43 そして二度目の口づけは、甘く
これからもアストレーに残りたい。
みんなと一緒にいたい。
今まで私を縛っていた偽りの記憶や劣等感が消え去った後、私の新しい核になったのはそんな純粋な思いだった。
自分でも図々しいとは思うけど、それが嘘偽りない本当の気持ちだから仕方ない。
「何を仰ってるんですか。これからもデボラ様にお仕えできるなら、こんなに嬉しいことはありません」
「そ、そんなことで悩んでたなんて水くせぇ。おら達、とっくの昔にデボラ様に忠誠を誓っておりますだに」
「そうですよー。デボラ様がたとえカイン様の奥方様じゃなくても、私達の気持ちは変わりませんよ。あ、もしカイン様と別れるようなことになったら、私デボラ様についていきますから!」
エヴァのセリフを聞いて、イルマが「さすがにその仮定は不謹慎すぎます」と注意していた。エヴァは反省した素振りを見せながらも「だって本当のことだし!」とテヘペロ☆している。
加えて、
「いやぁ、ようございました。デボラ様に出ていかれたら、始終不機嫌なカイン様のお相手を、私がせねばならないところでした」
……と、ハロルドは言い。
「私どもメイドは、女主人であるデボラ様の味方であることをどうぞお忘れなく。ええ、とうとうあのカイン様と対等に戦える気骨のある奥方様が誕生したのですもの。全力で補佐させて頂きますわ!」
……と、マリアンナはなぜか好戦的なコメント。
「デボラ様、見てて下さい。次こそはどんな悪漢からも必ず守ってみせます!」
「――右に同じくっス!」
……と、コーリキとジョシュアはいつも以上にやる気満々。
「あ、デボラ様、これ、新しい筋肉体操のメニューです。絶対サボらないように」
……と、ヴェインは有無をも言わせぬ勢いで、私の部屋にメニュー表を置いていった。
「みんなきっと、デボラ様が元気に戻ってこられたのが嬉しいんですねぇ。あ、本日の朝食にはアジの開きをご用意しました」
……と、すっかり和食通になったケストランが微笑み。
「その後、カイン様は大人しくしていますか? そうですか。デボラ様、今後ともあの嫉妬大魔神をよろしくお願いします。私は極力関わりたくないので」
……と、ノアレはなんか不穏なあだ名を公爵につけていた。
なんだかんだとデボビッチ家のみんなは、私がこの家に残ることを受け入れてくれたようだ。
本当にありがたいことだと感謝している。
それでも私の胸の中には、まだ大きなしこりが残っていた。
もちろんそれは真っ先にすべき公爵への謝罪が実現していないから。
約束を守って助けてくれてありがとうと言う、大事な言葉を伝えてないから。
そこで私はとうとう覚悟を決めた。
もう逃げ回るのはやめて、公爵に真正面からぶつかろう。
できるだけの誠意をもって、今度こそ心からの謝罪をしよう。
私はハロルドにお願いして、公爵との時間を作ってもらうことにした。
それはある日の昼下がり。
ポカポカとした小春日和の中、私は久しぶりにあの温室へと足を踏み入れたのだった。
(つか、案の定また寝てますし)
温室の東屋では、また公爵が一人で昼寝をしていた。
まぁ、普段忙しく執務で立ち回っているからね。たまにはのんびり昼寝したいって気持ち、今ならわかる。
だけどどうしよう。覚悟を決めて公爵に会いに来たはいいけど、その本人が寝てるんじゃ話しかけづらいわ。
起こすのも失礼だし、やっぱりここは自然と起きるのを待つべきよね。
(それにしても今日は本当にお天気がいい。日差しも眩しいくらいね……)
私は忍び足で、公爵が背を預けるベンチへと近づいた。
するとキラキラした日光が反射して、公爵の黒髪を明るい金色に輝かせた。
私はハッと息を呑み、思わず公爵へと手を伸ばす。
「イ、イアン様……」
それはいつか私が恋した、王子様そのものの姿だった。
あの時とは違い今日は白ではなく、いつもの黒い衣装に身を包んでいるけれど。
イアン様モードの公爵を目にした瞬間、私の平常心などというものは風に吹き飛ばされる塵のごとく、完全に消え失せてしまった。
うっ、ヤバイわ。
ドキドキしてヤバイ。
キュンキュンして、ヤバい。
完全にオトメゲー脳になった状態で、落ち着いて公爵と話せる自信がない!
怖気づいた私は、やはりもう一度出直そうと延ばしていた手を引っ込めた。
――が。
――がしっ。
寝ていたはずの公爵の手がいきなり伸びて、私は手首を掴まれた。
思わず「ひぃっ!」と悲鳴が漏れてしまったのも、ある意味仕方ないことだと思う。
「カ、カイン、様?」
「誰、だ……」
「え?」
「イアン、とは誰のことだ?」
「………」
「なんだかとても嬉しそうな声だったが……」と、公爵は下からぎろりと私を睨みつける。
あの、えーと、えーと、えーと……。
――公爵って、たまにとんでもなくバカになる瞬間があるわね?
私は脱力しつつ、改めて公爵に向き直った。
「まだ寝ぼけていらっしゃるのですか、カイン様。イアン様とは、あなたの偽名ではありませんか」
「……あ?」
「いつぞやマーティソン家のパーティーに出席した際、カイン様はイアン=モルドレッドという偽名を使っていらっしゃいました」
「そういえば……そんなことあったような……。………………そうか」
公爵はコキコキと首を鳴らしながら、ベンチに改めて座り直した。
わずかに空いたスペースを視線で指して、ここに座れと無言で命令する。
「あの、では失礼します……」
私は恐る恐る公爵の隣に座った。
けれどこんなに近くにいたら、心臓のドキドキが公爵にまで伝わってしまいそう。
私の掌は汗でびっしょりになり、緊張の極限に達した体は思う通りに動かなかった。
「もしかして……好みなのか?」
「は?」
そんな時に、また公爵から予想外の質問が飛んでくる。なぜか眉間には深い皺が寄り、不機嫌な様子だ。
「好み、と申しますと?」
「だから……イアン。あんな派手な服を着た男が、デボラの好みなのか」
「………」
――いやだから、好みも何も、あれは変装したあなた自身でしょうに!!
私は再び脱力し、チベットスナギツネのような顔になった。
ノアレがいつも「カイン様は面倒くさい、面倒くさい」って言ってたの、こーゆー意味だったのね。
確かに面倒くさいわ。
公爵の思考回路って、どんな風にねじ曲がってるのかしら。凡人には到底理解できない域にあるのだけは間違いない。
「あの好きとか嫌いではなく、イアン様……いえ、カイン様は私の恩人ですから」
「………」
「今日までお礼が遅れて申し訳ありません。あの日の約束を守ってくださり、本当にありがとうございました」
私は深く深く頭を下げ、とうとう公爵にお礼を言うことができた。
よし、まずはミッション1、無事にクリア!
あとは謝罪というミッション2をコンプリートするだけよ!
私はフンッと鼻息を荒くし、GJ!と自分で自分を褒めてみせる。
………が。
「……」
「カイン様?」
「……なんか、違う」
「は? 違うと申しますと……」
「そう、それ」
「?」
いつかの図書室の時と同じように、公爵は私を指さし、首をひねってみせた。
うーん、一体何が違うというのだろう?
今度は私が眉根をしかめ、不機嫌になる番だった。
「あの、カイン様、何が違うのか、もっとわかりやすく仰って下さいませんか?」
「………」
「もし私のお礼を素直に受け取れないというのなら、それは私のほうに問題があるのでしょう。それならば私は私なりの謝罪を改めて――」
「デボラ」
「!」
だけど最後まで言葉を言わせてもらえず、いきなりグイッと強く引き寄せられた。
私の唇に、別の温かい何かが強く押し付けられる。
無理に分け入ってくるわけでもないそれは、私の思考を停止させた。
え? もしかして、キスされてる?
なんかまた予告もなく、いきなりキスされてるんですけどぉぉーーー!?
私は大きく目を見開き、背筋を伸ばした状態で硬直した。
公爵はほんの少し首を傾け、柔らかく私の唇を啄んでる。
ドクン、ドクンという激しく打つ鼓動が、熱さを伴って響いた。
私の脳は、まるでミキサーにかけられたみたいに細胞が寸断されてごちゃまぜ状態。
なぜ、どうして、一体どーゆー流れでキスされることになったの!?
私はぎゅっと目を閉じ、ただ公爵になされるがままの人形になっていた。
「……デボラ」
「……はい」
そして一呼吸、唇が離れてからの、公爵の一言。
「なぜ抵抗しない?」
「はい?」
「この前の時は、こうガリッと唇を強く噛まれた」
「………」
「抵抗されないと……なんか調子狂う……」
「……………………」
はぁぁぁぁ―――? 今なんと仰いましたぁぁぁ―――!?
さすがの私もこの公爵の言動には呆れ、二度目のチベットスナギツネに(以下略
対する公爵はボリボリと頭を掻いて、困ったように視線を逸らしていた。
「はぁ……、デボラが従順だと、なんか悪い病気に罹ったんじゃないかと思うぞ」
「す、すいませんねぇ、生意気なのがデフォで! で、でもカイン様も悪いんですよ!!」
さすがの私も公爵のこの態度にはブチ切れた。ベンチから立ち上がり、その場で軽く地団駄を踏む。
大体抵抗されること前提でキスするなんて、あなた、もしかしてSじゃなくМのほう!?
つい色っぽいことを期待してしまった、さっきの私のドキドキを返してちょうだいよ!
「最初から私の勘違いに気づいてたなら、そう言って下さればよかったんです! 私の家族を殺してなんかない! 自分を殺そうとするのはお門違いだって!!」
「いやー、でもなんかムキになってるデボラ、面白かったから……」
「面白かったんかーい!」
私は自分でも素晴らしいと思うほどの盛大なノリツッコミを披露した。
あまりの恥ずかしさに公爵の顔を見られなくなって、慌ててくるりと背を向ける。
「私、全てを思い出して本当に落ち込んだんです。恩人であるカイン様になんてことをしたんだろうって。ええ、それこそあと百万年くらいは、墓穴に入ったまま眠っていたかったんです。なのにカイン様が私の名前を呼ぶから……」
「名前?」
「夢の中で、カイン様の声を聞いて……帰りたくないと思う気持ちとは裏腹に、カイン様にもう一度会いたいと思っている自分がいて……。そう思ったら、寝てなんかいられなかった。もう一度あなたにお会いしたかった。ただそれだけで……」
「………」
なんて恥ずかしいことを、どさくさに紛れて告白しているのだろう、私は。
いつの間にか頭の神経二、三本と一緒に涙腺も切れてしまい、目の縁からは勝手にぽろぽろと涙が零れる。
――ああ、私はこの方がどうしようもなく好きだ、と。
不器用で、唐変木で、女心を全く理解しない公爵が心から愛しい……と。
とうとう私は気づいてしまった。
いや、本当はもうだいぶ前から気づいていた。
だけど復讐という隠れ蓑の影で、無理やり自分の心を誤魔化してただけ。
このまま膨らみ続ける公爵への想いは、いつか全部はちきれてしまうんだろうか?
そうなったら私は一体、どうなってしまうんだろう?
予想がつかない。
行き先が見えない。
……どうしよう、すごく怖い。
けれどここから逃げ出したくないと思っている自分も、確かに存在した。
「……デボラ」
「お願い、今話しかけないで。カイン様に話しかけられると、私はおかしくなってしまうんです」
「………」
私は小刻みに肩を震わせて、公爵に訴える。
すると背後で軽く息を吐くような気配がして、私の体はまた強張った。
「そうだな、確かにおかしい……な」
「………」
「お前と一緒にいると、俺もおかしくなる」
「――え?」
羞恥に耐える私の肩を引き、公爵は半ば強引に振り向かせる。
「ならば一緒におかしくなるか、デボラ」
「え?」
「おかしくなればいい」
「!」
次の瞬間、公爵は軽く屈んだかと思うと、再び私の唇を奪った。
今度は真正面から強く抱きしめられ、私は完全に逃げ場を失う。
しかも公爵の舌先が私の唇をノックし、わずかに開いた隙間からするっとそれが忍び込んできて――
ぎゃあぁぁーーっ! こ、これっていわゆるディープキスって奴じゃないの!
さ、さすがにいきなりこれは難易度高いっっ!
こ、公爵、待って! 待って!
私恋愛初心者なの!
前世はリアル恋愛どころか乙女ゲーごときでドキドキしてしまう、100パーセント純粋な元オタクですからぁぁーー!!
「もっと口を開けろ」
「あっ」
けれどいくらドンドンと手で胸板を叩いて抵抗してみせても、公爵は手加減なんてちっともしてくれなかった。
私の顎を指で引き、さらに深く口づけてくる。
触れては離れ、離れては触れるそれは、鮮烈な何かを生み出していく。
唇が繋がった所にもう一つ心臓が出来たみたいで、体中に熱という熱が一気に広がった。
強く吸われ、噛まれて、容赦なく苛まれた唇は、ぽってりと赤く腫れてしまう。
とうとう私の足から完全に力が抜け落ちた。
一人では立っていられなくなった私は、必死に目の前の公爵にしがみつく。
「い、息、できません……っ」
「ならば俺のを分けてやろう」
……はい、抵抗しても無駄でした。
離してもらえるどころか、公爵の逞しい手は明確な意思をもって私の体のラインをゆっくりとなぞり、意味ありげにグッと力を籠められる。
刹那、心臓だけでなく下腹部がきゅんと甘く疼いた。
公爵から与え続けられる行き場のない快感は、私の口から甘い吐息となって零れ出る。
何なの、これ。
何なの、これ。
すごくすごく恥ずかしいのに、でも本当はずっとこうしていたい。
この時の私は、公爵はどうして私にキスするんだろうとか、その行動の根本に愛はあるんだろうかとか、一番確かめなきゃいけないポイントがすっかり抜け落ちていた。
ただ光と、緑が調和する美しい温室内で、私達の時は永遠かと思えるほどに停止していた。
そう、ヴェインが突然この場に乱入してくるまでは――
「カイン様、大変です! 王都より火急の知らせが!!
………………………あ」
バターンと温室のドアが開いた瞬間、私を抱きしめる公爵の頭上に巨大な雷雲が発生した。
対するヴェインと言えば公爵の腕の中でぐったりしている私を見て、さすがに何かを察したようだ。
「も、申し訳ありません! 吾輩、出直して参ります!」
「……いい。お前が場も弁えず駆け込んでくるということは、よっぽど重要な知らせだろう。見せろ」
「はっ」
公爵は私を抱きしめた状態で、ヴェインから一通の書簡を受け取った。
すっかり生気を奪われぼうっとしていた私も、その書簡の封蝋には見覚えがある。
薔薇、剣、雪の結晶、月桂樹、4つの象徴物に囲まれた雄々しい鷹の紋章。
それはこのヴァルバンダ王国――王家の紋章だ。
「いかがですか、カイン様」
「………」
ざっと一通り書簡に目を通した公爵は顔色を変え、きつく下唇を噛む。
抱きしめていた私をゆっくりとベンチに座らせると、黒く長いケープをはためかせた。
「王都でルイ……クロヴィス殿下の暗殺未遂事件が発生した。ヴェイン、急ぎ王都に戻るぞ」
――それはまさに風雲急を告げる知らせ。
のほほんと平和だった私の日常は、この日を境に一変するのだった。




