100 ロクサーヌの助言1
大きく欠けた月が、じりじりと天を這っていた。
空がうっすら曇っているせいで、星の瞬きはない。薄闇の中、王都・シェルマリアの建物の輪郭はどこかぼんやりとしていて、半ば暗闇と同化しているのだ。
「紅茶を入れました。どうかこれを飲んで温まって下さいね」
「ありがとう、ロクサーヌ……」
公爵の浮気現場を目撃してショックを受けた私は、衝動的にデボビッチ家本邸を飛び出した。
最初は「アストレーに帰る!」とばかり言い張っていたけど、何の準備もないまま長旅に出ることは当然不可能で、結局スチュアート家のロクサーヌを頼ることにした。
彼女は無条件で私を受け入れてくれて、ここ三日ほどはスチュアート家でお世話になっている。
そして今日、デボビッチ家に残ったエヴァも駆け付けて、やっと私達と合流することができた。
「デボラ様、カイン様からの伝言を預かっております」
「………」
あの日からずっと泣き暮れ、目を赤く腫らしている私を前に、エヴァが辛そうに口を開く。
「アストレーに帰りたいならそれでもいい。旅の準備はこちらで整える。もし気が変わったら王都に滞在したままでもいいが、その際はデボビッチ家の本邸には戻らないように……とのことです」
「………っ!」
「な、なんだべ、それ!? つまりカイン様はデボラ様を見限ったっていうことだか!?」
それは実質、離婚宣言のようなものだった。
公爵は正妻である私を追い出して、これからルーナを屋敷に迎え入れるつもりなんだろうか。
でもそうしたいならそうすればいい。
私は全てに投げやりな気分になり、今後のことを考えることさえ億劫になっていた。
「まぁまぁとにかくカッカするのはやめて。甘いお菓子でも食べて落ち着いて下さいな」
そんな私達の前に、ロクサーヌがスイーツワゴンを運んでくる。でも申し訳ないけど、甘いものを食べる気になどなれない。がっくりと項垂れる私を、エヴァやレベッカ、それからドア付近に立つコーリキ・ジョシュアも心配そうに見つめていた。
「本当はミュミエール菓子店のケーキや、チェン・ツェイ殿の和菓子などを用意できればよかったんですけど。残念ながらどちらのお店にも検察の取り調べが入って、実質営業停止中ですの」
「え? そうなの?」
それまでボーっとしていた私は、ロクサーヌの報告に思わず俯いていた視線を上げる。
「どうしてリュカのお店とチェン・ツェイが……」
「アリッツ殿下に毒が盛られたお茶会の際、ミュミエール洋菓子店とチェン・ツェイ殿の和菓子も円卓に並べられていたみたいです。毒が混入されていたのはジャムらしいのですが、それ以外の食品にも毒の混入がなかったか、厳重な捜査が進んでいるそうですわ」
「そう……だったの。それは大変ね」
まさか自分の親しい人達が捜査の対象になっているなんて思いもしなかった。そういえば公爵の浮気騒動でうっかり忘れそうになっていたけど、例の麻薬密売組織の動向にも気をつけなくちゃいけないわ。
「それにしても不思議ですわね。どうしてデボラ様の周りにばかり、事件関係者が集まっているのでしょうか?」
「……え?」
「いえ、言い方がまずかったですわね。どうして犯人は、あからさまにデボラ様の関係者ばかり狙い撃ちにしているのでしょうか? わたくしにはそれが不思議でなりません」
「………」
ロクサーヌは熱い紅茶を口に含みながら、彼女なりの感想を述べる。
確かに言われてみれば……私が王都に来てから知り合った人の大半が、事件に巻き込まれているような気がする。私はなんだか嫌な予感を覚えて、眉を顰めた。
「えと、それは一種の偶然……とかではなくて?」
「偶然で公爵家の奥方の自室に盗賊が入ったり、これ見よがしなタイミングで公爵様の浮気が発覚したりします?」
「それってどういう意味ですか?」
「おら達、この目ではっきり現場を見ましただ!」
エキサイトしたエヴァとレベッカがすぐに反論するけれど、ロクサーヌは静かに首を横に振る。
「実はわたくしが一番解せないのはそこですわ。わたくし、公爵様とはお会いしたことはありませんし、その人となりも存じ上げません。ですがルーナのことなら……短い付き合いながら、彼女がどんな人物かは知っているつもりです」
「………」
「いくらルーナがアストレー公爵に恋心を抱いていたとしても、デボラ様を裏切るような真似を率先してするはずがない――と思いますわ」
「でも……でも確かにルーナはカイン様と一緒の寝室に……っ!」
「つまりデボラ様はルーナを信じ切れていない……ということですか?」
「………」
「確かに衝撃的な場面を目撃してしまい、大変なショックを受けられたでしょう。でもこれだけは断言できます。ルーナはデボビッチ家の側室にはなりません」
「えっ!?」
あまりにもはっきりと言い切るロクサーヌに、私だけでなくエヴァ達も押し黙った。ロクサーヌがそこまで強気になれる根拠が何なのかがわからなくて、私の頭は混乱する。
「デボラ様は庶子であるルーナがなぜ突然ロントルモン伯爵家に引き取られたのか、その事情をご存じですか?」
「え? えーとそれは……」
私は前世の記憶から、『きらめき☆パーフェクトプリンセス』の設定が何だったのかを思い出す。とは言ってもルーナはいわゆるプレイアブルキャラだから、『下町で育った少女が実は伯爵家の隠し子だとわかり、突然貴族社会で生きていくことになった』くらいの設定しかされていないのだ。
「実はロントルモン伯爵家には一人跡取りとなるご子息がおられます。ルーナのお兄様で名はマリウス様と仰られます」
「ルーナにお兄さん……」
なるほど。この世界のルーナには当然家族がいるわよね。ゲームの中には一切登場しないから、うっかり失念していた。
「ですがこのマリウス様、一昨年に心の臓の病を患いまして、もう二年ほど闘病生活が続いていらっしゃるのです。まだ未婚であらせられますから、当然お子様もいらっしゃいません。マリウス様にもしものことがあれば、ロントルモン家は唯一の跡継ぎを失うことになります」
「それは大変じゃない……」
まさかまさかのロントルモン伯爵家の内情に、私は驚きを隠せなかった。
「それ故に、正妻の奥方の反対を押し切って、ロントルモン伯爵はかつて侍女に産ませた庶子のルーナを引き取るご決断をされました。マリウス様にもしもの時があった時、ルーナに婿取りさせるためです」
「婿取り!?」
「なんだ、それ!? つまりルーナ様は政略結婚の駒ってわけだか?」
私達の質問に、ロクサーヌは力強く頷く。
「そうです。伯爵にとってルーナは家を存続させるための道具でしかありません。ですから伯爵は娘を他家に嫁がせたくはないのです。当然側室などという二番手は以ての外。ルーナの喪失は、ロントルモン伯爵家の没落に直結するからです」
「――」
初めて聞くルーナの身の上話に、私は言葉を失った。
まさかそんな胸糞な理由で、ルーナが伯爵家に引き取られていたなんて……。
今まで私は、ゲーム設定上のキャラとしてしか、ルーナと接してこなかったのかもしれない。
彼女は完全無欠の愛されヒロインだから。
清純無垢さが売りのチート能力保持者だから。
そんなフィルターがかかっていたせいで、私はルーナ本人のことをちゃんと見ていなかった。あの明るい笑顔の裏には、たくさんの悩みや葛藤を抱えていただろうに。
「もちろんルーナも自分の立ち位置がどういうものか自覚しておりました。いわば自分は商品。いつかロントルモン伯爵家を継げるほどの婿を迎え入れるため、彼女は純潔を守る必要がありました。ですからルーナが一夜の火遊びを楽しむとは、到底思えないのです」
「………」
「さらに意見を述べさせていただけるなら、アストレー公爵も女性からの誘惑にほいほいと乗るタイプなのですか? デボラ様がこれほどお慕いしているご夫君です。きっと思慮深いお方だと推察いたしますが」
「………」
ロクサーヌに指摘されればされるほど、確かに今回の出来事には奇妙な点があることに気づいた。
浮気が発覚する直前の元気のない様子のルーナとか。突然ルーナに興味を持ち出した公爵とか。まだ私の知らない事実がたくさんあるような気がする。
「そ、そうね。ロクサーヌの指摘はもっともだと思う。私、嫉妬の感情に押し流されて、冷静さを失う所だったわ」
「ふふ、大分落ち着かれたようですわね」
私はほんの少し元気を取り戻して、目の前に用意された紅茶を手に取る。
湯気が立ち上るカップから伝わる熱が、じんわりと冷えた指先を温めてくれるような気がした。
「だめだ、私、ちゃんと考えなきゃ。カイン様をお助けしたくてこの王都にやってきたんだもの。ここで逃げだしちゃ、絶対また後悔するわ……」
「デボラ様……」
「そうっス、その意気っスよ!」
「お、おら感動しましただ。やっぱりデボラ様は健気ですだ!」
私のすぐ後ろで、レベッカがチーンと鼻をかむ音がして、私は思わず笑ってしまった。
あの夜から、もう二度と笑う日なんか来ないと思ってたのに。
けれどロクサーヌの的確な助言のおかげで、私はようやく靄がかった迷いの森から抜け出すことができたのだ。
「ロクサーヌ、実はあなたにもっとたくさん相談したいことがあるの。迷惑かもしれないけど……聞いてくれる?」
「迷惑だなんてとんでもない! むしろもっと早く全てを打ち明けてほしいと、わたくしは思っていたんですのよ」
ロクサーヌは嬉しそうに微笑んで、追加の紅茶をメイドに頼んでくれた。
今までロクサーヌを巻き込みたくなくて事件の概要は黙っていたけれど、私は愚かな女だ。頭も悪い。
ならば信頼できる友人の助けを借りてでも、この試練を乗り越えなければ。
「今夜は長い夜になりそうですわね……」
ロクサーヌは窓から見える夜空を見上げながらぽつりと呟いた。
月にはまだ厚い雲がかかっているけれど、少しずつ風に流れてわずかな月光が漏れ始めていた。




