58 王都へ3~デボラの覚悟~
旅支度を整えた私は息を殺しながら、そっと窓際へと近づいた。
ベッドのシーツや、窓にかかっていたドレープカーテンの一部を外し、一本の長いロープもどきを作る。それをバルコニーの柱に結び、階下の庭に向かって垂らしていく。
幸い私の部屋はちょうど2階にある。この高さなら女の私でも降りることが可能。
あとはドアの向こうにいる監視に気づかれないよう、迅速に行動するだけよ!
(よし、気合入れていくわよ。デボビッチ家を抜け出せたら、まずは港のチェンの元を訪ねなくては……)
私はポケットに入れた宝石数個を確認する。
これは元々正妻である私のために用意されたアクセサリー。正確に言うと私個人の物ではないと思うんだけど、今回は金策のために拝借することにする。この宝石をチェンに買い取ってもらい、それを王都までの旅費に当てる。王都に着いたらなるべく安い宿を探して、お金を節約しなくては。
(待ってなさいよ、公爵! 私は絶対諦めない。このまま手をこまねいて事態を見守るなんて絶対できないから!)
私は気合を入れ直し、バルコニーから大きく身を乗り出した。
うっ、こうしてみると2階でもそれなりの高さはあるわね。足を踏み外さないように気をつけなくちゃ。
(ん、しょ……、ん、しょ……)
私は即席ロープにつかまりながら、慎重に下へと降りていった。
こんな時、やっぱり毎日筋肉体操をしていたのが役に立つわね。公爵夫人らしからぬ日課だけど、おかげで普通の女性よりは筋力があるわ。
ありがとう、ヴェイン。これもあなたが作ってくれたメニュー表のおかげね。
また明日から頑張るわ。
「いいえ、どういたしまして。やる気があって結構結構」
「……」
そして無事地面へと着地した途端、なぜか背後から低い声がした。
………。
……………。
……………………。
あら、やだ。
また私ったら脳内で考えていたことを口に出しちゃってたかしら?
恐る恐る振り向けば、そこにはなぜか腕組みして仁王立ちするヴェインの姿が。
「ぎゃあああぁぁぁーーーっ! なんであなたがここにいるのよ、ヴェイン!?」
「イルマが教えてくれたのです。どうせデボラ様のことだから、カイン様の後を追って必ず部屋から抜け出すだろうと。やはりここで見張っていて正解でした」
「お願い、見逃して!」
無駄だとは思いつつも、私はパンッと両手を合わせ、ヴェインに頼み込んだ。
ヴェインは眉尻を下げつつも、困ったように頭をボリボリと掻いている。
お、これはもしかして脈あり?と一瞬期待したものの、やはり現実はそう甘くなかった。
「かく言う吾輩もカイン様に置いて行かれた身の上ゆえ、見逃してやりたいのは山々ですが、そうなると後でイルマに叱られてしまいます。申し訳ありません、デボラ様」
「ぎゃああぁぁーーーっ!」
次の瞬間にはまたヴェインの肩に力ずくで担ぎ上げられ、屋敷内にとんぼ返りすることになってしまった。
くぅぅぅっ、イルマってば妊娠した後も有能すぎる!
こうして私のデボビッチ家逃走計画Part2はあっさり失敗に終わったのだった。
その後、私がヴェインに連れていかれたのは、天花宮の公爵の執務室。主人がいなくなったその部屋には、ハロルド、イルマ、マリアンナ、ノアレと、デボビッチ家オールスターが揃っている。
みんなヴェインの肩に担がれている私を見て、一様に苦笑を零した。
「いやぁ、見事に我々の予想通りに動いてくれますね、デボラ様は。あまりにわかりやすすぎて、哀れなくらいです」
「ノアレ殿、さすがにそれは失礼ですぞ」
失笑するノアレを、ハロルドが遠慮がちに諫めた。
私はというと部屋の中央のソファの上に下ろされ、ぐるりとみんなに囲まれる。
「わかりやすすぎてすいませんでしたねぇ。でも私、一度や二度の失敗じゃ諦めないわよ! なんとしてでもカイン様の後を追って王都に行くわ。あの時ああしてれば……なんて後悔、もう二度としたくないの!」
私はソファの上で胡坐をかき、腕組みしながら開き直った。
過去、イクセル叔父様やセシルから受けていた仕打ちを仕方ないものだと諦め、受け入れていた私。
だけどあの時、誰かに向かって苦しいと声を上げていたなら。
勇気を出して、あの環境から逃げる努力をしていたなら。
もしかしたら私の運命は大きく変わっていたかもしれない。
だから今回こそ、苦い後悔はしたくなかった。私が王都に行ってもできることなんてたかが知れているけれど、アストレーで心配しながら公爵を待ち続けるよりはずっとましなはず。
「王都に行くと言っても、その後どうなさるおつもりなのです?」
けれど感情論で動く私に鋭い指摘を入れたのは、冷静沈着なノアレだった。
「だからそれは……安い宿に泊まって、カイン様にバレないよう、自分で色々調べて……」
「事件が起きているのは主に社交界です。王都の下町でウロウロしても、何もわからないし、事件は解決しませんよ」
「うっ、それはそうだけど……」
強烈なカウンターパンチを食らい、私はしょんぼりと項垂れた。所詮は世間知らずの浅知恵だったという現実を、容赦なく突きつけられる。
「デボラ様」
けれどそんな私を援護をしてくれたのは、私をここまで連れてきたヴェインだった。
「お気持ち、吾輩にはよくわかります。カイン様にはカイン様の考えがあるのでしょう。ですが事態が逼迫している時こそ、頼りにしてほしい。一体何のための護衛なのだと、吾輩も直に文句を言いたい気持ちでいっぱいです」
「あら、そういえばヴェインはどうして置いて行かれたの? 私はてっきりあなたもカイン様と王都に行ったんだとばかり思ってたわ」
私が改めて疑問を口にすると、ヴェインとイルマは視線を合わせた。
ちなみに身重のイルマは大事を取って、私の向かいのソファに座らされている。
「おそらくカイン様なりの気配りなのだと思います。私の妊娠が発覚したせいで、カイン様はヴェイン殿にも内緒で王都へ旅立たれました。おそらく生まれてくる子を思ってのご判断かと……」
「それが水臭いというのだ!!」
ヴェインは突然声を荒げ、目の前の執務机をドンッと拳で叩いた。それまで抑圧されていた苛立ちが、一気に爆発したみたいだ。
「確かに吾輩には妻であるイルマや、生まれてくる子を守る義務がある! だがそれ以上に大恩あるカイン様をお守りする責任があるのだ! なぜそれをわかって下さらない!? このような気の遣われ様は、むしろ腹立たしくさえある!!」
「そうよね、わかるわ! ヴェインの怒りは当然よ!」
私は思わずヴェインの怒りに同調した。一緒にエキサイトし始めた私達を見て、イルマやノアレはやれやれと軽く肩を竦めている。
「吾輩、デボラ様の昨日の言葉には深い感銘を受けました。カイン様は領主としては確かに優秀で完璧。けれどいつもたった一人で頑張り過ぎてしまう傾向がある。だからこそ、ここぞという時には吾輩らを頼ってほしい。一人一人の力は小さくとも、きっとお役に立てることはある。まさに今の吾輩の気持ちそのものです」
「まぁ、それは確かに同感できますね」
「デボラ様の言うことはごもっともです」
「え」
そして意外なことに、私やヴェインの言葉にノアレやハロルドも深く頷いていた。その場にいる私以外のみんなが視線を合わせ、何やら無言で意思確認している。
「という訳で、カイン様のご意向に逆らうことになってしまいますが、デボラ様には詳しい事情をきちんとご説明させて頂こうかと存じます」
「詳しい事情?」
「カイン様があなたをわざわざ王都ではなく、このアストレーまで呼び寄せたもう一つの理由でございます」
ハロルドは落ち着いた口調で、私の知らなかった真実を教えてくれた。
それは私の実家であるマーティソン子爵家が、王都でグレイス・コピーの密売に深く関わっていたということ。
そしておそらくその口封じに屋敷に放火されただろうこと……。
だからこそ子爵家を抹殺した黒幕の手が、生き残りである私にまで伸びないよう、このアストレーで保護されていたこと……。
「そう……だったの。イクセル叔父様がそんな犯罪に手を染めていたなんて……。知らなかったとはいえ、姪として恥ずかしいと思うわ。本当にごめんなさい」
叔父の犯した罪を知らされ、私は再びがっくりと項垂れた。
そうか。傾きかけていた子爵家の家計が、一気に持ち直したのはそういうことだったのね……と、今さらながら合点がいく。
記憶を取り戻してからというもの、叔父のろくでなさは理解していたつもりだったけど、むしろ私が想像していた以上のクズだったと知らされ、心から辟易する。
故人に鞭打つのは本意ではないし、子爵家の家名に未練があるわけでもないけれど、なんてことをしてくれたんだという怒りは当然湧いてくる。
「デボラ様が謝罪する必要はございません。むしろ子爵家の火事であなたまで命を落とさずに本当にようございました。そんなわけでカイン様は、あなたの王都行きを認めるわけにはいかなかったのです。あなたという存在が事件の黒幕にとっては脅威となる可能性がある。王都はカイン様だけでなく、デボラ様にとっても非常に危険な場所なのです」
「………」
ハロルドが懇切丁寧に説明してくれたおかげで、私は公爵の意図をしっかり把握することができた。
まったく……。相変わらず公爵は、気持ちを伝えるのが下手過ぎるわね。私のこと心配してくれるなら、そう言ってくれればいいのに。
けれどそれをストレートに言える人なら、きっとこんなに好きになってはいない。不器用で頑固で融通の利かない公爵のそんなところに、私は惹かれたんだもの。
「それで全ての事情を知って、デボラ様はどうなされたいですか?」
「………」
「カイン様の願い通り、アストレーに留まるというのならそれもようございましょう。ですが、逆に王都に行くとなると……」
「みんなにはまた色々迷惑かけることになるわね。カイン様のお怒りを受けるのも覚悟の上よ」
私はハロルドの言葉を遮り、強い口調で言い切った。
全ての真実を知っても猶、私の決意は揺るがない。ううん、むしろより強く固まったとさえ言える。
「カイン様やみんなが心配してくれるのはとても嬉しいわ。ありがたいことだと感謝しています。でも叔父様が王都で許されない罪を犯し、その結果殺されたとしたなら、親族である私こそが事件の真相を突き止めなければ……とも思うの。もちろん私個人に何の力もない。もしかしたら王都に行ってもカイン様の足手まといになるだけかもしれない。それでも、私は……」
ぎゅっと両手を握り、下唇を強く噛み締めた。
胸の中に競り上がってくるのは、申し訳ないという気持ちと、怒りと、悲しみ、そして公爵を思う切なさ。それらがごちゃ混ぜになって、勝手に視界がぼやけ始める。
自分という人間のちっぽけさが、まどろっこしくて、情けなくて、とても悔しい。
けれどそんな私の前に立ち、そっと肩に手を伸ばしてくれたのはノアレだった。
「デボラ様、あなたはそのままでいいのです。あなたはあなたらしく、カイン様のそばにいてさえ下されば」
「……え?」
「守るべき存在がそばにいることで、あの唐変木も自分の命を少しは大事にするでしょう。あなたはカイン様にとってお守りのようなものです。あなたという存在が、あの男にとって唯一の救いであり、希望となる……」
「ノアレ……」
ノアレは穏やかに微笑むと、私の手を取りゆっくりとソファから立たせた。そしてその場にいる全員を見渡し、一度大きく頷く。
「……ということで、よろしいですね? 皆さん」
「まぁ、妥当なところでしょう」
「カイン様のお叱りは、家令である私が受けることに致します」
「留守の間、デボビッチ家のことはこのマリアンナにお任せ下さいませ。あ、それとイルマのことも」
「ありがとうございます。妻とお腹の子のこと、どうぞよろしくお願い致します」
「……え? ……………え?」
会話の流れが急に変わって、私はパチパチと瞬きを繰り返した。さらにノアレに「こちらへ」と手を引かれ、私は執務室から玄関ホールまで連れ出された。すると玄関前には数台の馬車が停まっていて、そばには旅衣装に身を包んだエヴァやレベッカ、それとコーリキやジョシュアの姿があった。
「あ、デボラ様、こっちです、こっち! お話終わりましたか?」
「お、おら、王都なんて華々しいとこに行くの初めてですけんど、これからもデボラ様のお役に立つために頑張りますだ!」
「デボラ様~、もちろん護衛にはオレ達が付きますから」
「元王国騎士として、今回こそは役に立って見せますよ」
そう言いながら、みんなはニコニコと明るく笑っていた。私は思わずポカンと口を開けたまま立ち尽くす。
あの、これって一体どういうこと……なのかしら?
私の悪すぎる頭じゃ、到底理解が追いつかないんだけど。
「えと、ハロルド……」
「デボラ様が王都に参られるなら、私ども家臣も皆、ついていこうということになりまして。事前にこちらで旅支度を整えさせて頂きました」
「――」
「デボラ様がみんなの反対を押し切って王都に向かうのは見え見えでしたからな。かく言う吾輩もついてまいります。デボラ様一人で暴走されるより、吾輩らが一緒のほうがカイン様もご安心されるでしょう」
――では参りますか、と、ヴェインが馬車の扉を開けてくれた。
刹那、私は、うっと、感動のあまり言葉に詰まってしまう。
何よ、これ。
何なのよ、もう最高じゃない、あなた達!
すっかりみんなに止められるとばかり思っていた私は、嬉しいサプライズに胸が震えた。
私の行動パターンが全部読まれていたのは悔しいけれど、それを上回るみんなの心遣いに思わず満面の笑顔になる。
うんうん、これこそ心が一つににまとまるってことよね!
三カ月前、デボビッチ家を訪れた時は、まさかここまでみんなと仲良くなれるなんて思いもしなかった。
「申し訳ありません、デボラ様」
そんな中、一人も申し訳なさそうに頭を下げたのはイルマだった。その眉間には深い皺が刻まれ、本当に辛そうな表情をしている。
「大変心苦しいのですが、今回私はついていけません。ですがエヴァとレベッカももう一人前。きっと私の分もあなたに仕えてくれると思います」
「そんな……イルマはお腹の子のことだけ考えていていればいいの。大丈夫よ、必ずまたカイン様を連れて、このアストレーに戻ってくるわ!」
「デボラ様……」
私はイルマの手を握り、彼女の赤ちゃんの健やかな成長を祈った。さらにノアレも前に進み出て、軽く頭を下げる。
「あいにくですが、私も王都までは行けません。数が減ったとはいえ、瑞花宮にはまだ患者が残っているので」
「そっか。そうよね……」
「ということで、あの朴念仁のことをよろしくお願い致します、デボラ様。あんなんでもアストレーには必要不可欠な領主なんでね」
ノアレらしい皮肉の利いた餞の言葉に、私は思わず笑ってしまった。
そしてみんなと束の間の別れを惜しんでいると、玄関にはケストランや他の使用人達も多く集まってきた。他のみんなも笑顔で私を送り出してくれるようで、温かい言葉が飛び交う。
「デボラ様、いってらっしゃいまし! 皆でお帰りをお待ちしております」
「道中お気をつけて! 王都から帰ってきた暁には、たくさんの土産話を聞かせて下さいね!」
「デボラ様、このノートを王都の料理長に渡して下さい。カイン様の少食対策用のレシピです。あ、もちろんデボラ様の好物なども記しておきました」
「こちらのことはどうかご心配なく。私ども残った者で、しっかり留守を守らせて頂きますわ」
こうして家令のハロルド、護衛のヴェイン・コーリキ・ジョシュア、侍女としてエヴァとレベッカが私と同行することになった。
逆にマリアンナ・イルマ・ノアレはデボビッチ家に残る。
馬車に乗り込む直前、ふと私は頭上の空を見上げた。
曇天からはちらちらと白い雪が降り、頬の上に落ちた雪は私の体温で溶けて透明な水滴に変わる。
空気は肌を刺すように冷たいのに、王都に旅立とうとする私の心は羽毛のように軽く、温かかった。アストレーで過ごした日々が、確実に私を変えたのだ。
「それじゃあ行ってきます!」
私は揚々と馬車に乗り込み、みんなに向かって大きく手を振った。
笑顔で私を見送ってくれる人、逆に涙ぐんで声が出ない人、リアクションは様々だ。
このアストレーで過ごしたのはたった三カ月なのに、今では本当の故郷のような気さえしている。
だからこそきっと、ここに帰ってこよう。
公爵と……いえ、カイン様と一緒に。
またみんなと一緒に、笑って過ごせる日々を取り戻すんだ。
けれど――
王都には本物の魔物が住んでいる。
その魔物の罠にかかり、ゲーム設定どおりの破滅ENDが待っていることなど――
この時の私に、わかろうはずもなかった。
第二部はこれにて完結です。
引き続き最終編となる「王都編」もよろしくお願い致します!




