中編 僕が異世界でやったのは、魔王討伐でも冒険でもなく、文字改革でした
※今回の話は少し長めですが、文字改革の場面が続きます。よければお付き合いください!
異世界ワンデルランディアに招かれた蒼太は、王女リュミエルの案内で王宮の地下にある文献保管庫を訪れていた。
「ここが“禁書”たちの眠る場所です」
そこは、まるで時間の止まった図書館だった。ひんやりした空気の中、書棚は高くそびえ、表紙に封印の印が刻まれた書物たちが静かに並んでいた。
「これ全部、読んじゃいけないんですか?」
「ええ。"読もうとするだけ"で、中毒になるんです」
リュミエルは目を伏せた。
「読もうとするだけで?」
蒼太には違和感が拭えなかった。蒼太の世界にも活字中毒はある。だが、それは活字を読むという行為に対しての心理的依存だ。ページを開いただけで依存症になるなど、物理的な何かが介在していなければありえない。
蒼太の実家の書店には、来るたびにお手洗いに行く客がいた。本人曰くパルプには樹木由来のフィトンチッドが含まれているから、紙が多い本屋はリラックスできて、排泄をもよおすのだとか。本に使われているインクや接着剤、紙の成分が、微量ながら便秘薬に使われる成分と似ているという説も、都市伝説的に語られることもある。
ここにある本はほとんどが糸綴じの羊皮紙。
「そうすると最も妥当なのはインク、か……?」
彼は思い出していた。最初にこの世界に来たとき、図鑑の文字に脳がざわついた感覚を。あれは、まるで化学的な刺激のようだった。
だが、調査の手段が限られていた。資料はあるのに読めない。インクの成分を調べる設備も、周囲にはない。
「こんなとき、理系の人間がいればなあ……」
そのときだった。
「錬金術に強ければいいのか?なら、ここにいるじゃないか」
静かな声とともに、石造りの通路から一人の青年が現れた。痩せた体に無頓着な白衣。無精ひげにくたびれた布の鞄。その中には、魔道式計測具やガラス瓶が無造作に突っ込まれている。だが、目だけは鋭く、光っていた。
「……ティエル!」
リュミエルが声を上げた。
「驚いた!いつからここに戻っていたの……?」
「お前が“活字の国の人間”を招いたって聞いてな」
ティエルと呼ばれた青年は、にやりと笑った。
リュミエルが言うには、ティエルはこの世界でも数少ない、“活字中毒にならない体質”の持ち主だということだ。
彼の身体には、なぜか活字に対する反応が一切なかった。どれだけ文字を読んでも影響を受けない。彼はその体質を利用して、文献の調査や記録技術の研究を独自に進めていたのだという。
「活字の分析なら……俺が手伝ってやるよ」
彼は蒼太の前に一冊の書物を置いた。彼が万年筆のような形の鍵を本に当てる。
「禁書も封を解いてしまえばただの書だからな。リュミエル、お前もある程度までなら耐性があるだろうが、念のため鼻と口を覆ってろ」
あー、書店でビニールを破って立ち読みする迷惑客ってきっとこんな表情してるんだろうなーー。
封印が解かれたページには、黒々としたインクが踊っていた。
「成分分析できる設備はないが、香りと反応性で分かる範囲はある」
三人は協力してインクの成分を調査した。
そして分かったのは――この世界のインクに、ある植物由来の、神経系を刺激し、軽い幻覚や高揚感を与える作用がある成分が混入していたということだった。蒼太には違和感程度で済んでいるが、特にこの世界の人には反応が顕著らしい。
「これって、現代で言えば……猫にとってのマタタビ?」
「だったら、成分を調整すれば……!」
ティエルは頷いた。
「俺が作ってみよう。中毒を起こさない、改良インクをな」
蒼太は、この異世界で初めて“自分の得意分野”が役立つ瞬間を感じた。
リュミエルの目が静かに輝き、呟く。
「――この国に、再び文字が戻るかもしれません」
決意を秘めた横顔だった。
王宮の離れにある作業場。窓の外には、濃い青の空と、風に揺れる白い布の日除け。室内には硝子瓶や乾燥させた植物片、道具が無造作に並べられ、ティエルの試作インクが煮沸されていた。
「こっちは揮発性が高すぎる。こっちは色が変わる……これは、発火の可能性があるな」
「やめてください、最後のやつ危ないですって……!」
ティエルは眉ひとつ動かさず、冷静に実験を続けていた。
一方、蒼太は隣の机でティエルにツッコミを入れつつ、リュミエルとともに紙を並べていた。そこには、この国で過去に使用されていた「絵文字」のサンプルがびっしりと並んでいる。
「これ、もともとは感情や動作を伝えるピクトグラムだったんですね」
「はい。言葉をそのまま送れる“念話”を補助するかたちで、視覚的な記号としてかつての異人が提案したと聞いています」
「うん……でもこれ、同じ単語でも使う人によってけっこう形が違うな……」
蒼太は数枚の紙を並べ、絵文字の形状に共通する要素を抜き出していった。
「これは“走る”の意味だけど、脚の角度とか手の振りに差がある。でも、どれも“二本足”と“動き線”が入ってる。」
「それが“音”の単位に対応すれば……?」
「そう。記号化には“略す技術”と“音への変換”が必要だ。日本語のひらがなも、もとは漢字の草書体から派生した。表意文字から、表音文字への抽象化だ」
蒼太はペンを走らせ、新たな記号を紙の上に描き出していく。
最初は簡単な母音。「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」に相当する記号を5つに分類し、それに子音の音節を加えていった。
次第に形状は洗練され、図形から記号へ、記号から“文字”へと変わっていく。
「――これなら、念話が使えなくても、言葉を“音”として表すことができる。文字を音に、音を文字に……」
「すごい……これが、あなたの世界の知恵」
リュミエルの瞳が輝く。
「いや、これは日本語を覚えるときに、平仮名の成り立ちを意識しただけだよ。……漢字はまだ難しすぎるけど」
すると、背後からティエルの声が割り込んだ。
「文字とインク、両方を再構築するとはな」
「おっ、そっちはどうです?」
ティエルは一枚の紙を掲げた。そこには、真新しいインクで書かれた短い文字列がにじまず並んでいた。
「植物成分を抑え、耐性を持つ鉱物由来の色素を調合した。蒸留を3回。副作用なし、今のところはな」
「やった……!」
蒼太が小さくガッツポーズを取ったあと、ふと気になったように問いかけた。
「でも……そもそも書物が禁止されてるなら、インクで書かれた文字を読んで中毒にならないことなんて、どうやって確認したんです?」
「そんなのはアレだ。王女様の前で言うのもなんだが、それなりに“違法書物”があるところにはあるんだよ」
「さらっと言ったな!? っていうか、それをここで王女の前で言っちゃっていいの!?」
「いいんだ。リュミエルがそれでいいって言ってるからな」
リュミエルは困ったように微笑しながらも、特に否定はしなかった。
「そ、そうなんですね……。ていうか、なんでそんなに王女様に対して上からなんです?」
「だって昔からこうだったし。いちいち敬語使ってたら、実験効率落ちるだろ」
「……信じられない。まあいいんです。そこまで私に権威があるわけでもないし。末端王族なんてそんなもんです。……でも、学者としては一応優秀なんですよこの人。どれだけ人格が破綻してても」
「おい、それ褒めてんのか?それとも貶してんのか?」
「事実を言ってるだけです」
ティエルが肩をすくめ、リュミエルがくすっと笑う。
そして再び、蒼太の描き出した記号群に視線が集まった。
「……お前の“活字の国”というのは、こういうふうに文字を進化させてきたのか?」
「うん。僕の国でも、絵から始まって、音に分解されて、それが記号化されて……何千年かけて、ようやく“書く”って文化ができた。読むために、書くために、人間は知恵を積み重ねてきたんだ」
リュミエルはゆっくりと目を閉じ、呟いた。
「この国は、その道を途中で忘れてしまった……でも、また歩き出せるかもしれない」
紙の上で、新しいインクが新しい文字を綴っていく。
「これなら、中毒にはならない……」
ティエルは笑う。けれどそれは、諦念のにじむ自嘲だった。
「……で、誰が読むんだ? 長い禁書時代。伝達だけなら念話で事足りる。いまさら文字なんて」
しばらく沈黙のあと、蒼太は静かに言った。
「それでも、読みたいってやつは、絶対どこかにいる」
「そうか。だったら俺は――そいつのために書くよ」
それはまだ、誰にも読めない。けれど、未来の誰かが、これを「読む日」が来る。そのはずだ。
「いいよなあ、お前の世界、本が文字通り“売るほど”あるんだろ?」
「てか売ってますから。そういう仕事ですから」
「海賊版って、響きにロマンがあるよな?」
「そんないいものじゃないです」
禁書の後に紙も開発されていて、主に包装用に使われているという設定です。雑ですまんな。
あと王族は毒に耐性をつける行為の一環で、活字に対しても子どもの頃から少しずつ慣らしていたりします。