5、セラフィーナと聖女の目覚め
翌週の休日。
朝起きてカーテンを開けると雲一つない晴天。ピクニック日和である。
私はメイドの手を借りて身支度する。
今日は森を散策する予定なので、動きやすいように髪を後ろで緩く編み込んでもらった。
服装は腰の辺りをリボンで結んだワンピース。
本当は冒険者用の服でも着て万全の備えをしたいところだが、シェリルに不審がられてはいけないので普通の格好をする。
朝食をとり終えると、私とアルマとギルが乗った馬車はシェリルの家に向かった。
アルマとギルは町に出かける服装よりも護衛らしい格好をしていて、腰や腕、太ももに小さなポーチや短剣を着けている。
ギルは腰に長剣を所持している。
彼らは私の護衛という立場なので、これくらいの格好をしていても何ら違和感はない。
王都の端にあるパーミュラー男爵家に到着すると、シェリルの両親も見送りに出てきていた。
侯爵家の娘である私と出かけると聞いて、挨拶せねばと思ったのだろう。
シェリルの両親は娘をよろしくお願いしますと私に挨拶すると、シェリルに向き合った。
「くれぐれも失礼のないようにするんだぞ」
「もー、お父さんったらそればっかりなんだから」
「シェリル、節度ある行動を心がけるのですよ」
「それも何回も聞いたよ。分かっているから心配しないで」
シェリルはとても緩い顔でへらりと笑いながら両親と言葉を交わす。
このやり取りだけでパーミュラー男爵夫妻の真面目さと我が子への不安感が窺えた。
シェリルは膝下丈のワンピースにブーツ、鍔の広い帽子を被っている。
彼女はギルに手を取られて馬車に乗り込む時に、馬車の後方で馬に乗る男女に視線を向けた。
「後ろの人たちもセラフィーナ様の護衛ですか?」
「彼らは私やアルマたちの知り合いよ。せっかくのピクニックなのだから大勢の方が楽しいでしょう」
「そうでしたか。私も大勢でわいわいするのが好きです」
私の前の座席に座るシェリルはすぐに納得して窓の外を眺めはじめた。
馬に乗る男女は二十代前半の冒険者で、以前からの知り合いである。
焦げ茶色のショートカットに猫のようなつり目の女性はケイ、ダークグレーの短髪に厳つい顔、ガッチリとした体躯の男性はブルーノという。
二人とも長剣や短剣を携えていて、冒険者の服を着ている。
彼らはアルマたちととても仲が良く、信頼できる二人だ。
私は人手が必要な時によく彼らを臨時で雇っている。
一時間ほど馬車に揺られて目的地に到着した。
目の前に広がるのは見渡す限りの青い花の絨毯。
ちょうど見頃を迎えたこの場所は、あまり人に知られていない穴場スポットだ。
「わぁぁ……! すごく綺麗です」
シェリルは感動して頬を紅潮させながら花畑の間の小道を進む。
私は日傘をさしながらその後ろを付いていく。
美しい景色を楽しみ、小さな湖の周りを散歩して、昼食の時間になった。
柔らかな草の上に大きな敷物を広げ六人で向き合って座る。
ギルが背負っていた鞄からお弁当を取り出して全員に配った。
体が大きなブルーノはお弁当を二つ受け取り、先週、スイーツを山のように食べていたシェリルにも二つ配られた。
「一つで足りなかったら二つ目も食べてください」
「っ、ありがとうございます!」
シェリルは二つのお弁当を感動しながら受け取った。
シェリルは初対面のケイとブルーノとすぐに仲良くなり、お弁当を食べながら歓談している。
ちなみにシェリルはブルーノが二個目のお弁当に手をつけるより早く二個目を食べはじめた。
「やっぱりお二人は恋人同士なのですね。とてもお似合いだと思っていました」
「やだーシェリルちゃんってば嬉しいこと言ってくれるんだからー」
「俺たちってば愛が大きすぎるせいで隠しきれないんだよな」
「そうなんです。お二人を見ていたら仲睦まじくてドキドキしちゃって」
「やだもー」
三人は楽しそうに盛り上がる。
シェリルはブルーノが二個目のお弁当を食べはじめた頃に二個目を食べ終えて、空になった弁当箱を寂しそうに眺めた。
シェリルはギルから予備のお弁当を一つ受け取ると、顔を綻ばせて食べはじめる。
昼食を終えると、私たちは森の中に足を踏み入れた。
ここでしか見られない稀少な蝶がいるから見に行きましょうと言って誘うと、シェリルは二つ返事で頷いた。
私がその蝶を一度見てみたかったことは本当なので嘘はついていない。
そこは小型の魔物が生息する場所だということを隠しているだけだ。
珍しい植物を見ながらゆっくり森を歩き始めて二十分ほど経過した。
「お嬢、そろそろかと」
「分かったわ」
ギルに耳打ちされて、アルマ、ケイ、ブルーノに目配せをする。
三人とも無言で頷いた。
「セラフィーナ様、俺たちちょっとあっちの方で二人きりでいちゃついてきます」
「ごゆっくりどうぞ」
ブルーノとケイが右方の茂みに消えた。
「お嬢、いちゃつく恋人たちを見学してきます」
「邪魔しないようにね」
ギルが二人の跡を追うようにいなくなった。
「お嬢様、走りたい気分になったので走ってきます」
「気をつけていってらっしゃい」
アルマが左方の茂みに消えた。
護衛の四人はそれぞれ理由をつけて、私とシェリルから離れてどこかに行ってしまう。
自然に離れられるように理由は各自で考えてちょうだいと言ってあったが、思ったよりも雑な理由だった。
大丈夫かしらとシェリルに目をやると、近くを飛んでいる蝶に目が釘付けになっていた。
アルマたちがいなくなったことにすら気づいていなさそうだ。
「セラフィーナ様、この蝶を追いかければもっと沢山の蝶が見られる気がします」
「それは聖女の『予感』というものかしら」
「そうです!」
シェリルは満面の笑みで元気よく答える。
今から恐ろしい目にあう『予感』は働いていないようだ。
吸い寄せられるように軽やかな足取りで蝶の跡をつけるシェリル。
私もそのすぐ後ろを追う。
もうすぐだ。閉じた状態の日傘を持つ右手に自然と力が入る。
そうしてシェリルの行く手に立ちふさがったのは灰色の生き物。
図鑑で確認済みのこの場所に生息する魔物の姿と一致する。
ドーベルマンのような見た目で四足歩行。尖った歯と爪は真っ黒で、足は所々の骨がむき出しになっている恐ろしい姿形。
あまり大きくはないが、こうやって実際目にすると迫力がある。
「ひぃぃ……! 何で魔物が……」
シェリルは口に手を当てながら数歩下がり、私の隣に並んだ。
「せせせせらっ、セラヒーニャ様っ、魔物ですよぉぉ」
「ええ、何て恐ろしいのかしら」
慌てすぎて呂律の回らないシェリルは私の腕に抱きついてきた。
いい具合に混乱している。
「でででもっきっと護衛の皆さんなら余裕で大丈夫ですよね……! ってあれ? 皆さんはどこに??」
ここには私たち二人しかいないことに今頃気づいたようで、シェリルはアワアワしながら辺りを見回した。
どれだけ辺りを見回しても四人の姿は見つからない。シェリルの顔は絶望に染まった。
四人は私たちから姿が見えないように隠れながら、すぐ近くでこちらの様子を窺っている。
私がどれだけ怪我をしても、命の危険がない限りは出てこないように命じてあるため、シェリルがどれだけ呼ぼうとも出てくることはない。
────グルルルルッ
灰色の魔物は唸り声をあげながらこちらに向かってきた。
私たちを獲物と定めたようだ。
これは低位種の魔物。一撃で人間を殺してしまうほどの攻撃力はない。
群れで襲ってこられたらさすがに命の危険があるが、一体だけなら数分は持ちこたえられるはずだ。
攻撃は全て私が受けるつもりでいる。
治癒ポーションはシェリル以外の全員が十分な数を持っているので、たとえ致命傷を負ったとしても生きてさえいれば死ぬことはない。
私はシェリルを庇うように前に出る。そしてさぁこちらに来なさいと言わんばかりに両手を広げた。
血走った目。鋭く尖った真っ黒な歯が涎で怪しく光る。
覚悟を決めてきたはずなのに、初めて目にする魔物の恐ろしさに手足が震えだす。冷や汗が頬を伝う。
私は気を強く保つために無理やり口角を上げた。
襲いくる長く鋭い爪が瞬く間に私の左肩を切り裂いた。
「っっ」
体に激痛が走る。
私は痛みに慣れているわけではない。思った以上の痛みに顔を歪める。
再び飛びかかってきた魔物が私の左腕に噛みついた。
これはさすがに何度も攻撃を受けたら気を失ってしまうだろう。
右手に持っていた日傘で魔物の腹を打ち付けて一度遠ざけると、肩と腕の痛みに耐えるように歯を食い縛った。
(さぁ、シェリルはどんな反応を示しているかしら)
気を失う前に確かめておかないと意味がない。私は後方に目をやった。
シェリルは身動き一つできずに立ち尽くしていた。
藍色の目が大きく見開かれている。
目の前で起きたことに思考が追いつかないのか、恐怖で硬直しているのか。
口をポカンと開けたまま、私から視線を外さない。
ここは狼狽えるなり泣き叫ぶなりして、聖女の力が覚醒することを願わなくてはいけない状況だろうに。
(あらら……自称聖女がこれではダメでしょう)
慌てふためく様を見ることを楽しみにしていたのに拍子抜けだ。
一応、気を失うまで魔物からの攻撃を受け続けるつもりでいるけれど、これでは私がどれだけ攻撃を受けて血塗れになっても無駄ではないだろうか。
せめてもう少し楽しめると思っていたのに。本当にガッカリだ。
落胆した次の瞬間、目が眩むような光が辺り一面に広がった。
あまりの眩しさに目を瞑る。後方から聞こえてくる、ギャァァァという魔物の叫び声。
光は一瞬のものだったのですぐに目を開けて振り返ると、そこには体の表皮が溶けた魔物がいた。
魔物は泡を吹きながらぐらりと横に倒れ、体を痙攣させた。
まだかろうじて生きているようだが、この様子ではもう起き上がらないだろう。
「…………あら?」
ふと、体の痛みが無くなっていることに気づいた。
怪我を負ったはずの肩と腕に目をやると、服が裂けているだけで裂け目から覗く肌に傷が見当たらない。
再びシェリルの方を振り向く。
彼女は微かに光っている自身の両手を無言で眺めていた。
私は目の前で起こった出来事を冷静に呑み込んで思案する。
世の中には光魔法が使える人間がいる。
光魔法の使い手は魔物避けとなる光を出したり、特別な薬草や水を使用して治癒ポーションを作り出すことができるが、魔物に直接ダメージを負わせたり人間の怪我を治すことはできない。
シェリルが放ったものはただの光魔法ではなく神聖魔法。これはもう疑いようがない事実だ。
「あなた本当に────」
静かに声をかけようとした。
しかし再び後方から魔物の唸り声が聞こえてきたことで振り向く。
そこには新たな魔物が一体。先ほどと同じ種類の魔物だ。
魔物は私と目が合うとこちらに勢いよく向かってきた。
「アルマ」
私が前を向いたまま冷静にそう口にすると、どこからか氷の針が飛んできた。
氷の針は魔物の両目を突き刺す。
魔物はギャインと叫んで立ち止まり、痛みに悶えるようにその場で激しく体を揺らした。
頭上の木からギルが降りてきて、私とシェリルの前に降り立つ。
彼は腰の剣を素早く抜いて魔物に向かって駆け出した。
剣筋さえ見えない早業。
首から上を失った魔物は地面に倒れた。
私は辺りを見回す。今のところはもうこれ以上は魔物が襲ってくる心配はなさそうだ。
大きく息を吐くと、シェリルが涙目で私に詰め寄ってきた。
「セラヒーニャ様お怪我っ……! お怪我をされて……っ!」
「今さら何を言っているのよ。あなたのお陰で治っているわ」
ようやく思考回路が機能しはじめたシェリルが呂律の回らない状態で心配の声を上げたので、苦笑いで冷たく返した。
「あぁぁ良かったあぁぁ」
シェリルは私の右腕を掴んで、眉をこれでもかと下げて泣きながら笑った。
先ほどもそうだったが、許可なく体に触れられたのに不思議と嫌悪感はない。
アルマとケイ、ブルーノがそれぞれ別の場所から姿を現して駆け寄ってくる。
「何なにー? さっきの光は何だったの?」
「どういうこと? シェリルちゃんってば何者なのさ?」
ケイとブルーノが興奮気味にシェリルに詰め寄る。
二人には何が起こっても私がアルマを呼ぶまでは事の成り行きを隠れて見守っていてほしいとだけ伝えてあった。
昼食時と同じような雰囲気で話す彼らを見ていたらホッとして腰が抜けた。
ギルは私をすぐに受け止めて、そのままひょいと横抱きにした。
いつも穏やかな顔を崩さないアルマは珍しく心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「お嬢様、お怪我の方は?」
「シェリルのお陰でもう何ともないわ」
左肩をポンポンと叩き、少しも痛くないことをアピールする。
アルマは服の裂け目から私の肌を観察して傷一つ残っていないことを確認すると、いつもの穏やかな表情に戻った。
「それにしても驚きました」
「えぇ、本当に目覚めるなんてね」
「俺も夢見がちな少女の虚言だとばかり思っていました」
照れた様子でケイとブルーノに『えへへ、実は聖女なんですよー』と言っているシェリルを三人で眺めながら話す。
私はシェリルが本当に聖女だったことにはあまり驚いていない。
あぁ、本当だったのね、と納得する程度。
それよりも今は初めて対峙した魔物への恐怖心をゆっくり落ち着かせることに意識を集中させる。
この辺りに生息する魔物を図鑑で確認した時は、見た目が不気味な気性の荒い犬といった程度にしか思っていなかった。
実際目の前に現れた魔物が発する不気味さは想像していたものよりずっと恐ろしいものだった。
「もう歩けるわ。下ろしてちょうだい」
ギルは私をゆっくり地面に下ろした。
まだほんの少しだけ指先が震えているが、歩くことは問題ない。
私はシェリルに近づいて笑いかけた。
「晴れて聖女様になれた気分はどうかしら」
「えへへ、まさか五年も早く力に目覚めるなんて思ってもいませんでした」
シェリルは照れ臭そうな笑顔でそう言うと、何かを思い出したようにハッとなった。
「ああぁあぁぁぁぁ……!!」
静かな森の中、その場に四つん這いになったシェリルの悲痛な声が響き渡った。