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95 燃え盛る嫉妬【カイン視点】




 まったく懸念がなかったわけではない。

 エルハルドがクロヴィスの代わりに司令官として下町に降りると言い出した時、同じように被災者支援のために動いているデボラとどこかで鉢合わせしてしまうんじゃないか……と。

 だが司令官と言ってもエルハルドは所詮お飾りだったし、実務はブライトナー将軍が受け持つ。いつものように怠惰な皇子でいてくれれば、カインはそれでよかった。


 実際エルハルドのことだけを気にしている余裕などカインにはなく、クロヴィスの補佐役として雑務に追われた。だがしばらくして、エルハルドの信じられない評判を聞くことになる。

 なんと政治には無関心だった第二皇子が率先して民を励まして回り、積極的に支援活動に参加している――と。

 それが全てデボラの影響だと考えるのはあまりに飛躍しすぎていたし、意図的にその可能性を考えないようにしていた。


 けれどこうしてデボラを薔薇の宮に連れ去られてしまった以上、現実から目を背けることはもはや不可能だ。

 単なる皇子の女遊びとしては、あまりに常軌を逸し過ぎている。


「オレ、マジで悔しかったスよ。あいつが皇子でなかったら、あの場で殴りかかってたかもしれないっス!」


 鼻息荒く、シュシュシュッと両手の拳を突きだすのはデボラの護衛のジョシュアだ。なんとデボラはエルハルドに無理やり呼び出された挙句、家臣達の見ている前で求婚までされたというのだ。


「なんでそんなことになっている……」

「申し訳ありません。私達にも何が何だか……」


 思わずカインは頭を抱える。

 すでに既婚者であるデボラに求婚。

 まったく何を考えているのだ、あの馬鹿皇子は。

 馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、まさかここまで非常識だとは思っていなかった。


「それでその……大変言いづらいのですが、実は会話の流れでカイン様とデボラ様が、まだ一度も閨を共にしてないこともバレてしまいまして……」

「はあっ!?」


 らしくもなく、カインは声を荒げてしまった。

 事実を報告しているだけのコーリキは、可哀そうなくらい委縮している。

 なぜ一番バレたくない秘密が、一番バレたくない奴にバレているのか。

 デボラがまだ純潔だと知った時のエルハルドの気持ちが手に取るようにわかり、カインはさらに苦虫を潰したような顔になった。


「……わかった。そういうことなら俺自らが薔薇の宮に出向こう。さすがに俺が迎えに行けば、向こうもデボラを返してくるはずだ」

「申し訳ありません……」


 コーリキは再び頭を下げた。

 デボラが薔薇の宮に連れていかれてから三日。コーリキをはじめとするデボビッチ家の人々も、何も黙って手をこまねいていたわけではない。

 ニングホルムで銃撃に遭った直後も、すぐにデボラをデボビッチ家に連れ帰るとエルハルドに直訴したし、家令であるハロルドやジルベールも、薔薇の宮宛に正式に抗議してくれた。

 それもこれもカインはアリッツとラヴィリナの件でクロヴィスの代わりに忙しく立ち回っていたからだ。主人にこれ以上の気苦労をかけるのは心苦しく、また穏便にデボラを返してもらえるならばそれに越したことはない。

 だが意外にも第二皇子側の態度は頑なで、結局カインにこうして報告を入れなければならない事態になってしまった。


「行くぞ」

「はい!」


 カインは表情筋を殺すどころか完全に壊死させたまま、エルハルドのテリトリーである薔薇の宮へと乗り込む。

 夜空にかかる厚い雲は男の苦渋などお構いなしに、ただぼうっと薄紫色に輝いていた。












「あ、カイン様」

「ヴェイン」


 薔薇の宮の入り口に着くと、なぜかヴェインがそこで座り込みをしていた。

 なんでも昨日の夜から、「我がデボビッチ家の奥様を返して頂けるまでは梃子でも動かぬ」と抗議活動を行っていたらしい。

 薔薇の宮を守る騎士達は何とかヴェインを排除したようなものの、剣の腕や体格その他諸々でヴェインに敵うはずがなく。デボビッチ家当主のカインが姿を見せて、逆にホッとしているくらいだった。


「至急エルハルド殿下にお目通り願う」


 カインが言葉少なに申し込むと、薔薇の宮の中が急にバタバタと騒がしくなった。

 それからすぐに中へと通され、応接室へ案内される。室内はイグニアー家の象徴である薔薇の紋章があらゆるところに飾られ、いかにも貴族的で豪奢な内装だった。


(それにしてもデボラの怪我の具合はどのくらいなんだ? ここに三日囲われていたということは、それほど重症ではないと思うんだが……)


 エルハルドを待つ間、カインは妻の身の安全について考えた。

 エルハルドの奇行にばかり目が行ってしまったが、そもそも第二皇子が狙撃されるということ自体が異常事態だ。しかもエルハルドはその事実を対外的に伏せているという。

 ……まぁ、それがどんな理由からにせよ、カインにとってはどうでもいいことではあるが。


「長らくお待たせして申し訳ない、アストレー公爵」

「!」


 そしていけしゃあしゃあと、エルハルドはカインの前に姿を現した。

 互いの護衛を部屋の外で待機させ、まさに男と男。一対一の謁見である。

 しかし意外なことに、エルハルドはまずカインの顔を見るなり、深く頭を下げた。


「この度はデボラに怪我をさせてしまい大変申し訳なかった。デボビッチ家の方々にもいらぬ気苦労と心配をさせただろう。その点において、非は全面的にこちら側にある。改めて陳謝させて頂きたい」

「……………」


 これにはカインも少し動揺する。まさかプライドばかり高い第二皇子が、素直に謝ってくるとは思わなかったからだ。


「それでデボラは?」

「今は元気にしている。……元気が良すぎるくらいだ」

「そうか」


 デボラが無事と知り、カインはとりあえず胸を撫で下ろす。

 ふうっと長く息を吐き、今にも目の前の男を怒鳴りつけたい衝動を何とか理性で抑え込んだ。


「やはり心配か」

「自分の妻を心配しない夫がどこにいる」


 カインはエルハルドを強く()めつける。エルハルドもまた、カインの挑戦的な視線を堂々と正面から受け止めた。


「本当の妻でなくても?」

「いずれ本当の妻にするつもりだ。公爵家の内部事情に首を突っ込まないで頂こう」


 コーリキから事前に情報は入手していたので、これくらいの舌戦は想定内である。

 ――いいからごちゃごちゃ言ってないで、さっさとデボラを返せ。

 カインはいつになく短気な自分に気づき、その怒りを制御することに必死だった。


「護衛の騎士から聞いていると思うが、俺はデボラに求婚した」

「……」

「すでに既婚者であるデボラに求婚したこと自体、おかしいと思われるかもしれないが、今回ばかりは俺も本気だ」

「お前の本気など俺の知ったことではない」

「――」


 さぁ、いよいよ本格的に始まりました、デボラを巡る男と男の争い。

 こんなことになるのが嫌だったから、カインはデボラをアストレーに閉じ込めておきたかったのに。


「アストレー公爵は今までに四度結婚し、四度死別しているのだったな」

「それがどうした」

「ならば今回も、デボラを死ぬまで手放さぬつもりか」

「人の妻を勝手に殺すな」

「もしデボラの方から離婚したいと言い出したら?」

「……」

「それほど妻を想う夫ならば、妻の願いは叶えてやるべきだと思うが……どうか?」

「デボラがそんなこと言うはずない」


 ――あれは俺の女だ。

 

 あれほどデボラへの愛情を認めようとしなかったカインだが、今まさに恋敵を前にして、彼本来の独占欲が爆発した。


 あの美しい黒髪も、ルビーのような赤い瞳も、肉厚で柔らかい唇も全て丸々カインのものだ。

 もし彼女自身が嫌だと拒んでも、二度と手放してやる気などない。

 自分が彼女を諦める時が来るとしたなら……それはこの命が尽きる時だ。


「随分自信があるのだな。彼女に愛されているという」

「愛だの恋だのはどうでもいい」

「どうでもよくはないだろう。むしろそこが一番重要なところだ」


 エルハルドはカインのぶっきらぼうな言い方にムッとし、真っ向から反論してきた。

 何せエルハルドにしてみれば、人妻に求婚するという前代未聞の愚行を犯しているのだ。だが愚行とわかっていながら、エルハルドはデボラを諦められずにいる。

 そしてこの夫婦の間に愛情がないということであれば、そこを唯一の突破口とするしかないのだ。


「もしも公爵が俺への対抗意識でデボラを束縛するというのなら、どうかやめて頂きたい。彼女には自由に恋する権利があるはずだ」

「……」

「彼女は愛のない夫に仕えるべき女ではない。もしも公爵家の跡継ぎを産ませるだけの役割しか与えられていないなら、俺が彼女を……」

「言いたいことはそれだけか」


 まだ何か言い募ろうとするエルハルドの言葉を遮り、カインは侮蔑の視線を投げかけた。その絶対零度の視線に、さすがのエルハルドも一瞬怯む。

 そうして、しばしの沈黙。

 重く圧し掛かる空気の中、二人の男の間では視線の火花がバチバチと飛び交い、この対立が永久に続くのではないかと思われた。



「カイン様!」

「!」



 しかしその沈黙を破ったのは、二人の男に愛される張本人――デボラの焦った声だった。突然応接間の扉が勢いよく開いたかと思うと、真っ赤なドレスに身を包んだデボラが、室内に飛び込んできたのだ。


「こ、この度は申し訳ございませんでしたぁぁぁーー! わざわざこんなところまで迎えに来て頂かなくてはならないなんて……。全部私の不手際でございましたぁぁぁーーーー!!」

「おい、デボラ」


 全ての緊張感をかき消す、デボラの見事すぎるジャンピング土下座……いや、ジャンピングを通り越した究極のドリル土下座。

 カインだけでなくエルハルドの目も点になり、室内の空気がガラッと変わる。


「怪我をしたと聞いた。大丈夫なのか」

「それなら平気です! ほんのちょっとコケて頭にたんこぶできただけです! これくらい大丈夫だって散々言ったんですけど、大事になったらいけないからってここから出してもらえなくて……っ」


 デボラは涙目でカインに近づき、自分の前髪を掻き上げて問題の箇所を指さした。

 幸い怪我はすでに完治しているようで、やはりなんだかんだと理由をつけてエルハルドがデボラを帰したくなかっただけだろう。


「そうか、ならば帰るぞ。エルハルド殿下にご挨拶を」

「あ、わかりました。じゃあこれで失礼させて頂きますわね、殿下。これ以上、私の心配は無用ですわ」

「え? おい、デボラ……」


 当のデボラは当然のようにあっさりとカイン側につき、「ようやくこれで家に帰れるわー」と、のびのびしながら薔薇の宮から立ち去っていく。

 その決断の早さにカインは少しだけ溜飲を下げた。

 呆然とするエルハルドを一瞥し、皮肉の一つでも浴びせてやる。


「確かに妻は返してもらった。見ての通り、デボラはすでにデボビッチ家の人間だ。二度と手を出すな。これ以上惨めになりたくなければな」

「――」


 エルハルドに思いっきりガンを飛ばし、カインもまた素早く踵を返す。

 結局デボラを引き留めることができなかったエルハルドは、悔し気に唇を噛み締めるしかなかった。




            ×   ×   ×




 

 こうして無事デボラを取り戻したカインだったが。

 心に根を張る苛立ちはおさまるどころか、時間を追うごとに倍増していった。

 デボビッチ家へ戻る馬車の中、エルハルドによって美しく着飾られたデボラの姿が、どうしても視界に入るからだ。


「あのう、カイン様、一つ質問いいですか?」

「なんだ?」

「エルハルド殿下からリゼルがどうなったのか、お聞きになっていません?」

「リゼル? 誰のことだ?」

「あ、聞いてないならいいです。すいません……」

「………」


 しゅん…と慌てて口を噤むデボラだったが、この期に及んで、また別の男の名前を口にする妻のことが、カインは気に食わなかった。

 それでなくても今日のデボラは、いつにもまして美しい。

 おそらくエルハルドの趣味なのだろう。

 軽く結い上げられた髪の、うなじから首筋のラインに沿って流れる後れ毛が妙に艶めかしく。

 デボラのプロポーションの良さを強調するような深紅のドレスも……悔しいが見事な出来栄えだ。

 その一方でデボラの美貌を強調するのではなく、むしろ清純的なイメージを優先させたナチュラルメイクは、カインの中の雄を刺激した。

 夫の自分でさえその姿に欲情するのだから、デボラを好きなように着飾ったエルハルドはさぞやご満悦だったろう。


「あの、カイン……様?」

「……………………」


 デボラは恐る恐るカインのご機嫌伺いをしてくるものの、夫の機嫌が最悪だと悟り、再び口を噤む。

 カインはデボラに気づかれぬように深く息を吸い、ギリッと奥歯を食いしばった。

 ほぼ一カ月ぶりに顔を合わせた妻が他の男の手によって飾られたことがこの上なく屈辱的で、なおかつ腹立たしい。

 理不尽だとは思いつつも、大人しくエルハルドの言いなりになったデボラに対しても激しい怒りが沸く。


『本当の妻でなくても?』


 先ほどそう自分に尋ねた時の、あのエルハルドの不敵な笑み。

 思い出しただけで、まさに(はらわた)が煮えくり返る。


(ならば本当の妻にしてやる――)


 それは今までカインがデボラのためにずっと抑え続けてきたありとあらゆる負の感情が、ついに火花を散らして引火した瞬間だった。













「え、ちょ、カ、カイン様っっ!?」

「……」


 そしてデボビッチ家に到着するなり、カインは強引にデボラの腕を引いて寝室へと向かった。

 ようやくデボラが帰ってきたとハロルド以下使用人一同が安心する中、カインは鬼の形相でデボラを強制連行したのだ。


「あ、あのカイン様、デボラ様と一体どちらへ……」

「誰もついてくるな。様子を見に来た奴は――殺す」

「――」

「――」

「――」

「――」


 それはまさに世界を滅ぼす魔王の如く。

 全身に殺気を纏ったカインに、口出しできる者はいなかった。普段カインに対して強気に意見できるジルベールでさえ、一言かけるのがやっとだったほどだ。


「カイン様、今回のお怒りはごもっともですが、どうか手荒な真似だけはなさいませんよう……」

「……………」


 デボラの身を心配して、使用人達の視線が矢継ぎ早に飛んでくるが、それらはカインを思い止まらせるほどの障害には成り得なかった。

 さらに言えばここ数日、王族暗殺未遂事件の処理に追われ、ほとんど睡眠をとっていなかったことも災いした。

 嫉妬に狂った今のカインには冷静な判断力が完全に欠如していて、とにかく他の誰かに奪われる前にデボラを自分の本当の妻にする。その目的しか、眼中になかったのである。











 窓から見える夜空に星の瞬きはない。空全体がうっすら曇っているせいだ。


「きゃっ、カ、カイン様、一体どうしたんです!?」


 夫婦の寝室に入るなり、デボラはドレス姿のまま、ドンッとベッドの上に突き飛ばされた。さすがにカインの纏う雰囲気がいつもと違い過ぎるのに気付いたのか、がくがくと全身を恐怖で震わせている。


「俺は言ったはずだ。二度目はない……と」

「――」


 枕元のランプだけがぼんやりと灯る暗い室内で、カインはいつも身に着けている黒のロングコートを脱いだ。さらにデボラの柔肌を直接確かめるために、手袋も全部外してベッドに近づく。


「デボラ」

「は、はい……」


 ――ギシリ。


 ベッドの上で後ずさるデボラを逃がさぬよう、カインは執拗に彼女を追い詰める。

 


「お仕置きの時間だ」

「!」



 次の瞬間、細いデボラのうなじを引き寄せ無理やり唇を奪う。

 約一カ月ぶりに味わうデボラの唇はやはりこの世で一番甘く、官能的で。


 カインは呆気なく、男としての本能に押し流された。







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