102 牙を剥く死神1
その日は遠く東の空までも鼠色の低い雲にどんよりと覆われていた。
私はロクサーヌの助言を受けて、五カ月ぶりにかつてマーティソン子爵家だった場所を訪れた。
いまだ次の所有者が決まらず、無残な焼け跡がそのまま放置されている土地。コーリキに聞いたら、ここについては現在デボビッチ家が管理し、必要なら私が相続出来るよう手配することも可能らしい。
とは言っても私はもうこの土地には、何の未練もないけれど。
私は護衛のコーリキとジョシュアと一緒に、ぐるりと辺りを見回した。
「やっぱり何も残ってないわよねぇ……」
私が追いやられていた使用人専用の別棟は辛うじて残っているものの、やっぱり叔父様やセシルが暮らしていた本邸は跡形もない。
あ、ちなみに今日エヴァやレベッカはスチュアート家でお留守番中。放火の現場なんて年頃の女の子がわざわざ見に来るような場所じゃないしね。
「見事に焼けてますね」
「なんか手掛かりがあればと思ったんスけどねぇ」
せっかくここまで足を延ばしたものの、やっぱり何の成果も得られそうもなくて私達はがっかりする。
ロクサーヌの言うとおり、あのイクセル叔父様なら何か残してるかも…と思ったんだけどなぁ。
私はこめかみに指をあて、何か忘れていることがないかと考え込む。
「何か組織の弱みになるようなもの……。イクセル叔父様が残したかもしれないもの……」
「デボラ様、あまりご無理なさいませんように。虐待されていた時の詳しい記憶など、忘れたままのほうがよろしいかと存じます」
コーリキは過去の記憶を探る私に優しく声をかけてくれた。
確かにあの9年間のことを思い出そうとすると、私の頭はずきずきと痛みだす。
そう、まるで突然目の前の風景にノイズがかかったような不快感。これがノアレが言っていた自己防衛本能という奴なのかもしれない。
「ありがとう、コーリキ。でも私の記憶の中に何か手がかりがあれば、やっぱり思い出さなきゃと思うの」
「デボラ様、しっかりっス!」
コーリキとは対照的に、ジョシュアは拳を握り締めながら私を応援してくれた。
でもやっぱり何か思い出そうとすると、心臓がバクバクと早鐘を打ち出し、手のひらにびっしょり汗が滲んでくる。
『デボラ…なぜ私の言うことを聞かない!? そんな子には今日もお仕置きだ……!』
『ねぇ、デボラ姉様? 僕、姉様のことがだぁい好きだよ?』
「……っ!」
叔父様やセシルとの思い出を手繰り寄せるうちに、私はとうとう激しい目眩を起こし、その場にうずくまってしまった。
胸が……苦しい。
息が、できない。
あの人達が亡くなってもう五カ月以上経つのに、私の心の一部はまだ彼らに縛られたままなのだ。
「デボラ様、やはりやめましょう」
「顔色真っ青っスよ! 苦しいならオレの腕に思いっきり捕まっちゃって下さい!」
「ご、ごめんなさい……」
でも結局ここまで来ても、私は何も思い出せなかった。
ううん、むしろこの地に留まっている叔父様たちの魂が、何も思い出さなくてもいいと語りかけてくるかのようだ。
困ったなぁ……。これじゃ前に進むどころ、むしろ後退しているような気がする。
私が本当の意味で過去を克服できるのは、一体いつのことになるんだろう?
「あれぇ? そこにいらっしゃるのはデボラ様じゃないですか?」
「!」
その時、ふと後方から見知った声がして、私は振り返る。
薄汚れたハンチング帽をかぶり、口に煙草をくわえた中年男。
彼と会うのは避難所の炊き出し場で話をした時以来だ。
「あら、ハリエット。どうしてあなたがここに?」
「いえ、ちょいとここに探し物に来まして。デボラ様はお墓参りか何かですかい?」
ハリエットはいつもの通り気安い口調で私達に近づいてきた。すると私の隣に立っていたコーリキとジョシュアが、驚いたように目を見開く。
「あなたが……ハリエット=コルヴォ?」
「デボラ様の護衛の方々かな? どうも初めまして」
「………」
「………」
ハリエットが帽子をとって挨拶するや否や、コーリキとジョシュア表情が突然険しいものに変わった。
あ、そういえばハリエットとコーリキ達は、これが初対面だったっけ。
社交サロンでハリエットと初めて会った時、コーリキ達はサロンの外で待機していたし、仮面舞踏会の時は私がコーリキ達に嘘をついてロントルモン伯爵家を抜け出したから、お互い顔を知らなかったんだわ。
「デボラ様、どうかお下がりください」
「……え?」
コーリキは私を庇うように前に一歩進み出て、ハリエットに対し睨みをきかせる。それに倣ってジョシュアも警戒態勢に入った。
「え? え? 一体どうしたの?」
私はどうして急にコーリキ達が厳しい態度になったのかわからなくて、コーリキとジョシュアとハリエット、三人の顔を順番に見比べる。
「……一体何が狙いですか? ハリエット=コルヴォ」
「狙いも何も……そんな警戒しなくってもいいじゃないですか。ほらほら、そっちの坊ちゃんも。実は今日は特ダネをサービスしに来たんです」
ハリエットはうすら笑い、咥えていた煙草を吐き捨て爪先で揉み消した。
なんだか三人の間に漂う空気が尋常じゃなくて、さすがの私も身構える。
「この間デボラ様と会った後、俺はカシュオーンに取材に行ってましてね」
「カシュオーン……」
それって今までも何回も話題に出てきたヤバイ国じゃないの!
カシュオーンで手に入れた特ダネって、一体何かしら?
「カシュオーンを牛耳る右大臣はラムザという奴なんですが、あいつがなぜ王族を退け、あそこまで絶大な権力を握っていられるのか。その理由を知ってます?」
「ううん、知らない…けど」
ああああっ、しまった、例の組織と繋がりがある国なんだから、世界情勢ぐらいちゃんと勉強しておくんだったわ! こう言うところがいちいち抜けているのよね、私。
「ズバリ金ですよ。あの国は元々バイキング……海賊が建てた国でして。強き者は奪い、弱き者は搾取される。それが顕著な国なんです」
「そう言えば……」
公爵の最初の奥様の旦那様(ややこしい設定ね!)は、元カシュオーンの王子だと言っていた。彼も確か海賊として、カシュオーン領海内を荒らしまわっているはず。
「グレイス・コピー」
「!」
「ラムザの資金源の大部分は、麻薬の輸出で成り立っているんです。どこかで聞いたような話だと思いません?」
「………」
ハリエットは新たな煙草を取り出し、また火をつける。
けれどハリエットがグレイス・コピーの名前を口にした途端、私の警戒バロメーターも一気にMAXに跳ね上がった。
ハリエット、なぜあなたがそんな詳しいことを知っているの?
新聞記者だからと言われればそれまでだけど……何かが怪しい。
そして今、このタイミングで私達の前に現れた目的は何?
「でもここにきてカシュオーンではラムザの悪政に耐えかね、いよいよクーデターの機運が高まってきました。特にあちらの国でも麻薬の輸出入は重罪に当たるんです。ラムザが麻薬密売で私腹を肥やしていたことは周知の事実ですが、いざクーデターが起こった時に奴を裁判で弾劾するためには、奴の犯罪を立証するための証拠が必要となる」
「………」
「そこでいろいろ探りを入れたら…あらまぁ不思議。なぜかこの国のマーティソン子爵に辿り着いたという訳です」
「な、なんで!? なんでよその国の犯罪が、うちの叔父様に繋がるの?」
大仰な身振り手振りで悪代官……じゃなかった、右大臣の悪行を語るハリエット。彼はうーんと軽く首をひねってから、パチンと一度指を鳴らした。
「まぁ、難しい説明はこの際省きますが、要するにマーティソン子爵家は大事な血判状を密売組織から持ち逃げしたんですよ」
「血判……状?」
「そうです、ラムザとこの国の麻薬密輸組織のボス――【祝福】が交わした麻薬密輸に関する特別な契約書。表に出たら一発アウトな証拠です」
「……っ!」
「ええ、なんスか、それっっ!?」
「お、叔父様がそんなものをっっ!?」
ここに来て、とうとうハリエットから大きな爆弾が投下された。
血判状って確かあれよね? 時代劇とか歴史ドキュメンタリーとかでよく見る、指の一部を切って自らの血液で捺印する奴。
それに密売組織のボスが祝福と呼ばれてるなんてことも初耳だわ。
祝福どころか、むしろ悪魔の使いだと思うんだけど。
「ラムザと祝福はどちらも慎重、かつ猜疑心の強い人物でしてね。グレイス・コピーの貿易協定を一年ごとに更新する度、互いの裏切りを抑止するために新しい血判状を交わすんです。これは主にカシュオーンの海賊の風習にのっとった契約の仕方で、文字通り血の盟約……というわけです」
「血の盟約……」
次々と信じられない事実が明るみになって、私の頭はパニック状態だ。
そんな大事なものを叔父様が組織から持ち逃げした?
うわぁ、なんて命知らずな……。
たけど自分の保身のためなら、もしかしたらそれくらいやる人かもしれない。
「その問題の血判状はお互いの指紋がしっかり捺印されている上に、偽造できないように特別な透かしまで入っている。まぁ、マーティソン子爵はそれだけでなく、密輸ルートを記した海図や、悪徳貿易会社のリストなどもごっそり盗み出していたようですけどね。これらがもし表沙汰になればラムザはおしまい。祝福もおしまい。つまり悪党はみんな一網打尽にされてしまうと言う寸法です」
「………………………」
ねぇ、私今生まれて初めて経験したわ。
まさに開いた口が塞がらないって奴。
死人に鞭打つつもりはないけど、なんてとんでもないことをしてくれたのかしら、イクセル叔父様は!
泣く子も黙る密売組織相手にそれほどの大立ち回りを演じたんじゃ、口封じで殺されるのも当然だわ、こりゃ。
「――で。問題の血判状ですが、一通はラムザが厳重に保管している。そして盗まれたもう一通の行方がいまだ不明……なんですよねぇ?」
「………」
全てをの特ダネを語り合ったハリエットは、にやにやと笑いながら私の前に立った。
刹那、コーリキが剣の柄を握って、いつでも抜刀できる体勢に入る。
ジョシュアも瞬時に逃走できるよう、私の手を強く握ってくれた。
「そこでデボラ様、あなた何か知りません? 血判状が今、どこにあるのか」
「し、知らないわ……」
「あれぇ? そんなはずないんですけどね? 確かにあなたが持っていると、とある筋から情報を得まして」
「はぁ!?」
ちょ、一体誰よ、そんなデマを流した奴は!?
血判状どころか、それらしい書類だって見たことないわ!
だって叔父様にしてみれば私は使用人以下の奴隷。そんな大事なもの、私に見せるはずないじゃない!
「まぁ確かにデボラ様の部屋に、それらしきものは見当たらなかったようですが……」
「私の部屋!? もしかして荒らしたのはあなた!?」
「いや、俺じゃあないです。淑女の部屋を荒らすなんて無粋な真似、この俺がするはずないじゃないですか」
「いーや、信じらんない!」
ハリエットは相変わらずニヤニヤしながら、余裕綽々の態度だ。
けれど今ならばわかる。柔和な微笑を浮かべつつ、不気味なオーラを発するこの中年男が、ただの新聞記者であるはずがないってこと!
「ハリエット、あなた一体……何者?」
「知りたいですか? それなら……」
ハリエットはふぅ~っと一度煙草の煙を大きく吐き出すと、背広の内側から大ぶりのジャックナイフを取り出す。
「これから俺とデートと洒落込みますか? あなたを無理やりにでも連れてくるようにと【祝福】からも命令を受けているので」
その時、闇に隠れていた死神が、とうとう私達の前で本性を現した。




