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112 反撃の狼煙




 タチアナの頭は、私の記憶にあるよりも真っ白になっていた。

 顔には深い皺が刻まれ、実際の年齢より老けて見える。

 だけど人当たりがよさそうな柔和な顔つきは健在で、一流の侍女らしく今も背筋はしゃんとしている。

 呆然と被告席からその顔を見上げると、タチアナもまた私を見て瞳を潤ませた。


「デボラお嬢様、なんておいたわしい……。申し訳ありません、私があの時イクセル様の脅しになど屈せず、お嬢様をお守りできていたらこんなことには……」


 タチアナはハンカチを取り出し、証言台で号泣し始めた。

 その姿を見ていたら、私もついついもらい泣きしてしまう。


 いいの。

 いいのよ、タチアナ。

 あなたは何も悪くない。

 悪いのはあなたを脅した叔父様とセシル。

 そして二人の本性を見抜けなかった幼い私。

 あなたは何も悪くない。

 だからもう、あんな昔のことで自分自身を責めないで。


 そう言いたいけど、声は出せない。

 でもタチアナがこうして証言台に立つ勇気を出してくれたことは、素直に嬉しかった。


「タチアナ=バーレ。ではあなたが勤めていた頃のマーティソン子爵家の内情を詳しくお聞かせ願いますか? あなたの証言は被告人の人柄と生い立ちを知る上で、大変重要な手掛かりとなるのです」

「は、はい……!」


 ベッティル弁護官に促され、タチアナは9年前の子爵家の内情を赤裸々に証言し始めた。


 元々イクセル叔父様がギュンターおじい様に勘当された身の上だったこと。

 私の両親が死亡した事故自体、イクセル叔父様の謀略である可能性が高いこと。

 さらに正当な跡取りだった私を迫害し、叔父様が子爵の地位を簒奪したこと。

 タチアナや古くからの使用人が不当な解雇に遭い、その後私が叔父一家に虐待されるようになったこと。

 それらの事実はタチアナだけでなく他の使用人の証言も加わって、いよいよ公に知られることとなった。


「い、異議あり! 被告人がイクセル=マーティソンに虐待されていたという事実は、本件には全く関係なく、麻薬密売を否定する根拠とは成り得ません!」


 タチアナの証言を聞いて、検事官は慌てて異議を唱えるものの。


「いいえ、裁判長。虐待され、使用人以下の扱いを受けていた被告人が、自ら率先して悪事に加担するでしょうか? しかも彼女への虐待が始まったのはわずか8歳の時です」

「異議を却下します。弁護官、弁論を続けて下さい」


 幸い裁判官はイグニアー家の影響を受けていないのか、至って公平な判断を下してくれた。この頃から余裕だったはずの検事官の顔色が、真っ青に変わり始める。


「ではイクセル=マーティソン子爵が死亡した以降の被告人の動向について、新たな証人を召喚いたします」


 ベッティル弁護官はその辣腕を発揮して、今度は別の人物を法廷内に招き入れた。

 それは私もよく知る人物で、でもまさかここにやってくるとは思ってもみなかった人だった。


「私の名はノアレ=マクドガー。アストレー領のデボビッチ家で医師として働いております。デボラ様が当家にお輿入れになった当日から、デボラ様の保護観察日誌をつけさせて頂きました」


 ノ、ノアレーーーーッ!

 久しぶりに見るノアレはやっぱり女性に見紛うほどの美人さんだった。

 でもなぜあなたがここに? 瑞花宮の患者さんがいるからアストレーからは離れられないって言ってたじゃない。

 私がそんな風に目を丸くしていると、ノアレは一瞬私の方を振り向いて、イタズラっぽくウィンクした。


「デボラ様は子爵家が放火されてから、非常に重い記憶障害を起こされておりました。それゆえにアストレーに着いてからは医師である私と専属侍女が連携し、デボラ様の保護観察日誌を毎日欠かさずつけておりました」


 ええー、保護観察日誌!? そんなの初耳なんですけど!

 そっか……みんな私のことを心配して、そんな記録をつけてくれていたのね。

 でもそれって私にとっては、いわゆる黒歴史日誌になるんじゃないかしら……。


「この日誌を見て頂ければわかると思いますが、基本デボラ様が単独で外出なさったことはございません。また過去の大半の記憶を失っていたデボラ様に、グレイス・コピーの密売を行う時間も手段もありませんでした」

「異議あり! それもこれも全部被告人の演技かもしれないだろう!?」


 ノアレの証言に焦ったのか、またまた検事官が大きな声で異議を唱える。けれどそれを正論でねじ伏せたのは、他でもないノアレだ。


「私はこう見えても王立シェルマリア医科大学精神科の博士課程を修了しております。私は心の病を診る――プロです。確かに精神疾患を装う詐病患者は稀におりますが、デボラ様はこの例に当てはまりません。確かにデボラ様は記憶障害を起こされ、それが著しく改善したのは12月10日になってからのことです」


 つまりアストレーにいる間、私が麻薬密売を実行するのは不可能だった――

 ノアレは自信をもってそう証言する。

 するといよいよ法廷内の空気が変わり、傍聴席がざわざわし始めた。

 私の被告人席からは見えにくいけれど、多分セシルも少しは焦り始めているだろう。


「裁判官! ノアレ=マクドガーの証言はアストレーに滞在中のみに限定され、被告人が記憶を取り戻し王都にやってきてからは当てはまりません!」

「ではここでまた新たな証人を召喚します」


 検事官が異議を唱えれば、待ってましたとばかりに新しい証人を畳みかける。

 このベッティル弁護官、ルーナから優秀な弁護官だとは聞いてたけど、いやいやいやいや、これは私の予想以上に優秀過ぎる人じゃない?


 そして弁護側の扉が開き、新たな証人が法廷へと足を踏み入れる。その人物の登場で、今度こそ法廷内に大きなどよめきが起こった。


「僕、アリッツ=ディ=ヴァルバンダは尋問に先立って宣誓をします。良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べない旨を誓います」


 ア、アリッツーーーーーーー!

 ちょ、あなた大丈夫なの? ニライの毒で暗殺されかかったと聞いてから、あなたがどうしているのかずっと心配してた。でも私の予想以上に元気そうで安心した。

 しかもこの国の第三皇子が私の弁護側に立つなんて……。

 証人としての宣誓も、さっきのチョビ髭とは比べ物にならないほど信用できるものだわ。その証拠に法廷内のざわめきがおさまらず、裁判官が再びカンカンカンと木槌を鳴らす。


「傍聴人、静粛に! そ、それでアリッツ殿下、本日は一体何を証言して下さるのでしょう?」

「はい、僕は被告人が逮捕されたと聞かされた折に、検察側の起訴状を隅々まで読ませて頂きました。そして検察が主張する、マーティソン子爵家がグレイス・コピーを輸入する際に第三国を経由していたと言う事実に着目しました」


 アリッツは彼本来の頭の良さをここぞとばかりに発揮し、自分が持ってきた資料を提出する。


「起訴状によりますと、マーティソン子爵家はカシュオーンから輸出されたグレイス・コピーをいったんバトラーナ騎士団領のグレンルカ貿易会社という会社を通して我が国内に輸入しております。そこで僕は財務大臣に命じ、バトラーナ騎士団領と行ったここ数年の貿易記録を全て精査しました。またかの国と貿易を交わしたことのある商工会全てに聞き取り調査を行い、その結果グレンルカ貿易会社がいわゆるダミー会社であり、実在しない会社であることが分かりました。詳しいことは今配った手元の資料をご覧ください」


 このアリッツの発言に、おおおおおーーっと、さらなるどよめきが起こる。

 検事官の顔色は、もう真っ青というより土気色になっている。アリッツの証言を受けて、必死に手元の起訴状を再確認していた。


「つまりグレンルカ貿易会社とは被告人を有罪にするためだけにでっち上げられた架空会社であり、僕は被告人が真犯人でないことを確信しています。裁判官にはぜひ公平で、聡明な司法判断をお願いしたいと思います。これは皇子としてではなく、この国に生きる一人の人間としてのお願いです」


 アリッツはそう優雅に一礼し、見事に私の無実を強く裁判官に印象付けてくれた。

 それにしても私のためにこの国の財務大臣や、商工会まで動かすなんて……。

 きっとロクサーヌと協力して、たくさん無茶をしてくれたのね。

 ありがとう、アリッツ。

 もう裁判なんてどうなってもいいと氷のように冷え切っていた私の心が、証言台に立つみんなのおかげで、ほんのりと温かくなり始める。


「し、しかし被告人が夫を殺害した事実は覆しようがありません! 夫の浮気を起因として、被告人が嫉妬に駆られ犯行に至ったことはどう説明しますか!?」


 弁護側の数々の証言で形勢が不利と悟ったのか、検事官はグレイス・コピーの密輸ではなく、公爵殺害の罪で私を糾弾する方向に舵を切ったようだ。

 しかしまたここでベッティル弁護官が新たな証人を召喚する。それは昨夜、危険を冒してまで、牢獄に潜入してくれたルーナだ。


「私、ルーナ=ロントルモンと、被告人の夫・カイン=キール=デボビッチ公爵が不貞を犯したという事実は一切ございません。そう見えるように画策しろと、正体不明の敵に脅されただけです。私が敵の脅しに屈してしまったのは、アリッツ殿下とラヴィリナ皇女の暗殺に使われた毒が、我がロントルモン家から盗まれたものだったからです」


 ルーナは勇気を出して、ロントルモン家の恥ともいえる事実を法廷で証言した。

 儚い美少女が涙ながらに己の罪を懺悔する姿は、まるでよくできた映画の1シーンみたいだ。


「ごめんなさい、デボラ様、カイン様。私はとんでもない罪を犯してしまいました。でも私は兄に言われて、自分の愚かさに気づきました。どれほどロントルモン家の恥部を晒そうとも無実の人を陥れるような最低行為をしてはならない。兄にそう諭され、私は今この証言台に立っています。

 裁判官様、どうかデボラ様に寛大なるお慈悲を。デボラ様は真実カイン様を愛し、またカイン様もデボラ様を心より慈しんでおられました。お二人は本当に素晴らしいご夫婦で、何人たりともその間に分け入ることはできなかったのです」


 可憐な少女がはらはらと零す涙の効果は絶大だった。

 傍聴席ではルーナの演説にもらい泣きする人達が続出し、「ルーナ様の言うとおりだべ!」「公爵家のご夫婦がおしどり夫婦だったのは有名ですわ!」という、レベッカやロクサーヌの野次まで飛んでくる。


「あー、傍聴席、静粛に! 静粛に! あまり騒ぎ立てると退廷を命じますよ!」


 一向にざわめきがおさまらないことに困惑した裁判官は、何度も何度も木槌を鳴らす。

 さらにベッティル弁護官は、とどめとばかりに最後の証人を召喚した。


「それではアストレー公爵ご夫婦をよく知る人物として、エルハルド殿下にもご登場願いたいと思います」

「え!? エルハルド!?」


 このベッティル弁護官の宣言には、私も素で驚いてしまった。

 第三皇子のアリッツが証人に立っただけでも驚いたのに、まさか第二皇子まで引っ張り出しちゃったの!?


「私、エルハルド=ディ=ヴァルバンダは尋問に先立って宣誓をします。良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べない旨を誓います……」


 そしていよいよエルハルドが華々しく証言台に立った。

 けれどエルハルドはなぜか仏頂面で、何やらぶつぶつと小声で文句を言っている。


「それではエルハルド殿下、あなたの目から見て、アストレー公爵夫婦の仲はどのように映りましたか?」

「それを俺……いや、私に証言しろと言うのか? ベッティル弁護官、あなたは私にこの大衆の面前で恥をかけと?」

「はい」


 ベッティル弁護官がニコニコしながらエルハルドに近づくと、エルハルドは大仰な身振り手振りで抗議した。少し演技がかったその態度はやっぱりみんなの目を引き、その先を聞いてみたいと胸をワクワクさせる。


「はっきり申し上げる。あの嫉妬深い男がデボラを殺すことはあっても、デボラがあの男を殺すことなどありえん。そもそもこの私からの贈り物を全て突き返し、私の本気の求愛を容赦なく断った女だぞ、このデボラは」


 エルハルドははぁぁ~~と、がっくりと肩を落とし、これまた大仰に被告人席の私を睨みつける。


「まさか第二皇子である私に道化を演じさせるとは、全く不敬な女である。しかし悔しいが認めよう。デボラは確かにあの男を心から慕っていた。あの男が死んで最も悲しんでいるのが彼女だ。そうだろう? デボラ」


 エルハルドに問われ、私はハッと俯いていた視線を上げる。

 私に力強く問うエルハルドの瞳はどこか悲しげで、でも彼なりの覚悟を秘めていた。


「どうした、デボラ。なぜお前はしてもいない罪に問われた挙句、そんなところで小さく委縮している」

「………」

「俺の知っているお前はもっと強い女だ。不当なことは許さない女だ。お前には見えないのか。お前を助けようと立ち上がった、この多くの者達の善意が」

「エ、ルハルド……」


 エルハルドの問いかけは、今もなお暗闇の淵に沈み込んでいる私を強く叱咤するものだった。

 もうどう考えても無理なのに。

 私が愛したあの人はもうどこにもいないのに。

 それでも負けるな、もう一度立ち上がれと、厳しいまでに私を励まし続ける。


「デボラ、ここは真実を明らかにする場所だ。そこでお前はお前自身のために証言できるはず。お前があの忌々しい男をどう思っていたのか、今もどう思っているのか」

「……」

「いいか、お前がお前自身を守ることは、あの男の名誉を守ることでもある。悲しみに負けるな。困難に屈するな。あの男のために、まだお前にできることはあるんだ、デボラ!」

「……っ!」


 その言葉に私は目を見開き、大きく体を震わせた。

 呼吸が奪われるほどに胸を衝かれ、鼓動さえも一瞬止まる。

 

 絶望し、諦め、全てを投げ出し。

 自分の命などもうどうでもいいと自棄になっていた私めがけて放たれた、それは痛烈な光の矢。

 その矢は一本だけでなく、次々と束となって私の頭上に降り注ぐ。



『よく見ろ。これがお前が為してきたことだ、デボラ』



 ああ、公爵がこの場にいたなら、彼もきっとそう言って臆病な私の両肩を後ろから支えたに違いない。

 アストレーから逃げ出そうとしていた私を引き留めたように。

 今また自分の人生を捨てようとしている私を、あなたはあの仏頂面で叱るのだろう。


 ああ、カイン様。

 カイン様。

 ごめんなさい。

 ごめん……なさい。


 また私は、あなたを失望させてしまう所でした。

 どんなに辛くて苦しい状況でも、勇気を出して一歩踏み出せば未来は必ず拓けると教えてくれたのは……あなた。

 そこにはとても愛しくて大事な人達が待っている――と教えてくれたのも……あなただったのに。



 そうして私はゆっくりと立ち上がる。

 まるで眩しい沢山の光に導かれるように。

 全てをなくし、全てを諦めた今の私にできる唯一のこと。

 それは……あなたへの本当の想いを語ること。




「私……私は……」




 そうしてみんなが上げてくれた反撃の狼煙は私を再び覚醒させ、


 全ての想いが魂の叫びとなって――迸った。

 




 

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