「誰ぞ彼女時、英雄とて処女なり」(Af.Ss)
今回は最終話のあと、ナーレの視点で描かれる物語です。
彼女はひとりで出かけてしまったため、定番の「お説教シーン」が待っています。
タイトル「誰ぞ彼女時、英雄とて処女なり」は、「誰ぞ彼時」という古語から取られています。
「誰ぞ彼」とは文字通り「誰だ、あれは?」という意味です。
夕暮れの薄明かりの中、顔がはっきり見えない相手にそっと問いかける様子を表しています。
やがてこの言葉は「たそがれ=黄昏」を意味するようになったと言われています。
似た言葉に「かわたれ時」があります。こちらも、人の顔が判別しにくい時間帯を指しますが、「たそがれ時」は夕暮れに、「かわたれ時」は明け方に用いられます。
このタイトルは、夕方に凱旋したナーレが「英雄」として扱われる一方で、まだ半人前――処女であることを静かに示しています。
夕暮れの光がまだ完全に明るくないように、彼女の成長もまた、これから光を帯びていく途中なのです。
私は祭りの喧騒を背に、ゆっくりと村を後にした。
昼の光はまだ高く、肩に照りつける太陽が少しだけ重く感じられる。小道には人影もなく、子供たちの笑い声も遠ざかっていた。
昨日の祠での戦いの記憶が胸に蘇る。ルサリアの冷たい瞳、必死に戦うカイルとヴィネリの姿、そして、自分の奥で静かに導いてくれたヴァルの存在。胸の奥が微かに疼き、思わず深く息を吐く。その疼きは、両親への罪悪感なのか、ヴァルへの不信感なのか、自分自身の未熟さへの苛立ちなのか、私自身も未だ言葉にできない。
森の小道に差し掛かると、長く伸びた木陰が夕暮れの気配を告げていた。
風が木々の間を渡り、葉のざわめきが耳に届く。私は立ち止まり、深呼吸をすると、背中にヴァルの静かな存在を感じる。
(もう少しで帰る……)
心の中で呟く。両親の怒りを想像して、胸の奥に小さな不安と後悔が混ざるが、足は止まらない。
谷を渡る小さな橋に差し掛かる。せせらぎの音が柔らかく耳に届いて。体の疲れがじんわりと広がってくる、日の光が少し傾き、家路を知らせている。
私は欄干に手を添え、ふと……立ち止まった――。
(私は本当に、自分の道を歩めているのだろうか……)
疑問が頭を過った、ヴァルの存在がその問いを少し和らげてくれる気がする。
ようやく家の屋根が見え、窓越しに家族の影が視界に入る。置手紙だけで出かけたことが露呈しているのを直感する。胸が騒つく、足取りが自然と早まった。家に入ると、両親が深刻な顔で立っていた……。
「ナーレ! 置手紙だけで一日以上も外出するとは何事だ!」
父、アリフの声が、今も耳の奥で響く。私は思わず肩をすくめ、布団に顔を埋める。
「ナーレ、何を考えているの……? 村で何があったのか知らないけれど、心配で心臓が止まりそうだったわ……」
母の声も続く。優しさの裏に、確かな叱責の響きが混じって。私は小さく溜息を吐く。どれだけ説明しても、両親の心配と怒りを完全に消すことはできないと、心のどこかで理解していた……。
「ナーレ、お前はもう子供じゃない。自分で決めたことなら、その責任を最後まで果たしなさい」
父の言葉が私の心に重く響く。その言葉は、単なる叱責ではなく、娘の成長を認める複雑な思いが込められているようだった。
「冒険は良いけれど、もし何かあったら、私たちはどうしたらいいの」
母の声が震え、私は顔を上げる。母の瞳には、止めどなく涙が溢れていた。その涙は、私の冒険への漠然とした不安と、娘を失うかもしれない恐怖を物語っていた。私は言い訳の言葉が喉に詰まった、手足が冷たくなる。私の視線は床に落ちたまま少し背中を丸めた。
叱責が一段落した後、私は静かな部屋に座り、深く息を吸った。夕日が床に長い影を落とし、外の空気が少し冷たく感じられる。
布団の中で、私はそっと念話を開いた。静かに胸の奥でヴァルの存在に触れる。
(……昨日は、私の判断で出かけてしまった。両親を心配させちゃった……)
≪そうだな……私も忠告すべきだった。だが、あの時、君は確かに自分の道を歩こうとした≫
ヴァルの声は布団の中でもはっきりと届き、温かさを伴って胸に響いた。
(ヴァルが全部決めるわけじゃなく……)
私は小さく呟く。言葉の意味をヴァルに試すように投げかける。
《私は確かに、君の背を押した。だが、ナーレ、君の選ぶ道は、いつだって君自身の意志だった。その道を進んだのは、他ならぬ君なのだ》
私は布団の中で目を閉じ、今日一日の出来事を反芻する。両親の叱責、村での戦い、そしてヴァルの存在。胸の奥で小さな引っかかりが残ったまま、静かに眠りに就こうとした。その引っかかりは、やがて自分の成長と冒険の糧になる、――そんな予感をほんの少しだけ抱かせていた。
夜が明けて、私はゆっくりと身を起こす。窓から差し込む朝の光が、部屋に穏やかな温もりを運んでいた。昨日からの疲労と心の重みがまだ残っていたが、ゆっくりと着替えて食卓へと向かう。
台所からは、パンを焼く香ばしい匂いが漂ってくる。しかし、いつもなら聞こえるはずの家族の賑やかな会話はなかった。
私が食卓につくと、そこにはいつもより少し冷たい空気が流れていた。父の表情は硬く、私に視線を合わせようとしない。母は心配そうに私の顔を覗き込むが、その目はまだ少し赤かった。
「……おはよう」
私が小さな声で挨拶すると、父は無言でパンをちぎって、母は「おはよう、ナーレ」と、か細い声で返した。私は、自分が家族に与えた心の痛みと不安を、改めて痛感する。
この沈黙が、昨日以上の叱責なのだと私は感じた。それでも、昨日とは違う。胸の奥に、ヴァルの存在が静かに寄り添っているのを感じる。冒険とは、自分の意志で選んだ道を進むこと。それは、家族との関係を変えていくことでもあった。
私は、無言でパンを口に運びながら、心の中でそっと念話を開く。心の中でまだ、もやもやする引っかかりを整理したくて。
(……昨日のこと、まだ引っかかってる)
私は目を閉じて、言葉の意味を咀嚼する。ヴァルはただの指示者でもない、操る者でもない。ただ彼女の傍にいて、必要な時だけ導く存在――それでも完全には心を許さない部分があることを、微かに感じ取れた。
(……でも、あなたは私に傍にいてほしいって……)
≪その瞬間だけでも、だ。それだけは確かだ≫
私は胸の奥で小さな引っかかりを覚えながらも、ヴァルの存在の重みと温もりを受け取る。まだ理解できないこともある。けれど、少しずつ彼の示す真意を、自分の心で噛みしめていく。
(……私は、まだ全部は分からない。でも、少しずつ……貴方の事を、理解したい〉
≪それで十分だ、ナーレ。理解は急ぐものじゃない。君の冒険も、成長も、全て君自身のものだ。私はただ、傍にいる≫
(ほら……そうやって、また、私を誑かしてくる)
≪どう取るかは、君次第だ。ナーレ、冒険とは、君が望む答えを探し出し、自分だけの価値観を見つける旅なのだから≫
(見つかるかしら? そういったもの……)
≪君の身体と第六感に尋ねなさい。私には……無いものだから≫
朝の光が柔らかく室内を満たす中、私はヴァルの声を胸に、今日という一日を歩む覚悟を少しずつ固めていく。昨日の叱責も、祠での戦いも、そしてヴァルとの念話も、すべてが自分の成長の一部なのだと感じながら。
結局、ヴァルはナーレが大人になるまでは、自身の秘密を口にすることはないでしょう。
もちろん、抽象的な示唆やほのめかしはあるかもしれませんが、核心はまだ隠されたままです。
ヴァルが自分自身のことをすべて打ち明けるには、ナーレはまだ半人前なのです。
冒険は、まだ始まったばかりでもない――その入り口にさえ立っていません。
この世界のすべても、まだ伝えきれていません。だから、彼女は今、未来の光に向けて少しだけお預けをくらっているのです。




