54 カインという男11
「デボラ様!」
「遅くなってしまい申し訳ありません! でももう大丈夫っスからね!」
マルクとその仲間達を鎮圧した後、コーリキとジョシュアが素早くデボラのそばに駆け寄った。マルクに殴られたのか、デボラの片頬は赤く腫れていて痛々しい。
カインは再びマルクを睨みつけ、この男をどう殺してやろうかと腸が煮えくり返る思いでいた。実際、本当に殺せるわけではなかったが。
「くそ……くそっ! カイン=キール、お前さえいなければ……。おまえがこのアストレーにやってこなければ、俺達はもっと……もっと……!」
「言いたいことがあるなら牢獄の中で言え。と言っても、看守も誰もお前など相手にはしないがな。――ヴェイン」
「はっ」
カインがこの船を特定できた種明かしをすると、マルクは醜く顔を歪めて悔しがった。保安局に連行される間も、不気味な捨て台詞を残していく。
「くそ……このままで済むと思うな、カイン=キール。おまえを目障りに思っている人間は大勢いる。いつか誰かがお前を殺す。覚悟しておくんだな!」
「フン……」
そんなお決まりの負け惜しみなど、カインには蚊に刺されるようなものだ。
アストレーの領主になってから四年、カインは常に命を狙われ続けてきた。今さら悪党の脅しになど、屈したりしない。
「デボラ」
マルクが連行されるのを見送った後、カインはデボラに近づき声をかけた。
デボラは殴られた後遺症なのか、どこかぼんやりした様子だ。
いや、殴られただけではない。抵抗を封じるため、グレイス・コピーを無理やり吸わされたのかもしれない。
ぼやいても栓なきことだと知りながら、カインはもっと早く助けに来られれば……と後悔する。
一方肝心のデボラといえば、恐ろしい目に遭って泣き言をいうかと思いきや、この期に及んでカインの胸ぐらを掴み、激しくガンを飛ばしてきた。
「こ、殺され……」
「……ん?」
「私以外の人間に……殺されたりしたら……ぜ、絶対許さない……っ」
「………」
デボラに睨みつけられて、カインは思わず頬の筋肉を緩めた。デボラから向けられる激しい感情が憎しみなのだとしても、いま彼女の心を占領しているのが自分なのだと思うと、背徳的な喜びが湧いてくる。
「私以外の人間に殺されるな……か。ならば俺からも一言いわせてもらおう。……デボラ」
「……はい」
「忘れてなぞ、やらないぞ」
「――」
「お前のような愚かで間抜けな女、忘れられるはずがないだろう? だからそんな言葉は、二度と口にするな。いいな?」
「……っ!」
カインはデボラの頬に触れながら、アヴィーからの伝言の答えを返した。
いつの間にかデボラの頬はぽろぽろと流れる涙で濡れ、か細い震えが指先から伝わってくる。
……本当に無事でよかった。
デボラの体温を手袋越しに感じ、カインはようやくホッと息をつくことができた。
だがその直後、デボラの容体が急変する。カインの腕の中に抱き留められたまま、突然意識を失ったのだ。
「デボラッ!」
「デボラ様!」
「カイン様、これはまずい。至急屋敷にお連れしましょう!」
「……っ!」
ヴェインに急かされ、カインはデボラを横抱きにしたまま慌てて船を出た。
自分の腕の中でぐったりとするデボラを見つめながら、カインは歯噛みする。
守りたかったのに守れなかった。
それはまるで自分の無力さを思い知らされるようで、カインの両腕は心なしか震えるのだった。
その後、デボラは瑞花宮に緊急入院することになった。ノアレの診立てでは、やはりグレイス・コピーの急性中毒を起こしているとのこと。
また今回のことをきっかけに、デボラの失われていた記憶が戻ってしまう可能性が高い。
そう聞かされて、カインは一瞬、息が止まりそうになった。
それからゆっくりと心音が大きくなり、耳の奥でどくどくと響き渡り始める。
「ノアレ、デボラは持ちこたえられるか?」
「私が今まで何人の患者を診てきたと思っているのです。それにこのような時のために用意された瑞花宮でしょう?」
「………」
「ですからカイン様はデボラ様の手を、強く握って差し上げていて下さい。繊細な心が、無残に壊れてしまわないように」
「………、わかった」
カインは意識を失っているデボラの枕元に近づき、そっと手を握った。
華奢で今にも折れてしまいそうな手を、大事に慈しみながらふわりと包み込む。
「デボラ、お前は俺を殺したいのだろう? だが見ろ、俺はまだこの通りピンピンしているぞ。だから……」
カインは一瞬息を呑みこみ、今の自分の正直な思いを告げる。
「――だから是が非でも戻ってきて、お前はお前の復讐とやらを果たさなくてはな……」
それはカインにしてみれば、不器用な自分なりに絞りだした率直な言葉だった。
だが周りからは、当然大不評の嵐である。
「カイン様、それなんか間違ってます……」
「いや、かけるべき言葉はもっと他にあるでしょうに……」
「なんでよりによって、そのチョイスなんスか……」
「カイン様、さすがに吾輩でもこういう場合の正解はわかりますぞ……」
「カイン様は見かけよりも、ずっとアホだべ……」
メイドのレベッカにまでアホ呼ばわりされ、カインは軽く落ち込んだ。
自分の一体何が間違っているのか、この期に及んでも全く理解できない。
相変わらず自分の感情の機微にだけは疎いカインだった。
それから約五日間ほど、デボラの昏睡状態は続いた。
デボラを治療するノアレは背中の火傷の痕を見て、この傷を負わせた奴は血も涙もない奴だと吐き捨てる。
その意見自体には賛成したものの、医者のノアレがデボラに関わるだけで、カインはなんだかイライラしてしまう。おかげでノアレから『嫉妬大魔王』と不本意な称号までもらうことになってしまった。
「これじゃ先が思いやられますね。将来、デボラ様が妊娠・出産なさる時も、医者相手にいちいち嫉妬なさいますか」
「嫉妬なんかしていない」
「してるじゃないですか」
「していない。それとデボラが妊娠・出産する予定もない。まさかお前が孕ませるつもりじゃないだろうな」
「あのね、私だってあなたに殺されたくはないです。謹んでその役目は辞退しますよ!」
ノアレは完全に呆れ返った様子で、カインを軽蔑の眼差しで見た。
その視線に居心地の悪さを感じ、カインは珍しく自分から目を背けてしまう。
(大体妊娠・出産ってなんだ。デボラが誰かの子供を産む? ないない、ありえないだろ。このアストレーにいる限り……)
そこまで考えて、カインは自分の中で渦巻く様々な矛盾に気づいた。
元々カインは今までの妻達と同じように、デボラとはいずれ離縁するつもりでいた。離縁した後は元妻達の幸せを願い、潔く身を退くのだ……と。
だがそう思いながらも、カインはデボラを離縁するつもりがない自分にも気づいていた。
当然のようにこれからもデボラはアストレーに留まり続ける。
そしてこのアストレーにいれば、領主の妻に手を出す不埒な輩も存在しない。
故にデボラが妊娠・出産することもない。
もしデボラに子が生まれることがあるとするならば、それは夫である自分の子以外に有り得ない。
(おいおい、待て。考えが飛躍しすぎだろ、俺。そもそも俺はそんなつもりでデボラを娶ったわけでは……)
カインは口元に手を当て、思考の沼にはまり込んだ。
元々自分の感情を表現することが苦手なカインは他人には親切にするくせに、自分のこととなると、途端におざなりになる傾向が強かった。
他人に誤解されようが、恨みを買おうが総スルー。
アストレーの領主になってからは命を狙われることも多くなったが、もし殺されるとしたなら、それが自分という人間の運の尽きなのだろうと、どこか達観してさえいた。
けれどそんなカインの感情を揺さぶったのが、デボラという少女だ。
――デボラになら殺されてやってもいいな。
そう笑い飛ばせるほどには、カインは彼女のことを気に入っていた。
ならばいっそこのアストレーという大きな鳥籠の中にデボラを閉じ込めてしまうのはどうだろう?
そうすれば彼女という小鳥は自分の許から飛び立たず、心地よい鳴き声で囀り続けるに違いない……。
それはカインが生まれて初めて感じた独占欲。
どんな言葉で言い訳をしても、デボラを自分の手元から放したくない。
カインの本心は、その一言に尽きるのだ。
(デボラ、早く目覚めろ。そしていつものように俺に悪態をついてくれ。でないとなんだか俺の調子も狂う……)
カインはデボラが寝込んでいる間はずっと瑞花宮に通い詰め、今か今かと眠り姫の目覚めを待ち続けていた。
時折苦しそうにデボラが呻けば、カインの胸もまた息苦しくなる。
それはまさに主人を待ち続ける忠犬のごとく。
だが彼女の目覚めを願いながらも、カインの心には一抹の不安もあった。
もしもこの後本当にデボラの記憶が全て戻ってしまった時、自分達の関係はどう変化してしまうのだろう。
それを想像すると、少しだけ――怖かった。
幸いにもデボラは入院五日目で意識を取り戻し、その後は重い後遺症もなくゆっくりと回復していった。
ただしデボラが目覚めた直後、カインは喜びをうまく表現することができず、逆にデボラを怖がらせる結果となってしまった。
ヴェインやコーリキに強制退出させられた時のあの屈辱、今でも忘れられない。
そして何より重要なこと――
それはデボラの失われていた記憶が、今回のことで完全に戻ってしまったということだ。
ノアレから報告を受け取ったカインは、思わず肺の中の空気全てを吐き出すような重いため息をつく。
やはり戻ってしまったか。
その時カインの脳裏に広がったのは、恐怖という名の二文字だった。
本来ならば彼女が記憶を取り戻したことを喜んでやらなければならないが、過去を思い出したデボラの精神はやはり不安定なままだと言う。
今まで築いてきたものが一気に瓦解するような……そんな心許なさがカインの心を浸食していく。
「カイン様が案じておられた通り、デボラ様の性格がガラリと変わってしまったように感じます。常に周りの視線を気にして、おどおどなさっているような……。今のあの状態が続くのは、デボラ様本人にとってもよくありませんね」
何よりデボラ様自身が、デボラという存在を認められていない。それが大問題だ、とノアレは報告を継ぎ足す。
その意見にはカインもおおむね賛成である。
そもそも子爵家で虐待を受けていた頃のデボラは、全てを諦め、ただ生きているだけの人形だった。
だが子爵家の呪いが解け、このアストレーで暮らし始めたデボラは、生き生きと明るい笑顔を見せていた。
だからこそつらい過去を乗り越え、これからはアストレーで逞しく生きていってほしい。
詰まる所、カインの願いはただ一つだったのだ。
しかしデボラの笑顔を復活させるにはどうしたらいいのか、元々人の感情に疎いカインには具体的な方法がわからない。
そしてカインがまごまごしている間に、イルマからある報告が届いた。
「実はデボラ様が昨夜、デボビッチ家から出奔しようとなされました。様子がおかしかったのでギリギリでお止めしましたが、今も相当思い悩んでおられるご様子です」
この時、カインの胸に去来した思いを端的に表すとこうである。
(……やっぱり……間抜けだ!)
それは自分という人間の価値を認めようとしないデボラに対する、理不尽な苛立ちそのもの。
同時に自分を大切にしようとしないデボラに言ってやりたい言葉が、カインの脳内から次々とあふれ出した。




