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五年前の光景だ。
一日が終わり間際の午後十一時五十五分。
突然彼は「仕事に行ってくる」と部屋を出ていった。そしてアパートを出るときに「先に寝ていて構わない」と無表情で私に告げる。
どこか不安を隠しながらも微笑で見送る貞淑な妻のような当時の私の姿を、私は客観的に見ていた。
結局――この無表情な横顔が私が彼をみる最後の姿だった。
私はあのとき行かないで。というべきだったのだろうか。言ったところで彼は行くのをやめただろうか――。
私は手早く出かける準備をし、ベッド近くのスタンドに昨日のお礼の手紙とチップを置いた。
カウンターにいたオーナーの奥さんに昨日のお礼を改めていい、宿代を支払った。
宿を出ると、薄明るい光景と朝の少しひんやりとした風でしゃんとしていなかった、頭も少しずつ覚めてきたような気がした。午前六時。飲食店はまだ開店していない。街にも人らしい姿はない。私は速足で昨日の十字路に向かった。
十字路はたまに馬車や自動車が通るくらいで、やはり人通りというのはないといってもよかった。
まず彼が左折した方向を歩いてみることにした。
左折した数十メートル前後に飲食店のような人の出入りが盛んな場所はやはりなかった。
あったのはアパートだった。
頑丈そうな鉄扉で作られ、鉄扉の少し先に入居者用のアパートがある。門は施錠がしていて、入居者しか入ることはできないことになっている。
もしくは呼び鈴で管理人を呼び出すという仕組みなのだろう。彼
がこのアパートに住んでいるという可能性もあるが、施錠して入るまでの時間を考えると、後ろ姿だけではなく匂いの痕跡まで消すということは不可能だろう。
魔族や妖精ならいざ知らず、彼は人間なのだから。