76 アストレー公爵の深き悩み【カイン視点】
カインがデボラの不在を知ったのは、屋敷に帰り着いた深夜のことだった。
「デボラが体調を崩して、ロントルモン伯爵邸で一泊する? しかも例の伯爵令嬢と懇意にしているだと?」
ハロルドやジルベールから話を聞いた時、カインはすぐに強い違和感を覚えた。
デボラが最近仲良くしているルーナ=ロントルモンは、先日王宮で開かれた舞踏会で知り合ったあの少女のことだ。
だがあの少女と、デボラが仲良くなる要素などあっただろうか?
少なくともデボラのほうはルーナに対し、一歩距離を置くような態度を見せていた気がするのだが。
「最近デボラ様はサブリエール伯爵が主催する社交サロンにも出入りなさっていますし、ご婦人にはご婦人の交友関係があるのでしょう。それにしても突然体調を崩されるとは心配ですね」
ジルベールが執務室まで運んできた茶を飲みながら、カインは黙考する。と、次の瞬間、ジルベールがとんでもないことを言い出した。
「デボラ様の突然のご不調は、もしやご懐妊なさっているという可能性はないですか?」
「ッッ!」
あまりにも的外れな指摘に、カインは思わずむせそうになった。すぐ隣に控えていたハロルドも、慌ててジルベールを諫める。
「こら、ジルベール、そんなはずはないだろう。何を言い出すのだ。カイン様も驚いて取り乱してしまわれているだろう」
「そんなはずはない……ですか」
ジルベールは父の顔をまじまじと見返しながら、フム、と腕組みをする。
「確かに王都にいらっしゃってより、カイン様とデボラ様は一度も寝室を共になさっていません。何か理由があるのではと使用人の間でも噂になっていたのですが、もしやこれは……」
「――いい。皆まで言うな」
カインはガチャンと音が立つほど乱暴に、ティーカップをソーサーに置いた。
周りから自分達夫婦がどんな目で見られているのか気にしていないわけではなかったが、わざわざ横から口を出されるのも億劫だ。
「改めて確認させて頂くとカイン様は今後、デボラ様と離婚なさるつもりはないということでよろしいでしょうか」
「とりあえずその予定は、ない」
「とりあえず……ということは、カイン様に予定はなくても、デボラ様側のご意向があれば、離婚するのもやぶさかではないと? 今までの奥様方と同様に」
「…………」
痛いところをジルベールに突っ込まれ、カインはますます渋面になった。
カインとしては今までの妻達とは比べ物にならないほど特別な存在としてデボラを遇しているが、明確に夫婦の契りを結んだわけではない。
もちろんカインにその気があるのかと言われれば是と即答するが、問題はやはりデボラのほうだ。口づけ一つで顔を真っ赤にし慌てふためくデボラを見ていると、どうしてもその先に進んでいいのか躊躇ってしまう。
「……やりづらい」
「は?」
「その……デボラは色々やりづらいんだ」
「――?」
カインは仏頂面のまま、ハロルドとジルベールに心情の一端を吐露した。
二人もまた数少ない言葉から、カインの意図を察する。
「まぁ、カイン様のお気持ちはわかります。デボラ様は不思議な方ですからなぁ」
「見た目は妖艶でいらっしゃるのに、中身はまるで少女のような無垢さですからねぇ。カイン様がなかなか手を出せないのもある意味納得です」
話している内に、ジルベールの笑みがさらに深くなる。
「お二人がまだ本当の夫婦でないのは残念ですが、カイン様にとっては良い兆候かと思います。それだけデボラ様を大切にしていらっしゃるのですね」
「失礼な、俺は今までの妻達も大事にしてきたつもりだ」
カインは口をへの字に曲げながら答える。
「もちろん存じ上げていますが、その大切の仕方がデボラ様と今までの奥方様とでは異なっているでしょう? それに私の目から見ても、デボラ様もカイン様を慕っておられるかのように思います。後はお二人のお気持ちとタイミング次第ではないかと思いますね」
「……………」
暗に、二人が早く本物の夫婦になれることを願っていると言われ、カインは深いため息をついた。
自分でもなぜデボラに対しこんなに奥手になっているのかという苛立ちはあるが、その根本にある感情のせいでどうしてもあと一歩踏み出すことができない。
カインが夫婦でありながら、未だにデボラに手を出せない理由――
それはひとえに『無理強いしてデボラに嫌われたくない』……という懸念があるからだ。
翌日、デボラは無事ロントルモン伯爵邸から帰宅し、夜になってカインの執務室を訪ねた。
元々奇行の多いデボラではあるが、今夜もカインの前で落ち着かない様子だ。きょろきょろと視線をさまよわせ、極力カインと目を合わせないようにしている。
「ロントルモン伯爵の屋敷で体調を崩したと聞いたが、もう大丈夫なのか?」
「えーと……は、はいっ! おかげさまでこの通りバッチリ元気ですわ! ご心配をおかけして申し訳ありませんっ」
「……とにかく座れ。何か話があるのだろう?」
「は、はい。ではお言葉に甘えまして……」
デボラは部屋の中央に置かれたソファへと移動し、カインもその目の前のソファへと腰掛ける。まっすぐと向かい合うものの、二人の距離はやや遠かった。
「あの、それで本日は私、カイン様に折り入ってお願いがありましてててて……」
「………」
――実にわかりやすい。
カインは双眸を眇めながら、内心嘆息する。
額にうっすら汗をかき、挙動が落ち着かない様は、デボラが何か後ろ暗いことを隠していることを示唆している。本人は必死に誤魔化そうとしているが、デボラは思っていることが全て顔と口に出る。
おそらくロントルモン伯爵邸に泊まったという昨夜、何かあったのだろうとカインは推察した。自分の与り知らぬところで、また危険なことをしたのではないかという不安がよぎる。
「実は私、サブリエール伯爵邸のサロンで、ロクサーヌ=スチュアート男爵令嬢と友人になりましたの。ですが彼女は今、理不尽な婚約を強いられてまして……」
「……」
デボラの口から語られる内容は、予想以上に深刻なものだった。
スチュアート家とザイフェルト家で結ばれた婚約の裏で起きていた武器密輸事件。しかも貿易監査局の役人まで謀略に関わっているという。
もしもそれが事実ならば、看過できない由々しき事態だ。早急にルイに相談して、何らかの手を打たねばならないだろう。
だがカインが気になったのは、そのような重大犯罪の内幕を、デボラが知ることになった経緯だ。
「なるほど、話は分かった。だがデボラ、なぜおまえがそこまで詳しいことを知るに至った?」
「えーと、それはえーと、そのぅ、まずはサロンで色々噂話を聞きまして……」
カインが容赦なく突っ込めば、案の定デボラの挙動が怪しくなる。作り笑顔は見事に引き攣り、カインの叱責を恐れてかソファの上の腰は完全に引けていた。
「ど・う・し・て・そ・ん・な・詳・し・い・こ・と・を・知・っ・て・い・る?」
「あわわわわわわ………っ」
同じ質問を繰り返しながら、カインはバンッと目の前の机に両手を付き、大きく身を乗り出してデボラに迫った。するとすでに涙目状態だったデボラは、突然号泣しだす。
「ご、ごめんなさい~~~っ! じ、実はサロンで知り合った新聞記者に、探偵みたいなことをお願いして調べてもらったんですぅ~~!」
「新聞記者?」
デボラが涙ながらに差し出したのは、一枚の名刺だった。『ハリエット=コルヴォ』と書かれたそれを、カインはまじまじと観察する。フィナンシャル・ポスト社という新聞社の名前に覚えがなく、無意識に眉間に皺を寄せた。
……見るからに怪しい。
デボラに近づいたこの謎の男について、すぐ誰かに調べさせる必要があるだろう。
「では昨日ロントルモン伯爵邸に泊まった理由は?」
「実はハリエットから詳しい調査内容を聞くためでして……。このデボビッチ邸だと使用人達の目もありますし、怪しい人物を引き入れるわけにもいきませんでしょ?」
「……」
デボラはハンカチを取り出し、すん、と鼻を小さく啜ると、カインの出方を窺うように大人しくなった。
上目づかいでまっすぐ見つめられると、カインの中の嗜虐心がどうしても疼いてしまう。そんな表情を、よもやこの新聞記者の前でも見せたんじゃあるまいな……と。
「まさかお仕置きが必要な、危険なことはしてないだろうな?」
「し、してませんっ! してませんともっ! 不肖デボラ=デボビッチ、そんな自殺行為に自ら手を染めるはずがありませんわっ!」
オホホホホホーーッと引き攣りながら笑うデボラは、明らかに動揺していた。
――つまりお仕置きが必要なほどの危険なことをしたんだな。
カインはやや遠い目になりつつ、すぐにデボラの嘘を見抜く。
相変わらずデボラは嘘が下手だ。壊滅的に下手だ。
そんな馬鹿正直で間抜けなところがカインは気に入ってはいるのだが、夫という立場からしてみれば、常に気が気でない……というのが正直な感想だ。
「そうか、してない、か……」
カインはデボラの嘘に呆れつつも、彼女を責めるようなことはしなかった。デボラの素行など、あとでロントルモン伯爵家に内偵を入れればすぐにわかることだからだ。
そしてやおらソファから立ち上がると、デボラの隣に座り直す。ドカッと腰を下ろせばデボラの体が硬直し、やや自分から離れようとしているのが分かった。
「デボラ」
「きゃっ!」
よそよそしい反応が憎らしくて、カインは片手でデボラの肩を引き寄せた。
ワタワタと慌てるデボラの耳元に唇を寄せ、ふっと息を吹きかける。
「助けてやりたいのか、その友人とやらを」
「……も、もちろんですわ」
耳元で囁かれるのがくすぐったいのか、デボラはずっと居心地悪そうに体を捩っていた。まるで主人の掌の中から逃げ出そうとしている子猫のように。
「……いいだろう、それがお前の願いならば」
「――!」
叶えてやろう――お前の望むことは全て。
そう熱く視線で訴えかければ、デボラの顔が真っ赤になった。
ぎこちなく視線が重なった瞬間、硬直していた体から徐々に強張りが抜けていく。
「あ、ありがとうございます……」
「どういたしまして」
カインがやや口角を上げると、デボラもまた含羞むような笑顔を見せた。そしてそのままコトン、と、素直にカインに体を預けてくる。
「カイン様、どうかロクサーヌ様を助けて差し上げて下さい。意に沿わぬ結婚を強いられるなんて、女としてこれほど不幸なことはありませんもの……」
「ああ、そうだな……」
デボラの言葉に首肯しながら、カインはそっと目を閉じる。
デボラと過ごす時間は、いつもこんな風に愉快で――そして優しい。
それは他の女性とでは決して得られなかった、貴重な時間だ。
だからこそカインはデボラを手放したくないと思う。
ずっとそばにいてほしいと願う。
おそらくこの温かな感情を、他人は愛と呼ぶのだろう。
(けれどデボラは? デボラは俺といて幸せだろうか?)
今しがた、デボラが口にした『意に沿わぬ結婚を強いた』立場であるカインは、らしくもなく悩んでいた。
カインは自分が恋愛に向かないことを重々承知している。今までは相手の気持ちなど考えたこともなく、来る者は拒まず、去る者は追わずの恋愛スタイルを貫いてきた。
けれどデボラに関しては、どうだろうか?
今彼女は助けられた恩があるという理由でカインを慕ってくれているが、それは自分が感じている愛情と同等だろうか?
もしも彼女が受けた恩を異性への愛情と勘違いしているならば、その勘違いもいつかは解ける時が来てしまうかもしれない。
カインは素の自分がとんでもなく面倒くさくて、自分が女だったなら絶対自分に惚れないと言う自信がある。
だからこそ、最後のギリギリの線で自信を持てずにいる。
夫という立場を利用してデボラの行動に干渉し、危険から遠ざけるために屋敷に閉じ込めることも、無理やり夫婦の契りを結ぶことも、今のカインには全て可能だ。
けれどそうしないのは、デボラに嫌われてしまう可能性が捨てきれないから。
口ではデボラに厳しいことを言いつつも、内心彼女の出方をいちいち窺っている自分がいるのだ。
(情けない……まさかこの俺が一人の女に振り回される羽目になろうとは)
カインは妻である少女の体を引き寄せながら、少年のように思う。
妻を独占したいと思い、事実、いずれそうできるという確信は持っている。
今肩に触れている黒曜の髪もそうだし、妖艶な笑顔も、悲しみに濡れる涙も――憎しみという負の感情さえ、全て自分のものだ。
だからこそデボラにはもう自分という枷のついた自由しか与えない。
だけどそれを彼女自身に悟らせるには、まだ早すぎる。
(しばらくは今までの通り、形ばかりの夫婦を続けていくか。俺の理性がギリギリ保てば………の話だが)
こうして遅すぎた初恋に悩む男は、今日も究極の不器用さを脳内で拗らせていた。
強すぎる執着がいずれデボラを手ひどく傷つけてしまう――
そんな未来がすぐそこまで近づいていると、今は思いもせずに。




