83 王都の嵐2~束の間の抱擁~
激しい雨は降り止むどころか、さらに勢いを増していた。
王都の中で被害が出ていると知って、このままじっとしていられるはずがないじゃない。いてもたってもいられなくなった私は、玄関ホールに向かって駆け出した。
「あ、デボラ様っ!?」
意表を突かれたとばかりに、慌ててジョシュアも私の後をついてくる。
急いで階段を駆け下りれば、今まさに公爵が王宮へと出仕する所だった。
「カイン様!」
「デボラ!?」
私の姿を視界に入れるなり、公爵はなぜかいつものモアイ顔になった。
私は慌てて公爵のもとに駆け寄り、自分の考えを告げようとするけれど……。
「あの、カイン様、私……」
「その前にデボラ。その姿で人前に出るな。あまりにも目の毒だ」
「あ、ごめんなさい!」
言われて初めて気がついた。
私はまだネグリジェ姿のままだった。
公爵の隣に立つヴェインが自分の羽織っていた外套を脱いで、私の肩にかけてくれる。
「カイン様はこれから王宮へとお出かけになるそうですが」
「ああ、もう知っていると思うが、この嵐のせいで王都内で相当な被害が出ている。長官クラスの議員らが集まって、今後の対策を練ることになるだろう」
………やっぱり。
思った以上に、今回の嵐の被害は甚大だ。
「それでしたらカイン様、どうか私に外出の許可を下さいませ。これから王都には多くの被災者が出ると思うんです。カバスのように」
「………」
私はここから遠く離れたアストレーの地に思いを馳せた。
去年、大規模な洪水が発生して、大きな被害が出たというカバス。アストレーで暮らしていた頃の私は、領民が困窮に喘いでいることさえ知らなかった。
もちろん公爵が領主としてしっかり復興を支援していたけれど、困っている人を助けたいという志は私も同じ。
アストレーでは何も役に立てなかったけれど、せめてこの王都に住む人達の助けになりたいのだ。
あ、ちなみに別にこれってゲームのイベントとか全然関係ないからねっ!
今さらあざといボランティア活動なんてしなくても、公爵の私への好感度は上がっている……。
上がっているはずよ、多分!(何度かキスされてるくらいだから!)
「できれば怪我人の手当てや食事の炊き出しを行いたいと思うんです。多分たくさんの人が家を失って、途方に暮れてしまうと思うから」
「……」
私は切々と、公爵に訴えかける。
私一人の力なんてたかが知れているけど、デボビッチ家の財力と権威があれば、被災者の救援は可能なはず。
心配症の公爵のことだから、もしかしてまた「お前は家の中でじっとしていろ」と反対されるかもと思ったけれど、議論している猶予もないせいか、今回はあっさり折れてくれた。
「わかった。どうせ俺が止めようと、お前はお前の意志で飛び出してしまうだろうからな。ヴェイン」
「はっ」
「俺はこれから王宮に詰めっぱなしになるから護衛は最低限でいい。被災者を支援するには男手が必要になるだろうから、おまえはデボラと共に行け」
「りょ、了解でありますっ!」
緊急事態のためか、ヴェインは公爵の命令に大人しく従った。
私と視線が合うと「吾輩に任せて下さい!」とばかりに力強く胸板を叩く。
「それからハロルド、ジルベール。全力でデボラの補佐を頼む。被災者支援にはどれだけ金を使っても構わん。こんな時のための備蓄だからな」
「畏まりました」
「メイド達も逐次デボラに従うように。……それからクローネ」
「皆まで仰らずとも、了解しております。カイン様とデボラ様がお留守の間は、このクローネがしっかりデボビッチ家をお守りさせて頂きますわ。ですからこちらのことはお気になさらず、お勤めに全力投球なさいませ」
「……頼んだ」
さすが結束の固いデボビッチ家。公爵の短い指示だけで、各々が素早く動き始める。
公爵は私の傍を離れ、いよいよ玄関から外へ出ようとした。
――が、なぜか急に踵を返し、私の目の前に戻ってくる。
「カイン様? 何か忘れ物ですか?」
「そうだな」
私がきょとんと首を傾げると、公爵は突然長い腕を前に差し出した。
そして。
――ぎゅっ。
なんと突然、力いっぱい私を抱きしめたのだ!
「な、ななななな何をなさいますっっ」
「……今のうちに補給」
「だから補給って何をっ!? ちょ…っ、カイン様、みんな見てるじゃないですか!!」
おわかりいただけるだろうか。
これぞ本物の羞恥プレイ。
いや、衆知プレイ。
公爵にこんな風に抱きしめられるのは、私としては全然嫌ではないんだけれど、さすがに人が見ているところでイチャイチャする趣味はない。
というか、案の定見られてる~。
ハロルドもジルベールもクローネもジョシュアも、めっちゃニヤニヤしてる~。
(ちなみにいつものように乙女ヴェインだけは一人柱の隅にしゃがみこみ、真っ赤な顔で目隠しをしている)
私は頭の上から大量の湯気を出しながら、必死に公爵の腕の中で藻掻いた。
「カイン様! あのね、こーゆー事はせめてみんなが見ていない所で……」
「見てなかったら何をしてもいいのか?」
にやり。
人の揚げ足を取って、公爵が不敵に笑う。
はううぅっ!
その微笑み、反則です!
そんな顔されたら、あなたにベタ惚れの私は何も言えない。
……というか、その前にこのぎゅって奴、さっきから力が強すぎてコブラツイスト並みの拘束力なんですけど。
こ、公爵……く、苦しい………。
せめて息を……。
息だけはさせて下さいよ。私、死んじゃう……。
「……おそらく今日以後、俺は王宮に連泊になって、しばらくデホラとは会えなくなるからな」
「……え?」
「だから今のうちにデボラを補給しておく。俺がそばにいなくても、無茶はするなよ」
「……」
けれど次の瞬間、公爵の囁きを聞いて、私は思わず抵抗を止めた。
あ、そっかぁ。
そうだよね。
こんな大変なことが起きたら、公爵はまた超多忙になっちゃうんだ。
そう思ったら急に寂しくなって、今度は私のほうから広い背中に手を回して、ぎゅっとしがみつく。
「無茶なんてしません。……約束します」
「全く信用できない言葉だな」
クッと、いつも通りの公爵のひねくれた笑み。
けれど今はそんな憎まれ口さえ、全部愛しい。
私は大好きな公爵の匂いを思いっきり吸い込んで、しばらく会えなくなる夫成分を、ここぞとばかりに補給した。
「……いってらっしゃいませ、旦那様」
「っ!」
そして今まで一度も口にしたことのない言葉を、敢えて口にしてみる。
きゃあぁぁぁぁーっ、どさくさに紛れてとうとう言っちゃった、言っちゃった!
実は前から一度言ってみたかったんだよね、この『旦那様』って台詞!
なんかすっごく貞淑な妻って感じしない?
ね?
……ねっ!?
「お前、それは反則だろう……」
「――え?」
公爵は私を抱きしめる力を緩めると、使用人達に向かって、しっ、しっと手で追い払う仕草をした。この命令にはさすがにみんな大人しく従ったみたいで、玄関ホールは私と公爵の二人だけになる。
「デボラ」
外は嵐。
玄関ドアに強く吹き付ける風が、ごうごうと低い音を立てて唸ってる。
「帰ってきたら、俺を煽った分の覚悟はしておけ」
「――」
けれどいつの間にか私には、公爵の声だけしか聞こえなくなっていた。
少し乱れていた髪をさらりと一房耳たぶにかけられ、そこに公爵の唇が近づく。
「デボラ」
甘い囁き。
熱い視線。
それらは私の心と体の芯を同時に痺れさせる。
恥ずかしさのあまり目を閉じれば、公爵が世界の全てであるかのような錯覚に陥った。
「カインさ……、………………あ」
そして耳のラインをゆっくり辿った唇は、私の全てを味わい尽くすように強引に重ねられる。
そのうち息継ぎすら上手く出来なくなって離れた時を見計らってなんとか息を吐くけれど、その吐息まで自分のものだと誇示するかのように、公爵は何度も何度も私の唇を、ちゅ…と喰む。
奪われる快感。
公爵に出会って、私は初めてそれを――知ったのだ。
「カイン様……」
まるでうわごとのように、その名を呼ぶ。
今度は私から彼のうなじに両手を回して、さらなる口づけをねだった。
私の髪を激しく掻き乱して。
体中の骨が折れるんじゃないかと、また強く抱きしめて。
今まで聞いたこともない少し上擦った公爵の声は、まるで媚薬のように私の鼓膜へと忍び込む。
例えば人生の中で、至福という宝石がいくつか与えられているとするならば、私達は今夜その極上の輝きを味わっているに違いない。
そんなことを考えてしまうほどに、今の私達は不謹慎だった。
……そう、この時はただ、目の前の公爵に盲目的に溺れていた。
二人にとって幸せな抱擁。
これが最後になるとは――まさか夢にも思わずに。




