117 暗躍する烏1【カイン視点】
突然クロウがカインのもとを訪ねた朝。
カインの執務室ではなぜかそこにいる男達が皆、床に膝をついていた。意気揚々とみんなを仕切るのは、客人のクロウである。
「いいか、お前らも今後のために覚えとけ。まず土下座とは、単なる謝罪のパフォーマンスにあらず。
『どうせ土下座すれば許されるだろう』
『ここまでしたんだから許さないはずがないよね?』
そんな下心が見透かされたら、土下座は逆効果となる。女の勘って奴は、恐ろしいほど鋭いからな。
とにかく誠心誠意、心から謝罪する。まず両手をまっすぐ付き、床にキスするつもりで深く頭を下げる。これが土下座の極意だ。ほら、物は試し。やってみろ!」
「おおおお、なんかメチャクチャためになるっス!」
こうしてなぜかカインの執務室は朝から『土下座教室』と化した。
若いジョシュアなどはクロウの講義を楽しんでいるが、人生で一番逼迫した状況にあるカインは相変わらず魂の半分が口からはみ出したままだ。
ちなみにこの時点で、ヴェインとコーリキはクロウと面識があった。
「それにしてもクロウさん、いつ王都にやってきたんですか?」
「ふむ、お前とこうして直にまみえるのは、アンジェリカ様の騒動以来か」
かつてカインの第一の妻・アンジェリカとラ・シュガルの駆け落ち騒動の際、カインと彼らの仲を取り持ったのがクロウだ。ヴェインはその時点ですでにカインの護衛の任務に就いていたし、コーリキもまた若手の有望株としてクロウに紹介されていた。
「どうだ、時間があるなら久しぶりに吾輩と手合わせしないか」
「えー、やだよ。ヴェイン、お前しつこいんだもん。お前と俺じゃそもそも戦い方が違うってのに、お前やたら勝ちにこだわるし」
「……む、それは申し訳ない。クロウほどの手練れと手合わせできる機会はそうそうないから、つい熱くなってしまう。もし不快に思ったなら許せ」
ヴェインがそう頭を下げると、クロウは「お前のそーゆー所に弱いんだよなぁ」と明るく笑った。コーリキもヴェインと互角の実力を持つクロウを、純粋に尊敬している。
「こら、カイン。いつまで落ち込んでるんだ。新しい奥方に『大嫌い』と言われたくらいでめそめそするな!」
「………」
クロウはいつまでたっても浮上しないカインに、これでもかと喝を入れる。
「別にめそめそしてない」
「してるだろー? あのなぁ、女の拒絶なんて一種のポーズだよ、ポーズ。『いやよいやよも好きの内』ってよく言うじゃねーか」
「親父だ……」
「馬鹿なスケベ親父の思考回路だ……」
「クロウ、お前そのような下賤な考え方だから、13回も女に振られるのだぞ」
ジルベールの説教を聞いていなかったクロウは、一斉にその場にいる全員をドン引きさせる。「ええぇぇ…」と猶もおどけるクロウを、カインは恨めしげに睨みつけた。
「だから突然何しに来たんだ、クロウ」
「イライラしてんなー。ま、久しぶりに王都に来たからお前の顔を見に立ち寄っただけだよ。元気にやってるかなってさ」
もちろん大嘘である。
すでに一年前の時点でクロウはクロヴィスから命じられ新聞記者『ハリエット=コルヴォ』として王都の至る所に潜入している。が、クロヴィスにとっての切り札は、今まで味方であるはずのカインの目からも巧妙に隠されていたのだ。
そしてクロウはさりげなくコートハンガーに近づくと、そこに掛けられていたカインのコートと外套をパンパンとはたく。
「これ、アイーシャちゃんお手製のコートだろ? お前の元奥方は相変わらずいい仕事してんなー」
「だから本当に何なんだ」
あからさまに怪しい仕草を繰り返すクロウに、カインは神経をピリピリさせる。クロウは「おー、こわ」と軽く肩を竦めて、胸ポケットからある物を取り出した。
「カイン、そんなお前に俺から一つお守りをプレゼントしよう。心を落ち着けるパワーストーンだ」
「そんなもん、いらん」
「いいからいいから。もしかしたらこれがその内お前の役に立つかもしれないし」
そう言って、クロウはカインのコートのポケットに、キラキラと光る大粒のビー玉をひとつ忍ばせた。
カインは憮然としながら、相変わらず掴みどころのないクロウに振り回される。この男が無意味に贈り物などするはずがなく、そこには必ず何か隠された意図があるはずなのだ。
「クロウ、お前、何を知っている」
「さぁてね。こう見えても俺は口が堅い方なんで」
暗に今は何も語る気はないと言われ、カインはさらにしかめっ面になった。
よもやクロウが敵に回ることはないと思うが、油断ならない人物であることは確かなのだ。
「そうだなぁ、でも一つだけお前にアドバイスするとしたなら……」
クロウは煙草を取り出し、それに火をつけて燻らせる。
その面には先ほどの軽薄の笑みは、どこにもなかった。
「獅子身中の虫には気つけろよ、カイン」
「―――。わかった」
そう忠告を残すと、クロウは「じゃあまたなー」と軽く手を振ってデボビッチ家を去っていく。
この時、クロウは自分のもう一つの名をカイン達の前で名乗らなかった。故にハリエットとクロウが同一人物であることに気づいた者は、この時点では皆無だったのである。
× × ×
クロウの助言が役に立ったのは、ニライの毒がらみでルーナと接触した時だ。
クロヴィスの調べで、ロントルモン家が定期的にニライを輸入していることが判明し、かの家に内偵が入った。
そしてデボビッチ家に戻ってみれば、たまたま帰宅間際だったルーナとそれを見送るデボラに出くわしたのだ。
「カ、カイン様……っ」
「……」
デボラはカインの顔を見るなり、恐怖におののき後ずさった。
先日デボラに『大嫌い』と言われたばかりのカインは、そんな妻の反応にショックを受け、思わず目を逸らしてしまう。
「ルーナ嬢。今日はもうお帰りか? できれば少し俺と話をしないか?」
「も、もちろん喜んで! きゃあぁぁ~っ、憧れのカイン様に誘われるなんて感激です!」
カインはデボラに話しかけられず、代わりにルーナを自分の執務室に誘った。もちろんニライの毒について尋ねるためである。
この時カインに邪な下心など一切なく、だからこそデボラがルーナと自分の仲を勘ぐっているなど考えもしなかった。
「ニライの薬についてですか。確かに我が家ではマリウスお兄様の強心剤として、王国の許可を得てあの薬を輸入しています。あの、でも私はそれ以外は何も詳しいことは知らなくて……」
ルーナはカインの質問に対し、終始おどおどしながら言葉を濁していた。
その態度から何かを隠していることは明白だが、カインに女性を脅す趣味はない。
結局ルーナに対する質問はニライの毒についてだけに留め、彼女のために帰りの馬車を用意してやった。
ルーナが去った後、カインはひどく疲れた心持ちになって、執務室の椅子に背を預ける。
「カイン様、どうかもうお休みになって下さい。そのように働き詰めでは、いつかお体を壊してしまいます」
カインにそう進言したのは、誰あろうソニアだ。
ソニアはひどくカインの体調を心配し、リラックスできるハーブティーを用意してくれた。
「そうだな。確かに疲れているかも……な」
カインはソニアが出してくれた茶を一口飲み、そのままゆっくりと目を閉じた。
普段は人一倍警戒心の強いカインだが、ジルベールやハロルド、それにソニアにクローネ。先代の悪行時代を耐え、デボビッチ家に誠心誠意仕え続けてくれた使用人達のことは心から信頼している。
だからこそソニアがクロウの言う『獅子身中の虫』だと、すぐに気づけなかったのだ。
「カイン様、カイン様、大変です、起きて下さい!」
次にカインが目覚めたのは、ジルベールに叩き起こされた深夜過ぎのことだった。
なんだかひどく体がだるい。
頭もガンガンと痛み、耳の奥では低い耳鳴りもした。
突発的な頭痛でも起きたのかとしばらく身動きが取れなかったが、ジルベールの発した言葉で飛び起きる羽目になる。
「実は先ほどデボラ様がこの本邸を出ていかれました。ひどく狼狽されたご様子で……。カイン様こそ、ここで一体何をしているのですか!?」
「デボラが……なんだって?」
自分のしたことが原因で、ここ数日デボラに避けられていたカインは、とうとう来る時がやってきてしまったのかと内心慌てた。
けれどベッドから起き上がってすぐに違和感に気づく。
なぜかカインは上半身の服を着ておらず、素肌のまま横になっていたのだ。
「これは……?」
「まさか記憶がないのですか」
「………」
いつの間にか脱衣している状態を不審に思っていると、ジルベールの表情も厳しくなった。デボラが急に出奔したことで邸内はバタバタとしており、カインは本気で何が起きたのかわからなくて混乱する。
「実は先ほどまでこの部屋にロントルモン伯爵家の令嬢もおりました」
「ルーナが? そんなはずはない。彼女は伯爵家に帰したはずだ」
しかしこのジルベールの発言で、カインは自分の身に何が起きたのかをうっすらと察する。
突然のデボラの家出に、なぜか自分の寝室にいたというルーナ。
しかも自分はほぼ裸の状態で、何者かによって眠らされていた……となれば。
「もしや俺がルーナと寝たかのように偽装されたか?」
「はい。肝心の伯爵令嬢は騒ぎが起きてすぐ、何処かに消えてしまわれました」
「……」
「大変言いづらいのですが、カイン様とルーナ様が共寝なさっているところを、デボラ様が目撃してしまったのです。カイン様に裏切られたと早合点したデボラ様は、ひどいショックを受けられ……。取り急ぎコーリキとジョシュア・レベッカが供につきましたので、心配はないと思いますが」
「――」
ジルベールの報告を聞き終わり、カインは金色の瞳に激しい怒りを滾らせた。
クロウからの忠告があったにも関わらず、うかうかと油断した迂闊な自分自身に腹が立つ。
全てはカインの落ち度であり、誤解してしまったデボラを責めることはできない。
何より彼女の信頼を裏切ったことが、こうした次の災難につながっているのだ。
「ソニア……か」
そしてカインはずきずきと痛む頭を抱えながら、裏切り者が一体誰であるのかすぐに見抜く。
カインは睡眠薬や毒物に対してある程度耐性を持っている。常に命を狙われ続けていたせいもあり、少しずつ毒に体を慣らしたのだ。
だからこそカインを薬で眠らせることのできる人物と言えば、近しい人物に限られる。おそらく先ほど用意されたハーブティーには、カインの耐性をしのぐほど強い睡眠薬が仕込まれていたのだろう。
(ソニア、お前一体なぜ……)
今まで忠義を尽くしてくれていたソニアの裏切りに、カインは思いのほか傷つく。先ほどだって、彼女は体調を崩し気味の自分を心から心配してくれた。あの憂いの表情に、決して嘘はなかったように思う。
だからこそ、カインには彼女がこんなことをしでかした動機が本気でわからなかった。
「ソニアから目を離すな。内々に監視をつけろ」
「カイン様自らが尋問なさらないのですか」
ジルベールの問いに、カインは静かにかぶりを振る。
「ソニアの狙いが何なのかわからない。だが俺が当主となってからのこの四年、デボビッチ家のため真面目に働いてきた彼女が生半可な決意で俺の浮気を捏造したとは思えない。裏には必ず彼女を操る者がいるはずだ」
「つまりわざと泳がすのですね」
「できるか」
「もちろんです」
まさに阿吽の呼吸でジルベールはカインの意図を察し、すぐにソニア包囲網を整える。
気になるのは自分とルーナが浮気したと誤解して本邸を飛び出したデボラのことだがソニアが敵とわかった以上、ここは彼女にとって危険な場所となってしまった。今はむしろデボビッチ家から離れていた方が安全だ。
(だがソニアを裏で操る者がいるとして、そいつの目的は一体なんだ? 俺達夫婦の仲を引き裂いて、敵に一体何の得がある?)
先日の王族連続暗殺未遂といい、敵のやり方が今までとあまりに違い過ぎてカインは戸惑う。
だがしかしその違和感こそ、今まで尻尾を掴むことすらできなかった敵の正体を暴く好機へと変わる。
(それにしても随分馬鹿にされたものだ。見てろ。この借りは10倍……いや、100倍にして返してやる)
カインは真新しいブラウスに袖を通しながら、ベッドから下り立ちあがった。
――反撃はここからだ。
敵の思惑通りに、まんまとデボラと別れてなぞやるものか。
セシルの仕掛けた浮気騒動は逆にカインの闘争心に火を点け、やがて彼を自滅へと追い込む大きな足掛かりとなった。




