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49 カインという男6



(なるほど、初夜にかこつけて俺を暗殺するつもりだったのか。それにしても間抜けだ。間抜けすぎる……)


 カインは暗い廊下側からデボラの寝室を盗み見て、何とも表現しがたい不思議な気持ちになっていた。

 どうやらデボラの独り言をまとめると、彼女は子爵家に放火した犯人がカインだと勘違いしているらしい。そして家族の仇を討つために、敢えてデボビッチ家に嫁いできた。


 その覚悟だけを見るなら実に勇ましく美しいが、明らかな濡れ衣を着せられたカインは「俺ってそんなに人相悪いか?」と少し落ち込む。

 マリアンナやイルマがそばにいたなら「ええ、人相悪いですよ」と遠慮なくツッコんでいただろうが。


(こりゃだめだな。今のデボラに俺の話は通じない。これが形式上の結婚だということを伝える前に、まず子爵一家殺害の疑いを解かないと……)


 そこまで考えて、カインは暫し考え込んだ。

 自分の疑惑を晴らすこと自体はそう難しいことではない。マーティソン子爵が薬物取引の罪を犯していたこと、その口封じに殺されただろう事実を教えてやれば、デボラも自分の誤解にすぐ気づくだろう。


 だが誤解が解けたその後は?

 もしもカインが仇でないと知ったなら、デボラはまたあの暗い瞳をしたデボラに逆戻りしてしまうんじゃないだろうか?

 今彼女を強く突き動かしているのは深い悲しみではなく、カインへの激しい怒りなのだ。


(落ち込まれるよりは、今みたいに怒っているほうが百倍マシに思えるな。それにもしかしたらマーティソン家で過ごしていた9年間のほうが異常で、今のデボラのほうが本来の彼女なのかもしれない……)


 虐待の加害者が亡くなったことでデボラは記憶障害を起こしたが、奇しくもそのおかげでデボラは本来の自分を取り戻しているように思える。

 少し……いやだいぶ間抜けで、だが生命力に満ち溢れている少女。

 以前のデボラより今のデボラのほうが、カインには数倍好ましく思えた。


「ふぅ……むにゃむにゃ……、叔父様、セシル……私は必ず仇を……」


 そして肝心のデボラはというとカインの訪れを待ちくたびれたのか、さっさとベッドに入り眠りの国へ旅立ってしまったようだ。それまで廊下の影に身を潜めていたカインはそっとデボラの枕元まで近づく。


「間抜けだな……」


 自分を暗殺しようとしているとは思えないほど、デボラはすやすやと暢気に寝ている。


「本当に間抜けだな……」


 だがその寝顔を見て、カインはなんだか愉快な気分になってきた。

 こんなに可愛らしい暗殺者、見たことがない。

 それに考えていることが全部無意識に言葉に出てしまうような正直者が、自分を殺せるとは到底思えなかった。


「ま、そのままでいい」


 口に出して、ふと違和感を感じて言い直す。


「その方がいい……」


 カインは微笑んだ。

 デボラの額にかかる前髪を軽く梳き、彼女の眠りがいつまでも穏やかなものであるようにと心から願った。

 今にして思えば、この時からすでにカインは急速にデボラに惹かれていたのだろう。

 だが元々朴念仁であるが故、自分の気持ちに気づけず(以下略








 とにもかくにも。

 こうしてカインはデボラの意図を知りながらも、彼女の行動を逐一静観することにした。事情を知る者達にも、敢えて見て見ぬふりをしろと命じる。


「ほ、本当にそれでよろしいのですか? 曲がりなりにもデボラ様はカイン様の命を狙っているんですよね?」


 さすがにこの通達には、イルマをはじめとする常識人は戸惑いを見せた。

 その中で唯一ノアレだけが、


「今回の奥方様は中々面白い方ですねぇ。俄然興味が湧いてきました」


 と、なぜかカインの提案にノリノリだった。

 常日頃からカインの安全に気を払っているヴェインはあからさまに苦虫を潰したような顔をしていたが、「俺があの間抜けな令嬢に殺される阿呆に見えるか」と問えば、「それはさすがにあり得ません」と満足のいく答えが返ってきた。


 つまりデボラのカイン=キール=デボビッチ殺害計画は、当初から関係者にバレバレだった。

 デボラがこの事実を知ったなら顔から火を噴くだろうが、幸いデボビッチ家の使用人達は皆思慮深く、その事実をデボラに悟らせることはなかった。




 





 次にカインがデボラに接触したのは、翌日のこと。

 領主の執務が忙しいカインは、なんだかんだとデボラを放置する気満々だったが、図書室で昼寝していると、なぜか彼女のほうからフラリと近寄ってきたのだ。


「本当に寝ているのかしら……」


 人の気配に敏いカインはすぐに目覚めたが、デボラの様子を見るために遭えて狸寝入りをする。


「やったわ、今がチャンス! 昨日の初夜のリベンジよ!」


 相変わらず考えていることを全部口に出さないと気が済まないデボラは、いそいそと凶器を探しに別の書棚のほうへと歩いていった。

 この広い世界で一番暗殺者に向いていない人物コンテストを開催したならば、優勝はぶっちぎりでデボラだろう。

 そんなことを考えていたら、また自然と腹の底から笑いが湧いてきた。


「――よぉ」

「ぎゃあっ!」


 案の定、分厚い本を探し終えたデボラにこちらから声をかけると、デボラはカエルを引き潰したような醜い悲鳴を上げた。

 貴族の令嬢らしからぬ飾らぬ態度は、いっそ清々しいくらいだ。


「公爵様、こんなところで居眠りしていては風邪をひきます。大事な体なのですから、ご自愛なさって下さいませ」

「んー……」


 とりあえずデボラは必死に猫をかぶり、良妻を演じようとしていた。

 カインのことを名ではなく「公爵」と爵位で呼ぶ。

 いつものカインならばそんな些細なこと、別段気にも留めないのだが……。


「なんか、しっくりこない……」

「公爵様?」

「そう、それ」


 なぜかこの時、カインはデボラの呼称に不満を覚えた。

 他人行儀な……と言えば、元々他人ではあるから当たり前なのだが、この時はなぜかデボラに自分の名を呼ばせたらどんな心地がするのだろうと閃いたのだ。


「公爵様……て呼び方、なんか変だ」

「でも公爵様は公爵様でございますでしょう?」

「堅苦しい」


 きょとんと首を傾げているデボラを見て、カインは意地悪く笑った。

 怒ったり、猫をかぶったり、かと思えば何も知らぬような無垢な表情を見せる。

 ほとんど表情を動かすことのないカインとはまるで正反対。だからこそ興味を惹かれ、もっと違う顔も見てみたいと思ってしまう。


「――カイン」

「へ?」

「カインでいい。皆そう呼ぶ」

「――」


 カインの期待に、デボラはこれ以上ない赤面で応えてくれた。

 まるで熟れた果物のように見る見るうちに頬の温度が上昇して、ルビーの瞳はわずかに羞恥の涙で潤む。わなわなと震える唇はプルンと艶やかで弾力があり、啄んだらさぞ甘い味がするように見えた。

 なんてことはない、カインの目に映るデボラの表情は中々に扇情的で、男の欲を刺激するのに十分な威力を秘めていたのだ。



 ――やはり美しい娘だ。

 もしもこのまま閨に連れ込んだなら、どんな甘い声で鳴くのだろう?



 カインはこの時、そんな不埒な感想を抱いていた。

 デボラはカインの自分に対する好感度が-100だと信じて疑っていなかったが、真実はその逆。カインの思考はデボラの予想をはるかに飛び越えて、18禁ゾーンにまで達していたのである。


(バカらしい。デボラもいつものように形ばかりの妻だ。女日照りが続きすぎて、俺も耄碌したか)


 もちろんそんな感情の変化にカイン自身が戸惑い、すぐさま男としての欲情を打ち消した。

 デボラの自分に対する殺意が純粋なものなのだとしたら、今自分がデボラに抱いた衝動は邪そのもの。さすがのカインもバツが悪くなったのである。


「カ、カイン様……」


 そしてデボラは、恥ずかしげに、それでも精いっぱい己を奮い立たせてカインの名を呼ぶ。

 その姿にさえ、カインは今まで経験したことがない喜びを感じてしまった。


「カインでいい」

「呼び捨ては……さすがに無理です。どうかご容赦下さいませ……」


 デボラの表情には「これは屈辱!」という文字がでかでかと書いてあったが、それがまたおかしくてカインは口元を緩やかに綻ばせた。



 ――名前を呼ぶだけでこんなに恥ずかしがるのなら、そのドレスを脱がせて全てを奪ってやったのなら、今度はどんな表情で俺を見つめるのだろう?



 後に、ノアレに「カイン様って本当むっつりスケベの典型ですよね」と言わしめる、このカインの行動原理。


 それは当人の予想を遥かに超えて、猛スピードで心と思考を蝕んでいくのだった。


 



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