116 欲望と、悔恨と【カイン視点】
※97話のヒーローによるヒロイン無理強いパートの回想なので、苦手な方は読み飛ばし推奨。
「意外にへっぽこだったカインが、みんなに〆られる」これだけ理解できればオッケー!
時間は、カインが人生で一番落ち込んだ夜へと巻き戻る。
嫉妬に駆られ、デボラを本当の妻にしようと寝室へ連れ込んだあの日。
カインはこんな非人道的な行いは良くないと頭ではわかっていながら、自分の暴走をどうしても止めらなかった。
まるで狼に捕食される直前の兎のように、怯えに怯え切った妻・デボラ。
けれど彼女が怖がれば怖がるほど嗜虐心が湧き、その華奢な喉元に牙を立て、食い破りたくなる。
「………んっ、や…っ、カイン…様……っ」
デボラはベッドの上で必死に足をばたつかせて抵抗するが、それを男の力で完膚なきまでに捻じ伏せた。
強引に重ねた唇は相変わらず果実のような極上の甘さで、味わえば味わうほどもっともっとと欲しくなる。
さらに口づけから逃れようとデボラが身を捩らせる度、ボリュームのある胸が大きく揺れて、さらにカインの情欲を刺激した。
ドレスの裾から露わになる美脚も、激しく乱れる黒髪も、何もかもがカインの理性を狂わせていったのだ。
「ご、ごめんなさい、カイン様を怒らせたなら謝りますから……っ。だからお願い、こんな無理やりなのは……やめて下さい……っ」
「――もう遅い」
だからいくらデボラが泣いても、カインは決して手を止めなかった。
むしろもっと甘い声で鳴いてくれと。
もっと煽情的な声を出せと。
飽和した熱が、脳全体を蕩かせる。
甘くて危険な予感が、カインの息を荒くさせた。
それからしばらくカインは、デボラの唇を執拗に貪った。
二人の唇から伝う銀糸を指で拭えば、デボラはどこかぼうっとしたまま頬を紅潮させている。
するとエルハルドが見繕っただろう赤いドレスが改めて目に入り。腹を立てたカインは、力任せにそれを引き裂いた。
「だ、だめ……っ」
カインの乱暴な所業にデボラは再び暴れ始めるが、それはカインにとっては抵抗の内にも入らない。細い脚を掬ってそのくるぶしに唇を落としてやれば、カインの持つ熱がデボラへとあっという間に伝染していく。
「カイン様、やめて下さい……っ」
「なぜ?」
むしろデボラが嫌がれば嫌がるほど、酸欠みたいに頭がくらくらした。
間隔が短くなっていた息を一気に吐き出す。
心臓がこんな程度の酸素じゃ足りないと、強烈に訴えているかのようだ。
(ああ、かわいそうに……)
そしてカインはデボラを絶望させながら、目の前の彼女に心から同情する。
(こんな俺に愛されたばかりに、ボロボロにされて。だけど俺を好きだから逃げられなくて。本当にかわいそうだ)
カインはデボラをその手に抱きながら、今ようやくはっきりと彼女への愛を自覚した。
恋は盲目とはよく言ったもの。
今のカインにはデボラしか見えない。
彼女しか欲しくない。
今までどの女にも感じなかった強い飢餓感が、カインの凶行を後押しする。
かわいそうだと思うのなら今すぐこんな最低の行為、やめてやればいいのに。
エルハルドがデボラに求愛したと聞いた時から溜まりに溜まった嫉妬が、この行為の逃げ道を封じてしまっている。
あいつではなく、俺を見ろ、デボラ。
あいつではなく、俺を愛していると言え、デボラ。
あいつではなく、今夜俺に抱かれてしまえ、デボラ。
そんな風にエルハルドへの対抗意識を燃やしていたからこそ、直後に言われたデボラの願いも素直に聞き届けられなかった。
「カイン様、お願いです。せめて何か言葉を……。何も言われないのは辛いです……」
この時、デボラがカインに対して何を求めているのか、もちろんちゃんとわかっていた。
デボラはカインに『愛している』と言ってほしいのだ。
互いの愛情を確認した上で、改めて夫婦として結ばれたいと彼女は願っている。
だがこんな時にもエルハルドの不敵な笑みが、カインの思考を激しくかき乱す。
愛だの恋だの馬鹿らしい。それではまるであのロマンチストな男の言い分を、暗に認めたようなものじゃないか。
そんなものがなくても、この五カ月という月日の中で自分とデボラの間には深い絆が結ばれてきた。
デボラが自分を愛し、自分もまた女としてデボラを求めている。
それで充分じゃないか。
むしろ一体何が不服なんだ?――と。
究極の初恋拗らせ男は、女心を丸々無視した結果に辿り着く。
「デボラ、お前までまさか愛だの恋だの、エルハルドみたいなことを言うのか」
だから苛立ち紛れに、デボラの願いを即却下した。
むしろわざわざ言葉に出さなくてもわかるだろうと、察しの悪いデボラに怒りさえ感じる。
本気で惚れた女だからこそ、他の男に奪われる前に無理強いしてでも本当の妻にしたいのだ……と、なぜお前はわからない。
「言葉などなくても、お前はとっくに俺のものだろう」
「――」
そうしてカインは投下した。
ガラスのように脆い乙女心を粉砕する、最低最悪の爆弾を。
デボラの目が一瞬大きく見開き、ぴたりと抵抗も止まる。
どうやら自分の意図が伝わったようだと勘違いしたカインは、いよいよ本格的に事を進めるためにデボラのコルセットの紐を緩めにかかった。
けれど次の瞬間、デボラはまるで幼い子供のように泣き始める。
その泣き声は赤ん坊の産声にも似て。
純粋で悲しい響きは、カインの崩れかけていた理性をようやく『こちら側』に引き戻した。
「ふ……、うぇぇぇーん………」
「……………」
「ぶぇぇーん、あ゛あ゛あ゛、ひどい、ひどいよ゛ぉ゛ぉ゛ーーー……っ!」
「デ、デボラ!?」
慌ててデボラの上から身を引くものの、まずいと思った時には全てが手遅れ。
デボラはベッドの中で小さく体を丸めて、わんわんと号泣し続ける。
「もう……もういいです。カイン様の好きにすればいい! どうせ私の気持ちなんて、どうでもいいんでしょう!?」
「……」
「嫌い……嫌いです! こんなことするカイン様なんて……大嫌い――!」
――大嫌い――
カインに続き、今度はデボラが男心を粉砕する核爆弾を投下した。
大嫌い……。
大嫌い。
大嫌い。
大嫌い……。
それはカインの脳のシナプスを一瞬で断ち切り、冷静なはずの頭脳を一瞬でフリーズさせる。
例えるならカインの頭上から巨大なキノコ雲が発生したようなものだ。
(き、嫌い? まさか俺はデボラに嫌われた……のか?)
今まで生きてきた28年の中で、こんな風にこっぴどく女に振られた経験などないカインは、生まれて初めて底のない後悔と恐怖に震えた。
今まで散々焦らした挙句に、それでもカインがデボラに手を出せなかった理由。
それはひとえに、彼女に嫌われることを恐れていたからなのに。
(俺はデボラに嫌われてしまったのか。そうか……。これはまた離婚コース一直線か……)
女に振られるという稀な経験をしたカインは、きのこ雲をさらに大きく爆発させながら、よろよろとベッドから下りる。
今すぐデボラに謝らなければと頭ではわかっているのに、硬直してしまった唇は全く言うことを聞かず、むしろ自分の意思とは正反対のセリフを口走ってしまう。
「……興醒めだ」
いや、醒められたのは自分の方だと内心ツッコミを入れつつ、カインは急いでこの場からの逃走を図る。
「デボラ。もしも俺と離婚したいなら、そう言え。いつでも離婚してやる」
今まで四人の女にそうしてきたように、デボラもまた自分のもとから去っていくのか。
悪い方へとばかりを考えを巡らしたカインは、またまたこのタイミングでエルハルドの言葉を思い出してしまう。
『もしデボラの方から離婚したいと言い出したら? それほど妻を想う夫ならば、妻の願いは叶えてやるべきだと思うが……どうか?』
(離婚……)
カインは全く両足に力が入らない状態で、とにかく脱いでいたコートを再び羽織り、自分の執務室へと向かった。
けれどデボラの『大嫌い爆弾』のダメージは思ったより深刻で、カインはここに来て初めてその打たれ弱さを露呈する。
(デボラと……離婚……。まずい、本当に離婚したいと彼女に言われたら、俺は一体どうすればいいいんだ……)
その後、昇る太陽に照らされて夜明けの空が淡く白むまで。
カインは真っ暗闇の室内で文字通り一睡もできなかった。
目の下には濃いクマができ、血の気を失った顔もまるで実体のない幽霊のよう。
その姿を家令のジルベールに発見されるまで、カインの魂は灰になるほど真っ白に燃え尽き、まさに生きる屍と化していた。
× × ×
その後、朝になってからデボビッチ家はいろんな意味で大騒ぎだった。
夫婦の寝室の方からは何やらクローネら侍女達の声が聞こえる。デボラのことは彼女らに任せておけば、とりあえずは大丈夫だろう。
それよりも問題はカインの方だ。
ただでさえここのところ王族暗殺未遂の件でほとんど睡眠をとれなかったというのに、昨夜もカイン自らが墓穴を掘ったせいで全く眠れなかった。
そんなカインに対し、まず最初にきっついお灸をすえたのはジルベールだ。
「今頃反省しても遅いですよ、カイン様」
「……」
ぐうの音がでないとは、まさにこのこと。
ちなみにこの早朝の時点で、ハロルド・ジルベール・ヴェイン・コーリキ・ジョシュアなど、むさくるしい野郎軍団がカインの執務室に勢ぞろいしていた。
「まさかいやよいやよも好きの内……なんて、どこぞのスケベ親父が考えそうな馬鹿な思考でいたんじゃないでしょうね?」
「……そうか、俺は馬鹿なスケベ親父だったのか……」
ジルベールの質問に半ば放心して答えるカインを見て、一同は「うわぁ…」とドン引きする。
「まずいっス! とうとうカイン様が壊れちゃったっス!」
「ジルベール、確かにカイン様のしたことは許されないが、もう少し言い方ってものがあるだろう」
「お言葉ですが父さん。公爵という高い地位にあろうとも、か弱い女性相手に無体を働いていい道理が、どこにありますか? 先ほど侍女から伝え聞いたところによりますと、デボラ様のドレスは無残に破られていたとか」
「うわぁぁぁ、やめてくれ! 吾輩、もう聞くに耐えられないっ!!」
厳しい口調を一切変えないジルベールと、血涙を流してしゃがみ込むヴェイン。
所詮男とは欲望に突き動かされる悲しい生き物。想像なんてしたくないのに、無駄に豊かな妄想力のせいで、主夫婦のウフンでアハンなイメージが次々と湧いてきてしまう。
「どうすればいい……」
「――は?」
「もしデボラから離婚したいと言われたら……俺はどうすればいい」
「――」
「――」
「――」
普段からは想像できないほどにか細い、カインの声。
さすがにここまでカインが落ち込んでいるところは誰も見たことがなく、なんと言って慰めたらいいのか一同は迷った。
しかしそこに、不意に風が吹く。
まるで竹をスパッと割ったかのような、清々しい風が。
「アホか、そんなの土下座一択に決まってるだろ! 男ってぇのはな、大人しく女の尻に敷かれとくもんだ!」
「!?」
「あ、あなたは……!?」
突然執務室の入り口方面から声がしたかと思うと、したり顔の中年男がそこに立っていた。
これだけの手練れが揃っているにも関わらず、その男が部屋に侵入してきたことに誰も気づけず。
「お前……クロウ?」
「よっ、カイン、久しぶりっ♪」
人生で初めてどん底まで落ち込むカインの前に現れたのは、ハンチング帽をかぶった見るからに陽気な男。
クロウ=シャハト。
クロヴィス第一皇子の密命を帯びたこの男が、とうとうカイン達の前に姿を現した。




