前編 異世界に活字オタクが転移したら、ガチで活字が禁止されてた件
蝉が、うるさい。
八月の午後。開け放たれた書店の扉の外では、蝉の声がアスファルトの上で焼けたフライパンの油のようにじりじりと鳴いていた。
書店の客足はまばらだ。蒼太はカウンターの椅子にもたれながら、品出しを終えたばかりの和英辞典の背表紙を指でなぞっていた。
「……大学のレポートも終わったし、ようやく夏休みだな」
蒼太の実家は、学習塾の一階に構えた小さな書店。辞書や参考書、過去問、学習漫画に、地元の塾生向けの教材……とにかく“学生向け特化”の店だった。
しかし近年はECに押され、棚の一角には蒼太が趣味で集めた古書や輸入本が置かれるようになっていた。誰にも売れないが、彼にとっては宝物だ。
その日も、彼はひときわ分厚い洋書の図鑑を開いていた。
なにひとつ読める部分はない。表紙には幾何学模様。ページの縁は金に輝き、見開きには花と鳥の図案が繊細な線で描かれている。
――なのに、どこか不安を誘う。
何が書いてあるのか読めるはずもないのに、脳がざわつく。喉の奥が熱くなり、視界の端がじわりと揺れ始める。
「なんだ……これ、目が……」
ページをめくった瞬間、世界が波紋のように揺れた。
文字の海が、彼を呑んだ。
*
恐る恐る目を開く。めまいの残る頭をゆっくりと持ち上げて見回すと、そこは見たことのない広場だった。
広大な空。白い大理石の階段。東洋と西洋が混じり合ったような、非現実的な建築様式。
石畳の上を、くるぶし丈のキトンをまとった男女が行き交う。
荷車の音、鳥の囀り。しかし奇妙だったのは、妙に静かで――人々が誰も声を発していないことだった。
「……あの、すみません。ここ、どこですか?」
声をかけても、周囲の人々は振り返らない。かわりに、どこかから直接響くような声が頭の中に届く。
《異邦の者だ》
《あれが、王女様に“招かれし者”……?》
蒼太は後ずさった。目に見えない声が、脳をくすぐるように押し寄せる。どこにもスピーカーはない。人の口も動かない。
――この世界の人々は、頭に直接考えを伝えていたのだった。
人波が自然と分かれ、一人の小柄な少女が歩いてきた。銀色の髪が風にそよぎ、透き通るような蒼い目が蒼太を見つめていた。
「あなたが、“文字の国”の方ですね?」
少女の唇が動く。落ち着いた柔らかなその声は、普通に蒼太の鼓膜に届いた。
「えっ、ええと……モジノクニ?」
「ようこそ。私はリュミエル。ワンデルランディアの王女にして、この“禁書の地”の守人です。あなたを、お招きしました」
「招かれた……?」
蒼太の脳裏に、さっきの読めない古書の文字が浮かぶ。あの図鑑が、この世界とつながっていたのか?
リュミエルは穏やかにうなずいた。
「あなたがいた世界では、活字が文化を作り、知を伝えるものであると聞いています。――でも、この国では今、文字を読むことが禁じられているのです」
「文字が……禁じられている?」
リュミエルのまなざしが悲しげにゆれる。
「活字中毒、という言葉を聞いたことはありますか?」
「それは、まあ」
蒼太の母はかなりの活字中毒である。特に、何かを食べているときに目が文字を追っていないと落ち着かないタイプだ。
父が嫌がるので食事中はふりかけのパッケージの裏で我慢しているが、一人のときは何かしら読んでいるのを蒼太は知っている。
蒼太自身も、まあそこそこ読むのは速い。小学校の頃から教科書は学校で受け取ったその日に読破するのが普通だった。
「この世界の人々は、ほぼ百パーセントの確率で活字中毒を発症します」
「はい?」
「発症した人は読むことに溺れてしまう。周囲の声も届かず、日常生活が覚束なくなり、国家崩壊寸前になったと伝えられています。それで、書物が禁じられました」
――それ、僕が知っている''活字中毒''と違うのでは?いやある意味ではそうか。いやでも――。
「私たちは今、活字のない国で、知を失いつつあります。どうか、あなたの力を貸していただけませんか?」
蒼太は、言葉を失った。
けれど、心のどこかで、“本からでしか満たせないもの”があるということも、知っていた。
「……僕に、できることがあるなら」
その瞬間、この世界に“風”が吹いた。
誰かが本のページをめくるように。
間話「念話と“考える声”の境界線」
「ところで、僕が今何を考えているのかって、筒抜けだったりします?」
「いいえ? 普段は遮断されていますのでご安心ください。伝えたいことは、思考に“指向性”をつけて、放るんです。トゲトゲの種を誰かの服にくっつけるようなイメージで」
「どこの世界でもやるんだな……」
「赤ちゃんのぐにゃぐにゃした思考は、ある程度の距離、無差別に伝わりますけど、自然に遮断と伝達の技術は身につけていきますね。口話は、学校で教わります。教育レベルが高い人が使います。ソータをここにお招きするにあたり、念話の感応力を高めておきましたので、どちらも使えると思いますよ?」
「なるほど……なんか、現代のSNSのメンション機能っぽいな……」