105 亡霊は嗤う1
ここからセシル視点も入ってきますが、サブタイトルはネタバレ防止のため視点表記抜きになります。
ここまでまだ辿り着いていない読者様のために、引き続きネタバレ防止配慮をよろしくお願い致します。
しばらくデボラ視点とセシル視点混在のお話が続きます。ちなみに「嗤う」は「わらう」と読みます。
うそ。
うそ。
うそ。
セシルの微笑を目にした刹那、私の上下の歯はガタガタと震え、醜い不協和音を奏でた。
突然動悸が激しくなり、喉が焼けるように乾きだす。
マグノリア様が密輸組織に関わっているのでは……と言うところまでは、ある意味推測通りだった。
でもさすがにこれは。
セシルが生きている可能性なんて、私は一ミリも考えていなかった。
一体いつからなの? セシルが事件に関わっていたのは?
まだ14歳という幼さでありながら、全てを計算尽くしたかのようなセシルの周到さに、私は恐れを抱かずにはいられない。
「どうして……」
「どうして? それは何に対しての質問なのかな?」
セシルは笑みを絶やさぬまま、こつこつとゆっくり私に近づいてくる。
その視線から逃げたくて私は無意識に後ずさるけれど、すぐに近くの長椅子にぶつかって、その上に尻もちをついてしまった。
「どうして、その声……」
「ああ、そっか。僕ね、四カ月前に変声期になっちゃったんだ。やだよねぇ。前の声、気に入っていたんだけどなぁ」
変声期。
言われてみればセシルの身長は私の記憶にあるより少し高い。もしかしたら私の知らない間に、成長期に入ったのかもしれない。
「どうして、セシルがマグノリア様と……」
「ああ、そのこと? 話すと色々長くなっちゃうんだよねぇ。僕もあの火事以来、死に物狂いで生きてきたから」
さらにセシルは私の髪を一房手に取って、愛しそうに梳る。
その間も私の体の震えは止まらなかった。
「ねぇ、でもそんなことより先に、もっと別のことが聞きたいんじゃないの?」
「……………」
「“どうしてセシルが生きてるの?”――姉様、本当はそれが一番知りたいんでしょう?」
「……………っ!」
私はとっさに目をつぶって、セシルの質問を肯定するようにぶんぶんと首を縦に振った。
喉の奥から悲鳴に近い何かが競り上がってくる。それは嗚咽にも似て、私の全身を恐怖という猛毒で侵していく。これ以上ないほど激しかった鼓動がさらに高まり、心臓が破けそうだった。
「姉様、相変わらずだね。そんなに僕が怖い?」
「……っ」
「安心して。今も昔も僕はデボラ姉様がだぁい好き。それだけは絶対変わらないから」
「大好き」の「だぁい」の部分に強いアクセントをつけて、セシルは私の黒髪の先にキスをした。
さっきまでは何が何でも、戦わなきゃと思っていた。
例えどんな敵が目の前に現れたとしても、最後までとことん抗わなきゃって。
けれど私の持つ勇気全てを、セシルはその存在だけで根底から打ち砕く。
彼と共に暮らした9年間は、私のアイデンティティを完全に破壊してしまった。
その傷跡はまだ癒えてなくて、セシルを前にした今、私は文字通り蛇に睨まれた蛙と化してしまう。
怖い。
怖い。
怖い。
セシルという恐怖の根源に支配された私は、もう何も言い返せない。
この世で私が唯一無条件で全面降伏してしまう相手――それがセシルだった。
「そうだなぁ、どこから話そうかなぁ……」
セシルはにっこりと笑うと、ほんの少し私から離れた。そして周囲をうろうろと歩き出し、不意にハリエットの方を振り向く。
「予定の時間まで、あとどれくらいある?」
「おそらく30分と少し……くらいですかね」
ハリエットは胸ポケットから懐中時計を取り出し、時間を確認している。
「じゃあ彼を待つ間に、特別にお話しでもしようか。ずばり【セシル=マーティソンの大冒険】! 始まり始まり~♪」
セシルはまるで道化のように明るく振る舞い、自慢気にこれまでのことを振り返りだした。
その間もなぜかマグノリア様は特に口出しするわけでもなく、ニコニコと嬉しそうにセシルを見守っているだけ。
そしてセシルの言う『彼』が一体誰なのかに考えが及ばないまま、私はただ恐怖で立ち竦むことしかできなかった。
× × ×
ははは、もっと怖がれ。
もっと震えろ。
セシル=マーティソンは、表情を引き攣らせたデボラを見ているだけで胸が空く思いだった。
苦汁を舐め続けたこの五か月間。
アストレー公爵夫人として華々しく王都に戻ってきたかつての姉を遠くから眺めながら、どれほど激しく妬み、憎んだことか。
しかしとうとうセシルの復讐は、今この時をもって実を結ぶ。
神に選ばれし自分だけが、身の程知らずな姉に正義の鉄槌を下すことができるのだ。
これでこそただひたすら闇に紛れ、姿を隠していた甲斐があるというものだ。
セシルは自分がそうせねばならなくなった五カ月前のあの日のことを、思い出した。
「セシル、私の身に何かがあったら、お前がこの書類を検察に持っていくんだ。いいな?」
「お父様……」
カインがマーティソン家にデボラとの結婚を正式に申し込んだ直後。
セシルの父・イクセルはある書類を数通息子に託した。それはイクセルが祝福と同等に交渉できる手札――つまり組織から盗み出した重要機密情報だった。
「グレイス・コピーの密輸ルートを示した海図と、それにまつわる貿易会社のリスト……か。お父様、よくこんな危険なものを手に入れられたね」
「私を見くびるな。グレイス・コピーの密輸は金の生る木だ。むしろこっちが組織を利用してやるくらいの気概がなくてどうする」
イクセルは自信満々に言い放った。
今まで数えきれないほどの人を騙し、自分の血族である兄夫婦さえ闇に葬ったイクセルは、もはや善悪の区別などつかないモンスターに成長していたのだ。
「一応念のためにもう一つ保険はかけてある。本当にやばい証拠は、デボラの部屋に隠した」
「デボラ姉様の部屋に?」
この頃、セシルは父がどれほどの悪事に手を染めているのか熟知していた。だから父がとっておきの切り札の隠し場所として、あの奴隷同然の女の部屋を選んだことを不思議に思った。
「なに、葉を隠すなら森の中。まさか使用人以下のあいつのところに、そんな大事なものが隠されているとは誰も思うまい」
「………」
「アストレー公爵の求婚は本当に忌々しいが、こんなことで私は潰れない。デボラはしばらく田舎に隠して、表では急病で亡くなったことにする。いいな?」
「……うん、わかったよ。お父様の判断に従う」
こうしてセシルはイクセルから【祝福】に関する機密情報を預かった。イクセル自身もまだこの時は自分の実力を過信し、最悪の事態を想定していなかった。
けれどイクセルは、すぐに知ることになった。
自分の息子を信じたこと自体が、そもそもの間違いだった――と。
「僕は組織に忠誠を誓います。父の裏切りはこの通り、重要機密をお返しすることで贖います。ですからどうか命だけは助けて下さい!」
イクセルがセシルに重要機密を託した翌日、セシルはすぐにそれらを持ってマグノリアの軍門に下った。
セシルにはわかっていた。どう足搔いても一介の子爵如きが、国をまたいだ一大麻薬組織に逆らえるはずがないだろうことを。
一度裏切れば最後、血の報復が待っているだろうことを。
だからこそ真っ先に父を裏切り、託された証拠を忠誠の証として全て差し出した。
もちろんセシルの相手をしたのは組織の幹部で、この時点ではまだマグノリアとの面識はなかった。
「では祝福様からの指示を伝える。まこと我らに忠誠を誓うと言うならセシル=マーティソン、その言葉に偽りがないことを己の行動で示してみせよ。お前の父は我らを欺き、侮り、面目を潰した。その報いを是が非でも受けなければならない」
「もちろんです。わが父に裁きを下す役目、どうか僕にお任せ下さい」
こうしてセシルは実の父を裏切り、組織の手先として暗躍することになった。
イクセルが全てを悟ったのは屋敷に火をかけられ、息子にナイフで刺された直後のこと。
「な、なぜだ、セシル。なぜおまえが……っ」
「わからないの? もうお父様は用済みなんだよ。バイバイ」
「セシル……ッ」
イクセルとその妻は、最後まで息子の凶刃に抗おうとしたが、就寝前に飲んだワインの中には痺れ薬が仕込まれていた。そのためろくに体を動かせぬまま、息子に殺されることとなったのだ。
二人の死を見届けたセシルは刺殺の証拠が残らないよう、両親の遺体にランプの油を大量にかけ、骨の芯まで燃やし尽くした。
おそらく骨のほとんどが灰燼と化せば、遺体の数もわからなくなりセシルも死亡扱いとなるだろう。子爵家という地位を失ったのは残念だが、命あっての物種だ。
「叔父様……叔母様……セシル――!」
闇夜に紛れて屋敷を抜け出す時、使用人用の別棟にいたデボラが泣き叫んでいる姿が見えたが、セシルはとりあえずデボラのことは放置することにした。
子爵家が消滅すれば、頼るよすがのないあの女はきっと野垂れ死にするだろう。
父がデボラの部屋に隠したという例の書類は、後日回収しにくればいい。
今はとにかくこの場から一刻も早く逃げ去り、自分が生き延びたという事実を隠す必要があった。
その後、セシルが真っ先に身を寄せたのが、宗教区にあるマグノリア救貧院だった。
救貧院は慈善活動の一環として、身寄りを亡くした孤児達の受け皿になっている。セシルもまた病で両親を亡くしたと出自を偽り、救貧院に保護されることになった。
しかしセシルはこの時、うっすらとだが感づいていた。
【祝福】は必ず救貧院と繋がっているはずだ……と。
なぜなら父が自分に託した書類の中に、マグノリア救貧院に関する記述があった。
グレイス・コピーを密輸する際に使われる割符には、木蓮の花の印章が刻まれている。
セシルは右手に負った軽い火傷の痕をぺろりと舐めながら、硬くて狭い二段ベッドの中で体を丸くした。
(この僕が、こんな所で終わってたまるか。見てろよ、必ずまたのし上がってやる……)
暗闇の中で両目をぎらぎらと光らせながら、セシルは自分を奈落に突き落とした運命そのものに対する復讐を誓う。
自らの両親を手にかけ、何一つ罪悪感を感じない少年は、虎視眈々とその牙と爪を研ぎ始めた。




