108 カインの死
それはまるで全てを押し流す濁流のようだ。
私はその狭間でぷかぷかと頼りなく浮き沈みする、小さな木の葉そのもの。
公爵とセシル。
お互いに別の意味で才能に溢れた二人は、今薄闇の中で対峙していた。
私は必死に公爵の背後に目を凝らす。
ヴェインはどこ?
コーリキやジョシュアはどこ?
いつも公爵の護衛をしている親衛隊のみんなの姿は!?
だけど何度見直しても、公爵の周りに味方らしき影はない。
まさかそんなはずはない……と思ったことが、現実に起きてしまった。
「約束通り、一人で来たんだろうね?」
「疑うなら外を見てくればいい」
「それは上々」
公爵が完全に一人でこの場にやった来たと確信したセシルは、満足そうに口角を上げた。今まで外を見張っていた男達数人も教会内に入ってきて、公爵の周りを取り囲む。
おそらくセシルは私を人質にして、公爵をこの場に呼び出したんだろう。
その目的は?
そんなこと考えなくてもわかる。
セシルは私と同じくらい……ううん、下手したら逆恨みから私よりも公爵の方を憎んでいる。
公爵に危険が迫ったと察知した私は、咄嗟に叫んだ。
「逃げて!」
でも公爵はいつも通り顔色一つ変えない。それどころか平然とこう言ってのけたのだ。
「妻を置いて逃げる夫がどこにいる」
「!」
当たり前のようにそう宣言する公爵が、ひどく憎らしくて――でもそれ以上に愛しくて。
私の視界はまたあっという間にぼやける。
なんでなの。
なんであなたはいつもそうなの。
こんな愚かな私のことなんて、早々に見捨てればよかったのに。
セシルの策略にまんまと引っかかった自分の身を呪いながら、私はきつく唇を噛み締めた。そうしている間にも状況はますます悪化し、私と公爵はピンチに立たされる。
「じゃあまずはその懐に隠し持ったものを、こちらに渡してもらおうかな」
「………」
「それとも姉様を傷つけたほうが早い?」
「……わかった」
公爵は護身用の短銃を取り出し、それを床へと投げ捨てた。
ああ、どうしよう。これでとうとう公爵は丸腰になってしまった。
最悪な予感が脳裏をかすめ、私の全身は恐怖で硬直する。
「美しき夫婦愛だね♪」
「………」
セシルは公爵の短銃を拾い、それを手に持って構えた。銃口の先に立つのは、もちろん公爵だ。
「やめて、セシル! あなたが殺したいのは私でしょ? カイン様は関係ない!」
「関係ない?」
私は必死に止めるものの、その言葉がセシルの癇に障ってしまったみたいだ。
「関係ないはずないでしょう? 元はと言えばこいつが姉様に結婚を申し込んだのが全ての始まり。こいつさえいなきゃ、僕らはずっと幸せでいられたのに」
「幸せ? ふざけるな」
さらに怒りは怒りの連鎖を呼んで今度は公爵のほうがブチ切れる。
「デボラを踏み台にして、偽りの幸せを享受していたクソガキが生意気抜かすな。デボラは渡さない。こいつは俺の妻だ」
「黙れっ!!」
次の瞬間、一発の銃声が響き渡った。
私はヒュッと息を飲みこみ、ガタガタと体を震わせる。
セシルが放った弾丸は公爵の頬を掠め、一筋の赤い傷跡を刻んだのだ。
「ああ、ムカつく……ムカつくんだよ、あんた、カイン=キール。いいか、姉様は僕のものだ。僕以外愛してはいけないんだ! あんたが姉様をこんな風に変えたというなら、その諸悪の根源は絶たなきゃねぇ?」
「……」
セシルはぐしゃぐしゃと自分の髪をかき乱しながら、再び短銃の撃鉄に親指をかけた。その照準は今度こそ確実に公爵の体に向けられている。
その時、私の全身の強張りが一瞬で解けた。
恐怖を凌駕して、公爵を救わなきゃという使命感が私を強く突き動かしたのだ。
「させない!」
「っ!?」
次の瞬間、私はセシルに思いきり体当たりし、公爵への攻撃を防いだ。その隙を見逃さず、公爵はセシルの間合いに大きく踏み込み、渾身の蹴りを入れる。
「ぐはっ!」
受け身さえ取れず、セシルは後方に吹っ飛んだ。
カラカラと床に転がる短銃。
セシルが床にうずくまるのを見て、マグノリア様が悲鳴を上げる。
「いやぁぁぁっ! フレデリク!!」
「デボラ!」
「カイン様!」
刹那、私めがけて迷いなく伸ばされる公爵の手。
私はその手を取ろうと、床に転がった状態から急いで立ち上がろうとした。
けれど。
「はい、そこまで」
「!」
カチリ。
今度は私の後頭部に銃口が突き付けられた。
公爵はぴたりと動きを止め、私を脅す人物へと視線を向ける。
「ハリエット=コルヴォ」
「はい、すいませんねぇ。これが俺の仕事なんで」
「……っ!」
素人のセシルは騙せても、さすがにプロの殺し屋の目は騙せなかった。
床に転がった短銃を今度はハリエットが拾い、それを私へと突き付けたのだ。
「殺せ、ハリエット! そいつを……カイン=キールを殺せっ!!」
マグノリア様に介抱されながら、セシルが激昂しながら叫ぶ。
その瞳には激しい憎悪の炎が灯り、ごうごうと激しく燃え盛っていた。
私はハリエットに脅された体勢のまま、必死にかぶりを振る。
「お願い、逃げて……」
「………」
「私のことはもういい……。だからカイン様だけでも逃げて。お願い……」
もう駄目だ。私はここから逃げられない。
セシルの手の内からは、どうやっても逃げ出せない。
でも公爵だけなら……。
公爵一人だけなら、今すぐここから引き返せば命だけは助かるはずだ。
「デボラ」
「――」
「愛している」
「――」
―――え?
一瞬何を言われたのかわからなくて、私の時は一瞬止まる。
「――は?」
それはセシルも同じだったようで、公爵の言葉を聞いて目が点になっていた。
そしてこんな時ばかり公爵は饒舌になって、思ってもみない告白を続ける。
「ずっと後悔していた、あの日の夜のこと」
「………」
「あの日、もし俺が嫉妬なんかに煽られず、素直に自分の気持ちを告げていたなら、お前は俺の妻になってくれていたか?」
「カイン、様……」
そう尋ねられ、私の眦からは後から後から熱が溢れ出る。
カイン様。
カイン様。
カイン様。
愛してるって……。
その言葉は本当?
私があなたを想うように、あなたも私のことを好きでいてくれた?
この時、ルーナとのことなんて見事に頭からすっぽ抜け、公爵の言葉がストンと私の心に落ちた。
『愛している』
それは私が今までずっと心で願い続けて、でも怖くて形にしてこなかったもの。
本当は誰よりもあなたに近づきたくて。
でもいつか捨てられるかもしれないと思ったら、勇気が出せなくて。
あなたの優しさに甘えて、私はずっとぬるま湯の生活の中で揺蕩ってた。
「デボラ、ここでお前を見捨てるくらいなら、そもそも俺は自分の命を賭けてない」
「カイ……」
なのにこの最悪のタイミングで、最高の言葉を私に贈ってくれるあなた。
自分の命さえ、私のために捧げてくれるあなた。
私は手枷をつけられた状態で手を伸ばす。
一ミリでも近く、あなたの心に寄り添いたくて。
私もあなたのことがとても……とても好きだと、急いで伝えたくて。
けれど無情で残酷な瞬間は、唐突に私達の間に訪れる。
「私もカイン様のこと……」
「撃てっっ!」
「!」
―――そして、銃声。
一発………二発………。
三発目が響いたところで、公爵の左胸から赤い血が大量に噴き出す。
「カ……」
鼓動が、止まった。
私の鼓動も。
公爵の鼓動も。
公爵の長くてきれいな睫毛が、ゆっくりと閉じられる。
そのまま仰向けの状態で、ドッと音を立てて倒れる黒い影。
胸から流れる赤い血はすぐに床を汚し、大きな血だまりを作っていった。
「ハハハハハハっ、ざまぁみろ、カイン=キール! 僕に逆らうからこうなるんだ!」
セシルが私のすぐ背後で何か……叫んでいた。
だけど聞こえない。
キコエナイ。
これはそう………きっと悪い夢だ。
私はまた、悪夢の中に彷徨いこんでいる。
だって……死ぬはずがない。
あの公爵がこんな簡単に、死ぬはずがないもの。
「待て! 迂闊にそいつに近寄るな! 脈があるかどうか慎重に調べるんだ!」
さらに私に銃口を突き付けていたはずのハリエットが、セシルの手下達に向かって何か叫んでいる。入り口付近にいた男が倒れたままの公爵に近づき、その手首に触れて彼の生死を確かめた。
「脈、触れていません。カイン=キールの死亡を確認しました!」
「――」
まるで勝ち誇ったかのような男の声に、私は再び呆然とする。
嘘よ、嘘。
もうこれ以上の冗談はやめて。
これ以上のまやかしを私に見せないで。
カイン様。
カイン様。
カイン様。
どうかもう一度目を開けて。
そしてもう一度あの皮肉気な微笑を、私に見せて欲しいの。
「いやぁぁぁーーーっ! カイン様っっ!!」
次の瞬間、唐突に我に返った私は公爵のもとに駆け寄ろうとした。
――が。
「おっと、あなたはまだ大人しくしてて下さいね」
と、すぐ近くにいたハリエットに、手枷ごと拘束される。
私は振り向きざま、鬼の形相でハリエットを睨みつけた。
すでに涙で視界はぼやけていたけれど、公爵を殺したこいつの顔は死んでも忘れない。
未来永劫、絶対に許さないから――!
「おー、こわ。俺は命令を遂行しただけですから、そんなに恨まないで下さいよ」
人一人を殺した直後だと言うのに、ハリエットの軽妙な態度は相変わらずだ。さらにセシルの方を振り向き、次の指示を仰ぐ。
「ではセシル様、いいですか?」
「ああ、さっさとやっちゃってよ。こっちはとんだ茶番を見せられて、ほとほと嫌気が差してるんだからさ」
セシルは心底うんざりしたという風に、手をぶらぶらと振った。
そして未だ抵抗している私を振り返り、ニッと嗤う。
「ふふ、最高の泣き声だったよ、姉様。これでようやく絶望してくれたかな?」
「な……っ!」
怒りで我を忘れた私はセシルに飛び掛かろうと身構える。
けれどその直後、不意にみぞおちを強く殴られて、私の意識が遠のいた。
「おっと、デボラ様、それじゃあおやすみなさい」
「ハリ………ッ」
一気に視界が真っ暗になる中、私の耳に最後まで残り続けたのは、愉悦を隠し切れないと言った風のセシルの哄笑だった。
これでセシルは私への復讐の第一段階を果たした。
私の夫を目の前で殺害するという……とっておきの残虐な方法で。
(カイン様……)
そうして私は再び落ちる。
深い……深い奈落の底へと。
カイン=キールという最愛の人を失った私に――
もう生きる希望など、見出せるはずもなかった。




