120 そうして起きた、奇跡1【カイン視点】
カインが次に目覚めた時、どこか遠い場所で教会の鐘が鳴っていた。
それがまさか自分を送るための葬送の鐘の音だとは、さすがのカインも最初は気づかなかった。
「これは一体どういうことだ、ルイ!」
ガシャンッと、鉄格子を両手で叩きながら、カイン=キールは目の前の親友に猛抗議していた。
デボラが冷たい牢獄に入れられている頃、なんと夫であるカインもクロヴィスの居住区である一の宮の一室に軟禁されていたのだ。
ただしこちらは囚人であるデボラと違い、寝具や食事はちゃんと用意され、鉄格子さえなければ一流ホテル並みの扱いだった。だからと言って、この状況に納得できるわけではないが。
「カイン、あんまり騒ぐと胸の怪我に障るぞ」
「お前が言うな! 俺の死を偽装するようにクロウに命令したのはお前だろう!?」
セシルに教会に呼び出されたあの夜、カインはクロウが放つ凶弾に倒れた。服に仕込んでいた防弾シートと、クロウの用意したペイント弾のおかげで直接の死は免れたが、何せ左胸に二発の銃弾を受けたのは紛れもない事実。
あの時はセシルを成敗することに夢中でアドレナリンが放出されていたため痛みは感じなかったが、こうして日が経つにつれ左胸にできた青痣がズキズキと疼く。
けれどこんな痛み、デボラが味わっている苦しみに比べたら屁でもない。
カインは荒れ狂う猛獣のように、悪友であるクロヴィスに食って掛かった。
「カイン、落ち着いてくれ。だからすまないと、事前に謝っておいたじゃないか」
「あの夜の『すまない』は、つまり俺とデボラを囮にしてすまないって意味か!?」
今度は鉄格子を思いっきり蹴り、カインはまんまとクロヴィスにしてやられたことを悔しがる。
自分だけなら、まだいい。
しかしデボラはカインを殺した濡れ衣を着せられただけでなく、グレイス・コピーの密売人としても逮捕されてしまった。
たとえクロヴィスの計画だろうとも、とてもじゃないがそんな状況許せるはずがない。
「お前、ここを出たら十発……いや、三十発は俺に殴られること覚悟しろよ」
「おや、我が親友殿はお優しい。私としては百発殴られても仕方ないと思っていたのだけれど」
「あー、お前ら、いい加減じゃれ合うのはやめろ」
弟子二人が鉄格子越しにギャンギャン喧嘩する様子を、師匠であるクロウは鼻をほじりながら見ていた。
ここ一週間ほど薬で眠らされていたカインは、いつになく激情を露わにしながら鉄格子の前にドカッと座り込む。
「とにかく何がどうなってるか説明しろ。場合によってはお前らまとめて――殺す」
「わかった、わかった。今回のことについて、全ての咎は私にある。クロウを責めないでやってくれ」
そうしてクロヴィスは語りだした。
彼がクロウを使って、敵に仕掛けた罠の全容を――
× × ×
クロヴィスが親友のカインとその妻であるデボラを囮にするという非情な決断を下したのは、ラヴィリナ皇女が攻撃されたことがきっかけだ。
ラヴィリナまで命を狙われ、クロヴィスはもう手段は選んでいられないと決意する。それが親友を裏切ることに繋がるとしても、是が非でも【祝福】の正体を暴き、組織を壊滅させなければならない。
クロヴィスは悲壮な想いで、作戦を実行した。
この時点で、クロヴィスにはスパイとして潜入していたクロウから様々な情報がもたらされていた。
【祝福】であるマグノリアが認知症を発症したことにより、組織間の連携がすでに壊滅的になっていること。
その跡を継いだセシルがデボラに執着し、カインを排除しようと躍起になっていること。
ならばセシルの狙い通り、一旦カインを表舞台から退場させた後、一気に急所を突いてやろうということになったのだ。
「つまり俺の死は、セシルや組織の隙を誘うためか」
「ああ、君が死んでくれたおかげで狙った通り敵の動きはガバガバだ。奴らから裏金を受け取っていたイグニアーやカニンガムも面白いように墓穴を掘ってくれている」
「えげつない、お前……」
カインはクロヴィスの話を聞きながら、やはりこいつだけは敵に回すまい……と、げんなりした。
クロヴィスはカインの死を利用し、政敵であるイグニアーやカニンガムの追い落としまで画策している。民主体の政治を目指している彼としてみれば、ここで貴族主義のイグニアーやカニンガム、力のある公爵家の勢いを削ぐことは確実にプラスになる。
いや、むしろ今となっては、密売組織壊滅よりも政敵排除の方がクロヴィスの主目的になっているだろう。それほどまでに今回の事件は王位継承を目指すクロヴィスにとって大きな転換期となる。
また屋台骨がガタガタになった密売組織は、すでにクロヴィスやカインにとって恐れるに値しない存在にまで格下げされており。クロヴィスによる国家一大包囲網は、もうすぐ完成しようとしていた。
「ま、それでもやっぱ例の血判状がなければ、マグノリア様を逮捕することはできねぇんだよなぁ」
「血判状……」
イクセルが組織から盗み出し、現在所在不明の決定的な証拠。クロヴィスもクロウも、もちろんそれをずっと探していた。
しかし五カ月前のマーティソン子爵家焼失の際に血判状そのものが焼け落ちてしまった可能性も捨てきれず。そうなるともう一つのルートの可能性に賭けるしかなかった。
「実はカシュオーンで、ラ・シュガルが軍部を巻き込んだクーデターを計画している。かなり大規模な動きになる予定で、上手くクーデターが成功すれば、右大臣を失脚させられるはずだ」
「つまりカシュオーン側の血判状を証拠とするわけか」
「ご名答」
クロヴィスにしてみれば血判状はヴァルバンダ側、カシュオーン側、どちらか一方が手に入ればいい。もちろん二通揃うに越したことはないが、肝心のデボラに血判状の所在に関する記憶がない以上、今はそちらを諦めるしかなかった。
「そのクーデターが起きるのがあと数日……。二日後か、三日後か。それまではこちらも動けない」
「その間に獄中でデボラの身に何かあったらどうする!?」
再びカインは鉄格子を殴り、どうにもならない怒りを爆発させた。
デボラの件についてはクロヴィスも心を痛めていて、深々と頭を下げる。
「その点についてだけは、大変申し訳ないと思っている。最悪カシュオーン側の血判状が今週の日曜まで手に入らない場合は、デボラ嬢を速やかに救出するよう、すでにクロウに手はずを整えさせてある」
「おう、任せておけい」
クロウはふんっと力こぶを作って、デボラ救出を請け負った。
それでもカインは今のデボラの苦しい状況を思うと胸が痛くなる。
デボラの本質は――とても弱い女だ。かつて自らの記憶を改ざんしたほど、彼女の心はガラス細工のように脆い。
だがそれでいて、彼女がとても強い女性であることも知っている。
脆く崩れてしまう儚さと、決して折れぬ柳のようなしなやかさ。矛盾する二つの性質を持ったデボラ。
今は彼女の芯の強さを、信じるしかなかった。
「それに私やクロウだけではない。君が死んだ後、デボビッチ家の皆もアリッツやエルハルドもデボラ嬢を助けるために、独断で色々と動いているようだ。いやはや、君の妻は大変な人たらしだな」
「そうか、あいつらが……」
この時点で、カインの生存を知っているのは、クロヴィスとクロウのみであった。
例の教会に駆け付けた警ら隊の中にはクロヴィスの手の者が潜んでおり、カインの遺体はデボビッチ家ではなく王宮の一の宮に運ばれた。
そして第一皇子クロヴィスの名の下、親友であるカインの葬式も執り行われた。空っぽの棺に、釘を打つという形で。
「まぁ、それでもヴェインやジルベール辺りは何かを察した様子で、こちらと密に連絡を取り合っている。そうそう、彼らは自分達を欺き、一人で敵地に乗り込んでいった主のことを大層恨んでいたぞ」
「そうか、ヴェインとジルベールが」
カインは信頼できる部下の顔を思い出しながら、一つため息をつく。
聞けばデボビッチ家は当主であるカインが殺され、その犯人として妻が逮捕されるという異例の事態に混乱しているそうだ。
けれど彼らならばきっと自分とデボラが戻るまで、しっかりと家を守ってくれるだろう。
「いいか、タイムリミットはデボラの裁判が行われる日曜日までだ。それまでにカシュオーンで何の成果も得られなければ、俺はこの牢獄を破壊してでもデボラを助けに行く」
「ああ、わかっているとも」
こうしてカインは納得いかないまでも、カシュオーンから証拠の血判状が届くのを待つことになった。
しかし物事がそう易々と思い通りに動くはずもなく。
カシュオーン国の元王子ラ・シュガルが立ち上がったことで、軍部だけでなく多くの民が蜂起した。そしてクーデターを大きく凌ぐ、市民による革命が起こってしまったのである。
そうなるとカシュオーン側の混乱はすさまじく、クロヴィスとラ・シュガルの間の連絡網も一時途絶えてしまった。海を渡った先にある大陸で何が起こっているのかわからない状態が続き、しかもデボラが裁判で断罪される日は目前まで近づいていた。
「もう我慢ならん! 俺をここから出せ! 今からデボラを助けに行く!!」
デボラの裁判前夜。とうとう堪忍袋の緒がスライスチーズのようにブチ切れたカインは、まるで駄々っ子のように感情を爆発させた。
これにはさすがのクロヴィスも降参するしかなく、ようやくカインの身は一の宮から解放されることになった。
さらに幸いなことに、このタイミングで一の宮にある書簡を携えたヴェインがやってくる。
ヴェインが急いでクロヴィスに提出したそれは、獄中のデボラからの伝言を聞き、デボビッチ家でようやく発見された血判状だった。
「カイン様、やはり生きておられましたか!」
「心配をかけてすまない、ヴェイン」
「いや、吾輩は信じておりました。カイン様がそう簡単に死ぬはずがないと」
ヴェインはおいおいと男泣きしながら、カインの生還を喜んだ。
またデボラのお手柄のおかげで、ようやくクロヴィスの国家一大補包囲網が完全な形で完成する。
「さぁ、ルイ、カイン、満を持して反撃に出るか」
「了解です、クロウ。あなたは私のフォローをお願いします。カインは裁判所の方へ」
「わかった。セシルはこちらで逮捕する」
男達の結束が固まったこの日の早朝、彼らを後押しするかのようにさらなる朗報がもたらされた。
革命の混乱下で途絶していたラ・シュガルとの連絡網が復活し、カシュオーン側でもラムザの血判状が証拠として押収されたという報告が届いたのだ。
(待っていろ、デボラ、今から助けに行く)
眩しい朝日が昇る中、カインは黒のコートを翻し愛しい妻のもとへと向かう。
それはこれから起こる奇跡への布石。
まさにデボラが耐えに耐えたからこそ起きる、必然とも言える奇跡だった。




