51 カインという男8
デボラがデボビッチ家にやってきてからというもの、使用人達の間には大きな変化が起きた。
デボラはカインに嫌がらせをするため自ら料理をしたり、邸内の模様替えをしたり色々策を弄したが、それらは全て裏目に出て、ケストランやマリアンナ達の好感度を爆上がりさせる結果となってしまった。
最近では最もデボラを警戒していたヴェインでさえ、「デボラ様は真面目に筋肉体操のメニューをこなしているようです」と、デボラに筋肉体操の指導をするのが密かな楽しみになったようだ。
それもこれもデボラという少女が持つ本来の明るさの賜物だろう。
暗殺に人一倍向かない少女は、短期間のうちに多くの者達の心を攫って行った。
カバスの災害復興支援で忙しかったカインはデボラと最低限の関わり合いしか持てなかったが、デボラがなんだかんだと楽しそうに過ごしているのを見て安心した。
特にデボラの功績を褒めてやると、デボラは毎回悔しがって顔を真っ赤にして怒る。その反応が楽しすぎて、ついつい意地悪をしてしまいたくなるのだった。
そして次に何をするのかと期待していたら、今度はアストレーの子供達のために学校を作り出したいと言い出した。
なかなか面白いと、カインは笑みを零す。
カインとて領主になってより四年、アストレーの教育問題を放置してきたわけではない。だがグレイス・コピーをはじめとする密輸対策や、抜本的な領地経営の見直し、さらにカバスの復興支援が何より優先されて、教育問題は後回しになっていた。
もちろん学校一つ作ったところで、問題の全てが解決するわけではない。が、何もしないよりは動いたほうが断然にいい。
何よりデボラ自身がやる気になっているのだからと、カインは一つ試練を与えることにした。
それが学校を作るための事業計画書作りだった。
もちろんデボラ自身に計画書を作らせなくても、カインがハロルドや部下に命じれば、学校建設の準備はスムーズに進んだだろう。
だがカインは、敢えてデボラが理想とする学校を見てみたくなったのだ。
それにこの学校づくりは、何も持たぬデボラにとって心の支えになるかもしれない。――そんな確信があった。
しかしその夜、唐突に事件が起きた。デボラが体調を崩し、寝込んだというのだ。
きっかけは侍女のエヴァの何気ない一言。デボラの事情を知らないエヴァは、デボラにウィルフォード学園について質問してしまった。
だが子爵家で使用人扱いを受けていたデボラは、学園に通ったことがない。学生時代の記憶がない不自然さに、デボラ本人も気づいてしまったようだ。
「デボラ様は自室でお休みになられています。もしかしたら、これをきっかけに全ての記憶が戻ってしまうのでしょうか……」
経緯を報告しに来たイルマは、デボラのことを心から案じていた。
カインもまた、眉根を寄せて深く考え込む。
デボビッチ家で暮らすようになってから、本来の明るさを取り戻したデボラ。
だがもし今記憶を取り戻したら、彼女は一体どうなってしまうのだろう。
それを確かめるため、カインは初夜以来初めてデボラの寝室を訪ねることにした。
「セシル……、ごめんなさい、セシル……」
「………」
寝室で一人眠るデボラは、亡くなった従兄弟の名を寝言で呟きながら、ひどく魘されていた。
自分に歯向かってくるいつものデボラとは違い、今の彼女はとても儚げだ。
せめて悪夢から解放してやりたくて、カインはデボラの名を呼ぶ。するとデボラはその声に応えて目覚め、じっとカインのことを見つめ返してきた。
「……カイン様」
「ん?」
「私、今日エヴァに質問されて気づきました。私にはマーティソン家のことしか記憶がない。それ以外は何も……。ウィルフォードに通っていた記憶も、子爵令嬢として夜会に出席した記憶も、まるで最初から何もなかったかのように、真っ白なのです」
「……」
夢から目覚めたデボラは、自分の記憶の不確かさに懐疑的になっているようだ。
咄嗟にカインは、まずい、と思う。
本来ならばデボラの記憶が戻ること自体は喜ばしいことなのかもしれない。だが今の状態で記憶が戻ったとしたら、デボラはまたあの不幸で暗い瞳をした頃に戻ってしまうだろう。
それほどまでに今のデボラは不安定で、ほんの少しの傷を負っただけでその心は容易く死んでしまいそうだった。
「以前もお話ししましたわよね。私はカイン様と初めて会った時の記憶がない……と」
「……」
「そもそも記憶がないのではなく、私が忘れているとしたら? 私、何か大事なことをどこかに置いてきているような……」
「大事なこと?」
「わからない。それさえもわからないのです……」
「……」
デボラの視線が宙をさまようのを見て、カインは咄嗟にデボラの上に覆いかぶさった。
今の時点で、全てを思い出させるのは得策ではない。
そう判断したカインは、デボラの気を逸らせるために彼女の怒りを再燃させることを思いついた。
怒りは悲しみを凌駕する。
これまでと同じように、記憶など些細なことだと思えるほどに、彼女を怒らせればいいのだ。
「家族以外のことは忘れた……か」
「あ、あの、カイン……様?」
「ま、それもいい」
カインに突然組み敷かれ、デボラはパチパチと瞬きを繰り返した。
体の上にかかっていた毛布が乱れ、ネグリジェ姿のデボラは実に悩ましい姿である。
「あんな目障りな家族のことなど、どうでもいい。デボラ、お前は今や俺のものだ」
わざと挑発するように言い放つと、デボラはまんまとこちらの策略に乗ってきた。
それまで悲しそうだった瞳は怒りの炎で真っ赤に燃えはじめ、反抗心を露わにする。
そうだ、それでいい。
もっと怒れ。
もっと俺を憎め。
そうすることでデボラ自身が奮い立ち、前に進めるというのならば、自分はいくらでも悪役を演じよう。
あまりにも単純すぎるデボラの反応を目にして、カインはしてやったりと口角を上げた。わざとデボラの神経を逆なでする様な言葉を選び、彼女の復讐心を煽っていく。
「聞き捨てなりませんわね。私の家族を愚弄するどころか、ありもしない事実をそう堂々と宣言されては」
「お前は俺の妻だ。……違うか?」
「形ばかりの妻……の間違いでございましょう?」
確かにそうだ。デボラの言うとおり、彼女はカインにとって形ばかりの妻。
今までも、そしてこれからも。
セリーヌやアイーシャ達と同じように、いつかはこの手を離してやるつもりでいた。
だが――
(やはりいい体してるな)
カインはデボラを組み敷きながら、思わず目を眇める。
こんな状況だというのに、いつの間にかカインはデボラの放つ色香に魅了されていた。
襟ぐりから覗く細く華奢な鎖骨とは裏腹に、ドンと前に突きだした胸はかなりボリュームがある。抵抗しているせいで裾からはだけている脚のラインも、まぁ何というか、ぶっちゃけエロい。
こいつ、もしかして俺を煽り返しているのか……と疑いたくなるほどの、甘い誘惑。
だがそれも仕方ない。稀代の悪女デボラ=デボビッチは、男を虜にすることにかけては天才的という設定があるのだから。
「形ばかりの妻……だと言ったな?」
「……」
「ならば本物の妻にしてやろうか?」
「っ!?」
デボラを怒らせるならば言葉で煽るだけで十分だった。……が、気づけばカインはデボラの細い顎を捕らえ、顔を近づけていた。
黒く艶やかな長い髪はイルマ達によって香油で手入れがなされているのか、独特の光沢を放っている。触れている肌は白桃の果肉のように柔らかく、齧り付いたらとても美味そうだ。
――なぜこの娘の前に立つと、俺はただの男になってしまうのだろう?
カインの理性はそろそろ退くべきだと判断していたが、あいにく体は言うことを聞かない。
デボラに怒りをぶつけられればぶつけられるほど、なぜか欲望が昂った。
「お放しください。そういう事がしたいなら、瑞花宮で存分に楽しまれればよいでしょう」
「やきもちか」
「!」
案の定、デボラは渾身の力でカインの胸元を押し返して拒否するが、カインのほうは解放してやる気など毛頭なかった。
というか、そもそも瑞花宮は病院なんだが。
デボラがまた何か勝手に勘違いしているようだと、カインはこの時ようやく気付いた。
「デボラ」
「――」
そしてデボラの抵抗を力ずくで封じ込め、真っ赤な唇を躊躇いなく奪う。
刹那、吐息の熱さにくらくらと眩暈がした。
デボラの唇は非常に肉厚で、想像したとおりの甘い味がする。
唇の形を崩さぬようにそっと柔らかな隆起を慈しめば、触れ合う部分は焼けるように熱を孕んだ。
突然の口づけにデボラは動きを止め、石のように硬直している。
この初心な反応からして、おそらく男に口づけされるのは初めてなのだろう。
デボラに最初に触れた男は自分なのだと確信したカインは、これまでにない喜びと高揚感を覚えた。
――いっそこのまま抱いてしまうか……。
確実にデボラの恨みを買いそうな醜い欲望が、鎌首を擡げたその時……。
「おやめ下さい……!」
「………っ!」
不意に、唇に噛みつかれ、カインは軽く流血した。
痛みはほとんど感じなかったが、それでようやくカインの目が覚める。
――ヤバイ。この俺が本気で流されそうになった。
カインは己の焦りを悟られまいと、慌ててデボラの上から身を退く。
そして、
「……興醒めだ」
と、半ば逃げるようにしてデボラの寝室から立ち去った。
本当は醒めるどころか、デボラに刺激された男としての本能は際限なく高まっていたが、無垢な少女に対しそんな欲望を抱くこと自体がひどく汚らわしく思えて、カインは惨めに退散するしかなかったのだ。
(今のは何だ、恐ろしい……。本気で自分を見失うところだったぞ……)
慌てて執務室に戻ったカインは、誰もいないことを確認してから深く息を吐く。
心臓はばくばくと早鐘を打ち、頭の中はまさに自己嫌悪の嵐。
椅子に深く腰掛けたまま天井を仰ぎ、血で濡れた唇を親指でグッと拭った。
(最悪だ。寸前で思い止まれたからよかったものの、傷ついたデボラに対し、俺は何をやっているんだ……)
この後カインは、自分の行動を猛省し、近年稀に見るほど落ち込んだ。
本気で女性を愛したならば、身も心も一つに結ばれたい。
そんな男として当たり前の欲望を、カインは元来の生真面目さ故に肯定できなかったのである。
(なんだかデボラを妻に迎えてから、猛スピードでヤバい何かに浸食されているような気がする。この症状がこれ以上進行しないように、用心しなければ……)
カインは己に強い自制をかけ、デボラと自分の間にきちんと一線を引かねばと改めて誓う。
それは11も年下の少女に惑わされた男の愚かな選択。
この年になって生まれて初めて恋に落ちたカインは、冷徹クールキャラから究極の拗らせキャラへとランクアップするのだった。




