118 暗躍する烏2【カイン視点】
ソニアが裏切り者だと判明した夜から、彼女の動向は逐一監視された。
浮気騒動についてのソニアの言い分は「すべてロントルモン伯爵令嬢が独断で行ったことである」というルーナ主犯格説だ。
もちろんそんな乱暴な説が通るはずもなく、ソニアも自分が疑われることは、ある程度覚悟の上だったろう。
またルーナに対する聞き取り調査も試みられたが、父であるロントルモン伯爵から面会を全て拒絶された。真実を闇に葬ろうとする力は強く、ルーナは伯爵家に軟禁されてしまったのだ。
しかしそれでもソニアの動向を調べていくうちに、次第に敵の正体が浮かび上がる。
まず貴重な証言をしたのは侍女頭のクローネだ。クローネはマグノリア救貧院から支援物資を預かる際、頻繁に屋敷に出入りしていたある小姓の存在を思い出す。
「おそらく年は15前後の線の細い少年が、支援物資の置き場所についてソニアと何度か話し合っておりました。彼女がおかしくなったのはそれからです。妙に塞ぎ込んだり、物思いに沈むことが多くなった気がします」
「15歳前後の少年……」
クローネからの報告を受け、カインはありとあらゆる事態を想定する。
その小姓がマグノリアから直接指令を受けた単なる伝令役なのか、それとも少年自体が悪意ある人物なのか。
調べれば調べるほど後者の可能性が増していった。フレデリクと呼ばれる小姓は、五カ月ほど前にマグノリア救貧院に孤児として身を寄せ、そこから急速にマグノリアの寵愛を一身に受けるようになったと言う。
「まさか……セシル=マーティソンか」
ジルベールやヴェイン・ハロルドとの話し合いの最中、カインは天啓ともいえる閃きを得た。
五カ月前と言えば、マーティソン子爵家が放火で焼失した時期と一致する。カインは再び放火事件の調査報告書を手に取った。
「イクセルとその妻やセシルの遺体は、しっかりと確認されているか」
「それが火勢がかなり激しかったらしく、骨は灰になるほど燃え尽きてしまったようで……」
「つまりセシルの死ははっきりと確認されたわけではないんだな?」
「まさかそんな……。まだわずか14歳の少年がですか?」
ハロルドが信じられないという風に呟くと、隣に立つヴェインが静かに首を横に振る。
「犯罪を犯す者に年齢は関係ない。むしろまだ分別のつかない子供のほうが、大人より残酷なケースもある」
「そう言うものですか……」
「まずいな。もしマグノリアだけでなくセシルが何らかの形で謀略に関与しているとしたら、デボラの身が危ない」
カインはセシルがどれほどイカれた少年であるかを直に見て知っている。
セシルが暗躍しているというのなら、彼の狙いはデボラ一択だ。あの少年は姉への愛情を極限まで歪ませ、彼女を苦しませることに至上の喜びを見出しているのだから。
そして間が悪いことに、カインがセシルの存在に気づいた直後、最悪の報がもたらされる。スチュアート家に身を寄せていたはずのデボラが、ハリエット=コルヴォ――つまりクロウに連れ去られてしまったというのだ。
「本当に申し訳ありません! 我々がそばについていながら!」
マーティソン子爵家の跡地でまんまとデボラを攫われてしまったコーリキとジョシュアは、地にひれ伏さんばかりの勢いでカインに謝罪した。
護衛の任務を果たせなかった二人に対し当然カインの怒りは爆発するが、相手がクロウなら仕方ないとも思う。
「ホンット、すいません! クロウさんがあんなに強いとは、オレ思ってなくて……」
「全ては私の手落ちです。クロウさんの武器を奪ったことで、つい勝ちを確信してまった。勝利した直後が一番油断しやすいと、他ならぬクロウさんに教わったはずなのに……」
「――クロウお得意の暗器か」
カインの質問に、コーリキは申し訳なさそうに頷いた。
各国を傭兵として渡り歩き、今まで数々の死線を潜ってきたあの男は、全力のカインでも勝てる相手ではない。
正攻法をモットーとする騎士では彼の奇襲戦法に歯が立たぬだろうし、何より彼は逃げ足が速い。勝てぬ勝負は元々しない性質だからこそ、厳しい戦場を今まで生き抜いてこれたのだ。
だがデボラを攫うと言うあからさまな敵対行為をしておきながら、クロウは同時に重大なヒントも与えてくれた。イクセルが組織から盗み出したという密約書に関する情報だ。
「つまりマグノリアとラムザの血印の押された契約書が、奴らの急所というわけだな?」
「はい、ですが血判状の行方は現在も不明。クロウ殿は新聞記者と身分を偽り、スパイとして組織に潜入した後、その情報を得たのだと思います」
「………」
カインは眉間に縦皺を三本も立てながら、これからどうすべきかを素早く模索する。
クロウの裏にいるのは確実にクロヴィスだ。悪友の彼はカインにも黙ったままで、敵相手に何かを仕掛けている。
もちろん今すぐ王宮に赴きクロヴィスの真意を質すべきではあるが、デボラを攫われた今はそんなことをしている余裕すらない。
クロヴィスへの詰問は後回しにし、とにかく今はデボラ救出のために迅速に動くことにした。
「ジルベール、ソニアを呼んでくれ」
「畏まりました」
「カイン様、よろしいのですか」
「仕方ない。今は少しでも敵に関する情報が欲しい」
ならば敵と内通していたソニアに訊くしかないだろう。
カインは物憂げなため息をつき、乱れがちの呼吸を何とか整えた。
カインは今までソニアに無言の猶予を与えていた。
彼女自らが己の犯行を自供し、謝罪してくれるだろうことを願っていたのだ。
けれどすでにタイムアップだ。
懺悔の時間は過ぎてしまった。
とうとう当主であるカイン自らがソニアを尋問しなければならなくなったことに、深い悲しみを覚える。
けれどデボラを失うこと以上に恐ろしいことなど、この世にあるはずがなかった。
× × ×
カインとジルベール、それにヴェインの三人に囲まれたソニアは顔面蒼白になっていた。
デボラが何者かに連れ去られ、その命さえ危うい。
そう聞かされたソニアはがくがくと震えだし、ようやく自分が犯した罪の大きさに気づく。
「デボラ様が殺されるかもしれないなんて……そんな。私はさすがに、そこまで望んだわけでは」
「ならばお前は何を望んで、デボラを傷つけた」
「………」
カインが抑揚のない声で問うと、ソニアはごくりと生唾を飲みこむ。
「デボラの部屋を荒らしたのもお前だな」
「!」
カインに強い口調で断定され、ソニアはいよいよ目尻に大粒の涙をためた。
クロウからもらったヒントで、カインはピンときた。敵はデボラが例の血判状を隠し持っているとにらみ、それを手に入れるためにソニアを実行犯に選んだのだ。
「部屋を荒らしたのは……そうすればデボラ様が怖がると」
「……」
「あの部屋にはデボラ様が犯罪に関わった書類が隠されているはずだから、部屋を荒らせばいい脅しになると聞かされたのです。ですから……私は」
ソニアはもうカインの目を直視できず、ただ神に祈るかのように胸の前で手を合わせていた。その姿はまるで哀れな子羊のようにか弱く、心許ない。
「デボラが犯罪に加担していると、誰から聞いた」
「………」
「マグノリアの小姓のフレデリクか」
「………」
「なぜおまえはそんな重大な情報を鵜呑みにし、主である俺に確かめようとしなかった。普段の冷静なお前なら、そんなエセ情報には騙されなかったはずだ」
「――」
カインに問われれば問われるほど、ソニアの体の震えは大きくなっていた。そして今までに溜まりに溜まっていた彼女の激情が、堰を切って迸る。
「なぜ、あの女なのですかっ!?」
「!」
「なぜ、カイン様はデボラ様をそんなに大事になさるのですか? 今までのように……奥様をお迎えになっても無関心でおられるなら、私の心だってこんなに乱されはしませんでした! なのにカイン様は今回に限って、なぜあの女を……っ!?」
「――」
ソニアは大きく表情を歪ませると、その場でわぁぁっ大声をあげて泣き始めた。
カインはソニアのその泣き様に気圧される。
ソニアがデボラを罠にはめた理由。それは至極単純。
ソニアを突き動かしたのは――デボラに対する醜い嫉妬だったのだ。
「ソニア、つまりあなたは正妻であるデボラ様を疎んじ、彼女をその座から蹴落としたかったと?」
「………っ」
ソニアの自分に対する気持ちが単なる忠義心ではなく異性としての愛情だったと知り、カインは言葉を失う。
そしてカインに代わり、ジルベールがソニアを厳しい口調で詰問した。
「だとしても、このような形であなたの想いが報われることはないとわかっていたでしょうに」
「ええ、わかっています。いやというほどわかっていましたとも! 私のような不細工で、しかも行き遅れで何の価値もない女が、カイン様に愛されるはずがないということ、私が誰よりもよく承知しています!」
ソニアは髪を振り乱し、同じ使用人であるジルベールに食ってかかった。
裏切りが判明してしまった以上、カインは決して自分を許さないだろう。だからこそソニアは必要以上に自分を貶め、今まで蓄積されてきた思いの全てを一気に吐き出す。
「カイン様が結婚を繰り返す度、ああやっぱりと失望し。でもカイン様が本当の意味で奥様を愛することはなく。その度に私は安心していました。カイン様はきっと特定の誰かを愛することはない。たとえ私の想いが叶わなくとも、カイン様が他の女のものにならなければ、それでよかった……」
「ソニア……」
何を馬鹿なことを……とカインは彼女の気持ちを一蹴することができなかった。以前のカインならば嫉妬に囚われたソニアを下らないと即座に切って捨てていたはずなのに。
けれどカインもまた、デボラを愛することで自分の中に制御できない衝動があることを知った。愛が深ければ深いほど人は盲目になり、時には信じられない間違いを犯してしまうものなのだ。
「デボラ様が初めてこのお屋敷にいらっしゃった時、とても嫌な予感を覚えました。今までの奥様方と同じようにカイン様はいずれこの方とは離婚なさる。そう思っていたからこそ、デボラ様にお仕えすることもできましたのに」
だがソニアはデボラの侍女として仕えることで、誰よりも近くで見る羽目になってしまった。
いかにカインが彼女を大事にし、いかに彼女を寵愛するのかを。
王都に大きな被害が出たあの嵐の夜、束の間の別れを惜しみ抱擁する夫婦の姿を、ソニアは盗み見てしまった。
カインに抱きしめられ、甘く口づけられるデボラを視界に映した時、その幸せを壊してやりたいと願ってしまった。
「そこをあの小姓に付け込まれましたか」
「………」
ジルベールが言う小姓とは、もちろんセシルのことだ。
主であるカインに恋い焦がれ、デボラを憎むソニアの心など、あの狡猾な少年ならば、いとも容易く操ることができただろう。
そう考えれば切ない女心を利用したセシルが、やはり一番の悪と言える。
「でも……でも私はデボラ様に死んでほしいなどと……そこまでのことは考えておりません。本当です。私はただ、デボラ様とカイン様に離婚してもらいたかっただけで……っ」
ソニアは猶も涙を零しながら、デボラを殺す意図がないことを訴えた。
セシルについても詳細を尋ねるが、彼女は少年に言葉巧みに唆されていただけで、詳しいことは何も知らなかったのである。
「もういい、ソニア」
「……」
そしてカインが長い沈黙の後に絞りだしたのは、なけなしの一言。
こうなってしまった以上、カインはソニアを刑事告発することもできた。
いや、常識的に考えればそうする義務があった。
――だが。
「お前には今日限り暇を取らせる。次の就職先もクローネに手配させよう。これまでデボビッチ家に誠心誠意仕えてくれたことには感謝する。長の努め、ご苦労だった」
「カ、カイン様………」
それでもカインはソニアに対し、過分ともいえる温情で対処した。
ソニアの想いに応えることは決してできないが、彼女を嫉妬に走らせた原因はカインにもある。今まで五度繰り返した結婚と離婚が、まさかこんな形で特大ブーメランとして跳ね返ってくるなんて。
信頼という絆の裏に隠されていたソニアの切実な思いを考えると、カインはどうしても同情せざるを得なかったのだ。
「今までありがとうござい……ました………」
そうしてソニアは涙を拭いもせず、深々と頭を下げながら執務室から去っていく。
愛した男に糾弾された彼女には、今後精神的な地獄が待っているだろう。
それからまた、しばしの静寂。
誰もがソニアの女の情念に圧倒され、しばらく口を利くことができなかった。
「カイン様、火急の知らせがございます」
そこで間髪入れず、今度はハロルドがソニアと入れ代わりで執務室の扉を叩く。
その右手には一通の手紙が握られていた。
「クロウ殿からの書簡が届きました。おそらくデボラ様の居場所を知らせるものかと」
「なんだと!?」
カインは慌てて机から立ち上がり、ハロルドから問題の書簡を受け取る。
焦りながらも何とかその封を開けば、中には長い脅し文句の後にこう書かれていた。
『アストレー公爵閣下
今日の午前0時 ランドアーク区13番地の廃墟にて待つ。
奥方の命が惜しいなら、供をつけず必ず一人で参られよ』
その便箋の右下には、小さな【C】の文字。
それはクロウからカインへと投げかけられた、ある一つの暗号文だった。




