1、シェリルは声をかけた
ここは庶民のお財布に優しいリーズナブルな品を取り扱う店が多く建ち並ぶ王都の3番街。
三階建ての建物と建物の隙間、大通りが見渡せる場所で建物の壁に体をぴったりとくっつけながら、私は静かに体を震わせていた。
「あの人って、もしかして……」
私の視線の先には、風に靡くプラチナブロンドの髪。
遠目からでも高貴さが全身からにじみ出ている美しい少女。
同じ人間とは思えない輝きを実際に目にして、感動すら覚える。
男爵家の娘である私、シェリルと同じ十歳には見えない大人びた風貌。
美しい少女の名前はセラフィーナ・ガーネット侯爵令嬢という。
今日初めて目にした彼女のことを私がなぜ知っているのかといえば、予知夢の中で何度も出会っているからである。
予知夢の中のセラフィーナさんは今よりもっと年上だけれど。
細く長い手足に豊かな胸、メリハリのある体つきをしたスタイル抜群の妖艶な美女。
夢の中で何度見惚れたか分からない。そして恐ろしすぎて何度震えたかも分からない。
そう、夢の中で出会ったセラフィーナさんは世にも恐ろしい悪女なのである。
思い出すだけで身震いしてきた。
「……大丈夫、今はまだ彼女も十歳なんだから」
夢とは違う、十歳の少女であるセラフィーナさんを眺めながら息を整える。
それにしても本当に美しい。
セラフィーナさんは落ち着いた色味とデザインの生成り色のワンピースを着ているが、その素朴さがむしろ隠しきれない美貌を引き立てているようだ。
庶民が多く行き交う道を歩いていても浮かないようにと、素朴な格好を選んだのだろう。それでも高級ブランドを身に纏っているようにしか感じられないオーラを放っている。
「綺麗だなー……」
眺めれば眺めるほど自分と違う世界に住む存在すぎる。
美しすぎて同じ人間だと思えない。
貴族って皆あんな感じなのかな。私が田舎くさいだけだろうか。
物心ついた頃から両親を含む全ての大人たちから可愛い可愛いと褒めちぎられて生きてきた私は、圧倒的な美の存在を前にして自信を喪失しかけていた。
しかし今はそんなことを考えている場合ではない。
私はプラチナブロンドの少女の跡をこっそりつけて観察し続ける。
セラフィーナさんの両端には、二十歳ほどに見える男女がいる。
赤い髪を左右に緩く編み込んだ女性はずっと穏やかな顔をしていて、遠目からでも絶対に優しいと確信を持てる穏和な雰囲気を醸し出している。
背が高く、長めの藍色の髪に垂れがちの目をした色っぽい男性は、町行く女性たちから熱い視線を向けられている。
実際は今日初めて目にする彼らのことも私は知っている。
主人の凶行を止めようとして犠牲になってしまう人たちだ。
私は夢の中とはいえ人が死ぬ場面を見てしまっている。思い出して、また一つ身震いをした。
「大丈夫、きっと阻止できる。誰も死なないようにしなくちゃ」
自分の目に映る彼らはまだ生きている。
セラフィーナさんは露天のアクセサリーを興味深く眺めながら、時折隣の女性に話しかけて笑っている。
それを遠目で観察している私は、決意を込めて右手を強く握った。
人気のスイーツ店の行列に並んでお目当てのスイーツを手に入れたらしく、セラフィーナさんは紙袋を抱えながら嬉しそうに微笑んでいる。
大道芸を眺めて瞳を輝かせながら拍手したり、急に幼児に話しかけられて、目線を合わせるようにしゃがんで会話をしたり。
すごく普通だ。
とてつもなく美しいこと以外、同じ年頃の子たちと大して感性の変わらない普通の少女のよう。
むしろ同じ年頃の子たちよりも優しそうだ。
「今ならまだ普通にこちらの話を聞いてくれるはず」
胸に抱いていた期待は確信に変わった。
***
今朝。私は町に行けば何か良いことが起きる『予感』がした。
私の『予感』は必ず当たる。
1ヶ月前、私の前に現れた女神様からお告げを受けたその日から、私は普通ではあり得ない不思議な力を得たのだった。
これはきっと聖女としての神聖魔法が私の中に眠っているからだと思う。
まだ力には目覚めていないけれど、私はあと五年もすれば聖女としてこの国にとって特別な存在になる。
1ヶ月前に女神様からお告げを受けてから、私は毎晩のように予知夢を視るようになった。
それは聖女の力に目覚めてから起こる出来事らしく、王立高等学園での出来事が主だ。
王侯貴族の令息令嬢たちが通う煌びやかな学園。
そこで私はセラフィーナさんにこれでもかと苛められて、最終的に命まで狙われてしまう。
セラフィーナさんは闇の力を使って、悪い組織と結託して。
その結果、何とも痛ましい悲劇が起こってしまうのだ。
***
セラフィーナさんたちを遠目で観察し続けて六時間が経過した。
私は昼食すら食べずにずっと観察している。
日が傾きかけてきた空。そろそろ本当に声をかけなければいけない。
「あ、戻ってきた」
セラフィーナさんのお供らしき女性が数時間ぶりに戻ってきた。
赤髪の女性は、度々どこかに消えては戻ってきてを繰り返していて、数時間前からどこかに行ったきり戻ってきていなかった。
セラフィーナさんは女性と少し立ち話をしてから、馬車乗り場の椅子に腰かけた。
迎えの馬車を待っているようだ。
このままでは帰ってしまう。
もう今しかない。私は意を決して物陰から出て、セラフィーナさんに近づいた。
「あっ、あのっ……! ガーネット様でお間違いないでしょうか?」
私はプラチナブロンドの美しい少女に向かって声をかける。
相手は格上貴族のお嬢様なので気安く名前を呼ぶわけにはいかない。恐る恐る家名で呼びかけた。
「ええ、そうよ」
赤い瞳の美しい少女は急に話しかけられたのにも拘わらず、ふわりと笑みを浮かべて穏やかに答えてくれた。
「っっ」
目の前で自分に向けられた微笑みの破壊力はすさまじい。
自分と同じ年のはずなのに完成された美しさに息を呑んだ。
何度も頭の中で練習したのに、続く言葉がなかなか出てこない。
早く言わなければと気だけが焦り、自分を奮い立たせようとして高揚して頬が更に熱くなる。
(頑張れ私……!)
息を深く吸い込んで吐き出して、また深く吸い込んで吐き出す勢いにのせて一気に言葉を放つ。
「信じていただけないかもしれませんが、私にはあなたの未来が見えます。実はあなたは数年後に破滅する運命なんです。ですが私はあなたに不幸になってほしくありません。力に呑み込まれることのないよう、清く正しく品行方正に生きてください! そうすれば必ず破滅を防ぐことができると私は信じています……!」
目をぎゅっと瞑って最後まで一気に言い終えた。
息継ぎをせずに言い切ったためとても苦しい。はぁはぁと肩で息をする。
上手く言えたはず。必死すぎて自分でも何を言ったかよく覚えていないけれど。多分大丈夫。大丈夫なはず。大丈夫だよね……?
不安になってチラッとセラフィーナさんを窺うと、彼女は先ほどと寸分変わらぬ微笑を浮かべたままこちらを見ていた。
目が笑っていないのは気のせいだろうか。
少しでも動けば殺されてしまいそうな圧力を感じるのは気のせいだろうか。
セラフィーナさんはそれはそれは女神様に負けず劣らずな美しい微笑みを浮かべているので、気のせいにちがいない。
高位貴族のお嬢様に自分から声をかけるという、低位貴族にあるまじき行動に出ていることへの畏れからそう感じてしまうだけだろう。
私がどうにか自分を納得させていると、セラフィーナさんはゆっくりと立ち上がった。
「ここで話をするのも何だわ。続きはこちらで聞かせてもらえるかしら。さぁ、一緒にどうぞ」
「えっ……」
セラフィーナさんが『こちら』と言って手で示した場所。そこに馬車が一台停まった。
侯爵家からの迎えが到着したらしい。
庶民が乗る馬車と違い、黒塗りの高級感溢れる馬車である。側面に描かれている花の形をした家紋から、侯爵家専用の馬車なのだと窺えた。
私は今からこれに乗れと言われたようだ。
(え、それはちょっと……)
さすがに気が引けてしまう。高級すぎて畏れ多いという気持ちはもちろんのこと、乗ったら最後、生きて帰れない気がするのは気のせいだろうか。
しかし受け入れなかったらそれはそれで人生が終了しそうな圧力を感じるのは気のせいだろうか。
返事ができずにオロオロしていると、セラフィーナさんはお供の女性に『アルマ』と声をかけた。
アルマと呼ばれた赤髪の女性が前にスッと出てきた。
膝下丈の黒スカートに白シャツ、ベスト、リボンタイといった格好をしていて、慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
遠目からでも思っていたが、とても優しそうな人だ。
「お嬢さん、遠慮なさらずどうぞ」
優しい声。私は全てを包み込んでくれるような暖かな空気に包まれた。
こちらの緊張感を解きほぐすような柔らかな雰囲気に、気持ちが傾いて受け入れそうになった。
それでも返事をせずに唇を引き結んで固まっていると、アルマさんが一歩こちらに踏み出した。
私は距離を縮められないように一歩後ずさる。
そして後ろに出した右足が地面についた瞬間、靴底が何かに滑ったような感覚があった。
体がぐらりと後ろに傾く。
尻餅をつく寸前でアルマさんに抱き止められた。
右腕を背中に回して腰を支えて、左手で肩をそっと掴んで優しく受け止めてくれたアルマさんから、ふわっと石鹸の香りが漂ってくる。
心が落ち着く優しい香りだ。
「大丈夫ですか? ご気分が優れないようですね」
耳元で囁かれる穏やかな声。
私は地面に激突しなかったことにホッとし、アルマさんの優しさに感動していた。
この人が一緒なのだ。私はセラフィーナさんの馬車に乗っても大丈夫に違いない。
なぜ不安を感じていたのだろう。
暖かな気持ちでいっぱいになった。
愚かな自分を心の中で反省する。
そして私の喉元に冷たくて鋭利なものが突きつけられた。
「黙って従え。さもなくば殺す」
低く冷淡な声。
それは私の耳元で響いている。
私を抱き止めているのはアルマさん。私のすぐ近くには彼女しかいない。
それはつまり、つい今しがたの言葉は彼女が発したもので間違いなさそうで、喉元に突きつけられているのはきっと私の命を一瞬で奪うような何かなのだろう。
だってアルマさんの声には殺気が含まれていたから。
私は血の気が引いてカタカタ震えだした。
「遠慮なさらずにこちらでお休みください」
アルマさんは慈愛に満ちた微笑みで、優しい声で気遣ってくれた。
つい先ほどまで感動していた優しさ。
だけどもう感動できない。
声を出せずに固まっていると、セラフィーナさんが目の前にきた。
「お家まで送らせてもらうわ、シェリル・パーミュラーさん」
世にも美しい侯爵令嬢の口から私の名前が紡がれた。まだ名乗ってすらいない私の名前を。
「なぜ私のことを……」
「ふふっ、いつか学友になる同じ年頃の貴族の子供のことは知っていて当然よ」
当然とばかりに答えるセラフィーナさん。
すごい。さすが侯爵令嬢だ。
貴族になりたての私のことを知ってくれていることに感動を覚える。
あまりに感動しすぎて、つい今しがた脅迫された恐怖なんて吹っ飛んでしまった。
アルマと呼ばれた女性はセラフィーナさんを守るために、急に近づいてきた私を牽制しただけなのだろう。
そこにはセラフィーナさんの意思なんてきっとない。
私は今からすごい人の馬車に乗ることに感動しながらも、なぜか恐怖で体が震えていた。
とても不思議な感覚だ。
緊張しすぎると人はこんな風に不安定な感情になるのだろうか。
私は今まで高位貴族と関わったことがなかったから、きっとそうだ。
私が今味わっている、屠殺場に運ばれる家畜のような気分は緊張からくるものに違いない。
そうして私はセラフィーナさんと共に馬車に乗り込んだ。
笑顔で顔面蒼白になりながら。