48 カインという男5
再会したデボラは以前と同じような粗末なワンピースに身を包み、一見令嬢らしからぬ出で立ちだった。
だが大きく胸を張り、真っ向からカインと対峙するその度胸は本物だ。
カインの前でも全く物怖じせず、暴力を諫めようとする態度には彼女なりの正義感が透けて見える。
デボラの強い怒りを秘めた瞳に見つめられながら、カインは思わずつぶやいた。
「こんな女だったか……?」
――と。
それがまた癇に障ったようで、デボラの眉尻はますます吊り上がる。
腕組みしながら仁王立ちするデボラは、明らかにカインを敵視していた。そんな二人の間で、ハロルドだけがうろうろと慌てふためいている。
「あら、公爵様は結婚する前から新しい花嫁にはもう飽きられたようですわね」
「………」
デボラはカインを前にしても一歩も引かず、むしろカインに痛烈な皮肉を投げかけてきた。その言葉を耳にし、観衆の間からざわめきが起こる。
「え? じゃああれが新しい奥方様?」
「そうか……なるほど、かわいそうに……」
「カイン様は相変わらずねぇ」
――カイン様に娶られるほど、あの奥方は困窮しているのか……。
この四年の間で領主が思いの外お人好しであることを悟った人々は、カインに保護されるほどの身の上であるデボラに同情していた。
当のデボラには、また違った意味に聞こえていただろうが。
「フィオナ!」
「に、兄さん!」
「!」
カインがデボラに気を取られている隙に、マルクが妹を取り返そうとしたので、咄嗟に蹴り飛ばしてやった。するとまたガンガンと非難めいた視線が飛んでくる。
もしかしたらデボラの目には、自分がマルクをいたぶっているように見えるんだろうか?
そう推測しながらもわざわざ訂正するのも面倒くさくて、カインはそのまま勘違いさせることにした。
「行くぞ、ヴェイン」
「はっ」
そして力ずくでフィオナの身を保護し、マルクの店の前から立ち去る。
その間も背中に強い殺気を感じ、カインはまたまた首を傾げた。
(あんな気の強い女……だったか?)
おかしい。
自分が保護しようとしていたデボラはもっと暗い瞳をしていて、全てを諦めたかのような哀れな少女だった。
だが今再会したデボラは正反対。生きることを諦めるどころか、真正面からカインに噛みついてきた。
あらかじめカインからデボラの事情を聞かされていたヴェインも、狐につままれたような顔をしている。
「カイン様、あれが噂のデボラ嬢ですか?」
「ああ、そのはず、なんだが……」
「お話に聞いていたのと大分印象が違います。それにデボラ様のあの隠しようもない殺気……」
これまで数々の危機からカインを守ってきたヴェインは、当然デボラが放つ不穏な空気にも気づいていた。カインが新しい奥方を娶るというので、今度はどんな哀れな女がやってくるのかと思っていたが、これは同情している場合ではないと判断する。
「カイン様、お気を付け下さい。もしやあのデボラという令嬢、マーティソン子爵同様、敵と繋がっているのでは」
「まさか」
ヴェインの意見を、カインは即座に否定した。
さすがにデボラに対し、そこまでの疑いは持ってない。何せカインはマーティソン家で虐げられるデボラを直に見ている。全てに絶望していた少女が、悪事の片棒を担いでいるとは到底思えない。
「兄さん、兄さん……」
そして保護したフィオナは兄の洗脳下にあり、さめざめと泣き続けるだけだった。
仕方なくカインは来た道を引き返し、デボラの馬車に同乗することにする。
「公爵も同じ馬車に乗るんですの? はぁ……最初から散々な目に遭いますわね」
「………」
後から馬車に乗り込む際、デボラは小さな声で呟いた。
――おい、聞こえているぞ。
そうツッコんでやりたいものの、デボラは自分の独り言に気づいていないようだ。カインと向かい側の席に座った後は、腕を組んでひたすら不機嫌アピールをしている。
(……なるほど、面白い)
カインはそんなデボラのことを、よく観察してみることにした。
この少女に大きな変化をもたらした原因は一体何なのか。
珍しく興味を惹かれたのだ。
デボビッチ邸に着くまでの間、馬車の中にはフィオナの啜り泣きの声だけが響いていた。非道な兄の下で洗脳されたフィオナには同情するが、あまり泣かれるのもうっとおしい。元々カインは気の弱い女が苦手なのだ。
そんな風に、憂鬱な気分になっていると。
「あまり悲観しないで。生きてさえいれば、いつかまたお兄様と会える時が来ます」
「あ、ありがとうございます……」
デボラはフィオナのことを思いやり、涙を拭くためのハンカチを差し出していた。
案外優しい所もあるんだな、とカインは冷静に分析する。
むしろデボラはフィオナと自分の境遇が似ていることに気づき、一緒に泣き始めるかと思っていたのだが……。
悉く自分の予想が外れて、カインはデボラを凝視する。その視線に気づいたデボラは表情を硬くし、再びぎろりと睨み返してきた。
(俺、何かやったか?)
明らかにデボラに警戒されているのに気付き、カインは考え込む。
もしやいつぞやのパーティーに変装して潜り込んだ時のことがバレているのだろうか? いやだがしかし、あの時デボラの不興を買うような行いはしなかったはず。
「……こんな女だったか?」
膨らむ疑問は、ついつい独り言となって漏れてしまう。
するとまたまたデボラの纏う空気がピリピリとしたものに変化した。
どう見ても好意的ではない。
むしろ親の仇のように恨まれている。
そう肌で感じたカインは、ある一つの推論に行きついた。
(これはもしかして、また記憶の改ざんでも起こったか? この娘ならあり得る。何せ自分の心を守るために、叔父や弟に愛されているという幻想を抱いていた女だからな……)
そこまで考えて、これまた面倒くさい女を拾ってしまったものだと、カインは心の中で毒づいた。
だがそれと同時に、好奇心をくすぐられる。
自分の記憶を捻じ曲げてまで、家族への愛を貫こうとする女。
その愛情が誰か一人に向けられた時、それはどれほどの激しさになるのだろうか……と。
デボビッチ邸に到着した後、デボラとフィオナを一緒に連れ帰ったカインを見て、使用人達は「またか」と嘆息した。カインが難民やグレイス・コピーの被害に遭った患者を拾って帰ってくることは日常茶飯事である。
だから誰もが思った。カインが新しい妻を迎えたと言っても、これまでと同じく、5番目の奥方も早々にこの屋敷を去っていくのだろう。
中でもメイド長のマリアンナは、そろそろカインには名実ともにしっかり身を固めてもらいたいと切望していた。なのにまたカインは愛してもいない令嬢を妻として連れ帰ってしまった。「こんなことがいつまで続くのか……」とマリアンナが辟易してしまうのも無理はない。
「ようこそお越し下さいました。皆を代表して、メイド長の私から歓迎の意を表させて頂きます。……で、一体どちらが新しい奥方様でございましょう? カイン様」
予めデボラの容姿をカインから聞かされていたマリアンナは、黒髪の少女が新しい奥方だと知っていた。だがここで敢えて質問したのは、女性に全く興味を示さないカインに対するせめてもの皮肉である。
だがマリアンナの言葉はカインではなく、新しい奥方であるデボラに刺さってしまった。町娘同様のみすぼらしい服装だったデボラは、顔を真っ赤にして羞恥に耐えている。
その必死な表情を見ていたら、カインの腹の奥が何だかムズムズした。
文句があるならば大声で怒鳴ればいいだろうに、自分以外の相手にはどうやら強気には出れないようだ。
そのギャップがツボにはまり、気づけばカインは笑い声を漏らしていた。
「くっ! くくくく……」
「えっ」
「え?」
「は?」
カインが笑いだすのを見て、その場にいた使用人達はもれなく固まった。
笑った?
あのカイン様が?
嘘でしょ。
あの人笑えるんだ……。
もしかして今日、雪が降るんじゃない?
いやいや、雪じゃなく真夏の太陽がギラギラと降り注ぐかもしれないぞ……。
まるで天変地異の前触れのごとく、使用人達の間にどよめきが広がった。
カインは俺が少し笑っただけで失礼な……と、ちょっと理不尽な気持ちになる。
「とりあえずふてぶてしそうなほうだ。後は任せる」
「かしこまりました」
ふてぶてしい……と揶揄され、デボラの赤い顔はさらに真っ赤になっていた。
面白い。
カインは自分に嗜虐趣味などないと思っていたが、このデボラという少女を観察していると、思わずちょっかいを出したくなる。
それは言うなれば、気まぐれな猫を意地でも自分のほうに振り向かせたくなるような……。
(そうか、俺にも動物を愛玩する精神はあったんだな)
カインはデボラに対する感情を、そう分析した。
悲しいかな、朴念仁であるがゆえに、それが生まれて初めて感じた異性への好意なのだ……と。
カインは自覚することができなかったのである。
その夜。カインは深夜まで執務に追われ、花嫁であるデボラを放置した。
と言っても、放置は今に始まったことではない。
一番目の妻だったアンジェリカも、二番目の妻であったセリーヌも、その次に娶った妻達にも、カインは指一本触れていない。
世間的に結婚初夜に当たる日には、
「これは形式上の結婚だ。そのうち離縁するつもりだから、それまで自分の生き方を見つけろ」
と、カイン自身に結婚を維持する意思がないことを伝えるのがお決まりだった。
もちろんデボラにも同じことを伝えるつもりでいた。
イルマから、ある報告を受けるまでは。
「実はデボラ様の言動を注意深く観察していてわかったことがございます。デボラ様は自分の背中の火傷の痕を、火事の際に負った後遺症だと認識しておられます」
イルマの報告を聞いたのはカイン以外では信頼できるハロルド、マリアンナ、ヴェイン、そして医者のノアレだった。
事前にデボラの情報を共有していたため、まずノアレが私見を述べる。
「どうやらデボラ様には新たな記憶障害が起こっているようですね。辛い現実を直視しないための、防衛本能とも言えるでしょう」
この言葉に眉を顰めたのは、デボラを警戒するヴェインだ。
「いや、むしろ記憶障害を装っている……と言う可能性はないのか? あの令嬢の放つ殺気はただ事ではない。もしや敵側が放った刺客では……」
さすがにこの意見には、マリアンナやイルマがかぶりを振る。
「刺客などとそんな……。確かに婚姻誓約書に署名する時は、何やら深く考え込んでおられましたが、そこまであのご令嬢に悪意があるとは思えません。確かに今までの奥方様と違い、カイン様に対し並々ならぬ感情を抱いておいでのように見えますが……」
「その並々ならぬ感情というのが大問題ではありませぬか」
カインの身を危惧するあまり、ヴェインの語尾が自然ときつくなる。それを妻であるイルマが、静かに諫めた。
「ヴェイン殿、今の時点で先入観を固めるのはいかがかと思います。私もマリアンナ様と同意見で、デボラ様ご本人は元々素直な性格なのではないかと思います」
「ですなぁ。私もアストレーに着くまでの一週間ほどご一緒させて頂きましたが、たまに奇抜な事を口走ること以外は至って普通の女性でございます。ただ時折寂しげな表情をなさっているので、よほど家族を亡くされたことが堪えていらっしゃるのでしょう」
一瞬場はしんと静まり返り、誰もがデボラが置かれた不遇な境遇に胸を痛めた。
もしノアレの見立て通りデボラに記憶障害が起きているとしたなら、そこまで自分を追い詰めなければ、正気を保てなかったということでもある。
彼女が心に深い傷を負っているというのならば、せめてこのアストレーにいる間だけでも穏やかに過ごしてほしい。
つまるところ、カインを筆頭とするデボビッチ家お人好し集団の願いは、一つであった。
「まぁいい。デボラの記憶については、今夜俺が直に確かめてみる」
こうしてカインは深夜、デボラの寝室を一人で訪ねることにした。
ヴェインは最後まで危険ではないかと心配していたが、仮にも夫婦の初夜に護衛がつくべきではないと、自室での待機を命じた。
そして嵐吹きすさぶ中、念のため気配を消しながらデボラの寝室に近づくと、わずかに空いたドアの隙間から、奇怪な叫び声が聞こえてきた。
「おぉぉりゃぁぁぁぁ―――!」
(………!? なんだ?)
さすがのカインも一体何事かと驚き、ドアの隙間から中を盗み見た。
するとそこには大きな壺を枕元に向かって投げつけているデボラの奇妙な姿が。
何度も何度も同じ仕草を繰り返したかと思うと――極めつけの一言。
「う、うん、これだけスピードがあれば、公爵の頭蓋骨粉砕は間違いなしね!! もしかしたら私、前世ではボーリングの選手だったかも!!」
それはカイン殺害を目論むある殺人犯(仮)の、間抜けでうかつすぎる独り言だった。