがそれは、手書きではなかった。
「これ……印刷されてる?」
「象形文字を活字化する技術、実は昔の技術者がとっくに作ってたんだよ。再現性は最悪、活字一個に職人が三日。印刷所が一冊作るのに半年。でも、“できた”ってだけで、当時は大騒ぎさ」
「……無駄にすごいな……」
蒼太が苦笑する横で、ティエルは黙って活字の束を眺めていた。
「たぶん、当時も本気で『文字』を残そうとしたやつがいたんだろうな。俺の体質がなかったら、こいつら、ずっと誰にも読まれなかった」
「ティエル……こいつらも、いずれ“読み直される”時が来ると思う?」
「知らん。ただ――“残す”だけなら、俺にだってできる」
書物の山の奥、光の届かない場所で、文字たちは今日も静かに眠っていた。
蒼太とティエルが去った後、リュミエルは静かに文書庫の中を歩いていた。
埃と油の匂いが混じる空間。重たく封じられていた鉄の扉の先に、文字たちは眠っている。かつて人々が触れることすら恐れたそれらを、今の自分は、こうして手に取っている。
リュミエルは、ある一冊をそっと開いた。象形文字の連なり。それはまだ、自分には完全には読めない――けれど。
「これは……“空”かしら?」
彼女の指先が、ある記号をなぞる。ふと、子供の頃、母が話してくれた昔語りを思い出す。
――昔、人々は空の名前をたくさん持っていたのよ。朝の空、夕暮れの空、嵐の空、晴れ渡る空。全部ちがう呼び名で呼んでいたの。
「同じ空を、別々の言葉で……」
リュミエルは目を細めた。
王族として育った彼女にとって、「文字」は恐怖の象徴だったはずだ。禁忌とされた文化を、未来へ繋ぐこと。それは簡単なことではない。
だが蒼太は、それを“道具”として示した。ティエルは、“記録”として向き合った。
では、私は?
「……私も、“語り手”でいよう」
静かに、声を出してみる。今はまだ、不完全な音。けれどそれは、確かに目の前の“象”を呼び起こす。
読み書きが、災厄ではなく、希望となる時代。
まだ遠いかもしれない。でも――
「百年後、誰かがこれを読んでくれたら……きっと、私は、もう一度この国を好きになれる」
そう呟いて、彼女は扉を閉じた。
厚く重い鉄の扉が軋む音は、遠い時代と今とをつなぐ音のようにも聞こえた。