cigarette
この日、お通夜は外で行われた。亡くなった教授のたっての願いで土のグラウンド上で”お別れの会”が行われることになり、私は7月30日――夏休みの真っ直中――大学まで足を運んだ。いつも授業のあるグラウンドを覗けば、並べられたパイプ椅子だけがナイター設備のライトを浴びて浮いていた。「グラウンドはグラウンド以外の用途として使われるべきではない」とでも言いそうな真鍋先生がこの場所でのお通夜を希望するなんて意外だったが、先生の人間らしさ、そして大学への強い愛着が伺えた。
グラウンドの入り口では阿部くんが待っていた。阿部くんも私も大学では教授の同じ体育の授業をとっていた。私たちは理系の学生だけれど授業にはかなりまじめに出席していて教授には結構良くしてもらっていたし、様々に話す機会があったからそれなりの思い出があった。だから私は参列しなければならないと思った。ここで行かなければ、記憶の整理がつかないと思ったのだ。来るのに不安はあったけれど、阿部くんがいるなら大丈夫だという確信があった。人に弱みは見せたくない。それは本当だし、私は人前ではしっかりしているつもりだ。でも今日は、そうでなくてもいいと思った。
阿部くんがどういう気持ちで今日この場に来たのかはわからない。どんな気持ちで「真鍋先生のお通夜に行かなきゃ」と電話してきたのかも。
電話越しに聞いた阿部くんの声が耳に焼き付いて離れない。いつもよりかすれた、寂しそうで泣きそうな声が。だから、私と同じような気持ちでなんかないことはわかっていた。私のようにこんな汚い気持ちで阿部くんがこの場に立っているとは到底考えられなかった。
「ごめん待たせて」
私がそう言うと、阿部くんはこっちをちらっと見た。初めて見るスーツ姿は似合っていたけれど、できれば卒業式で見たかった。彼の顔は今まで見たことがないくらい、落ち込んでいるように見えたから。
「いいよ。行こう」
阿部くんは表情を変えずそう言うとそれ以上なにも言わず、私が追いつくのを待ってからゆっくりとグラウンドへ入っていった。
私には話したいことがたくさんあった。たぶん阿部くんにも。でもここで言うべき話ではなかったから、お互い口をつぐんだ。つまらない噂話なんて死者の前で汚く話すべきではないのだ。
献花台に向かって左側にたくさん並べられたパイプ椅子はほとんどが埋まっていた。座っているのは体育系の学生ばかりで、私たちは結構浮いていた。夏のじっとりとした空気も夜になれば少しひんやりとしている。よくある7月の空気は梅雨明けしたという予報は嘘のように、今にも雨が降り出しそうだ。それは、参列者全員の悲しみを表しているようにも思えた。
もうすぐ8月。誰にとっても楽しいはずだったの夏の夜の空気は、グラウンドの中だけ妙に寒々としていた。座ると同時にお経が始まった。
お焼香、献花の流れはいつでも一緒だ。パターン化されたこの行動が、亡くなった人を心に刻む方法として正しいとは思えなかった。でもこの場所、この風景は忘れない。おそらく一生。
列が捌けていって参列者は次々とグラウンドを後にし、最後には遺族と、私と阿部くんを含めた5、6人が残っていた。阿部くんが椅子を片付けましょうか、と申し出て、残った人たちでパイプ椅子を運んだ。たたもうとした3つめの椅子の上にマルボロの箱が乗っていた。きっと誰かの忘れ物だろう。私はそれをそっと、スーツのジャケットのポケットに滑り込ませた。
椅子と、椅子を運ぶためのリアカーの間を2往復くらいした時だろうか。ナイター設備の照明のスイッチが切られた。あんなに力強くグラウンドを照らしていた光が蛍のようなぼうっとした光になり、そして、消えた。
ああ、真鍋先生の命の火が。
――――消えてしまった。
そう思ったら、いきなり胸の奥からじんわりと悲しみが押し寄せてきた。私が、わからなくなった。心のバランスがとれずに泣き叫ぶ子供に戻ったような感じだった。
何とかしなくちゃ。
そう思った私はさっきポケットの中にいれた煙草の箱をこじ開け、中から1本だけ取り出してそっと右手の人差し指と中指で挟んだ。吸い口をじっと見つめると、こういうときに煙草を吸うのだと思った。吸うべきだとさえ思った。
そのとき阿部くんが向こうから歩いてきた。彼は左手に火のついた煙草を持っていた。そして黙ったまま私に歩み寄り、そっと煙草の先を近づける。
ジジ、と音がして私の煙草にも火がついた。
これは、あかい、命の火だ。
煙が私と阿部くんの煙草から静かに立ち上る。心の中のもやもやも煙草の煙で霞んで見えなくなればいい。そうして私を隠して。醜い私を。思わず泣きわめきそうになって、あわてて煙草をくわえて吸い込んだ。初めて吸う煙草。思いっきり口に煙を含んだのに不思議とむせもしなかったし、いつも感じるいやな匂いも気にならなかった。煙草を持つ手をそっと口から離し、阿部くんを見た。阿部くんは私の隣に立ったまま、右手をスーツのポケットに突っ込んで煙草を吸っていた。
阿部くんは静かに泣いていた。
見てはいけないものを見てしまったような気がした。
阿部くんは私が泣き出したのを不思議そうに見つめた後やっと自分が泣いていることに気づき、困ったように小さく口元をゆがめた。
それは今まで私が見た彼の行動の中で一番子供っぽく、しかし一番色っぽかった。
私の煙草に彼が火をつけてくれた。たったそれだけのことで心は今までになく揺さぶられた。さっきまであった悲しみは倍になり、そして煙草の煙と一緒に溶けて消えていった。
やがてしとしとと降り出した雨の中、阿部くんは右手の手のひらで乱暴に頬を拭うと、椅子を抱えて歩き出した。 土煙のあがるグラウンドに浮かぶ、遠ざかっていく彼の背中を私は見ていた。 椅子を抱え、右手に短くなった煙草を、左手に小さな恋の火を燻らせて。
時間の流れは早いもので、もうずいぶんと前の話になります。
あの日の午前中に見た夢は、実は細部はこれを書く頃には忘れてしまっていたけれど、たばこと雨と土の匂い、そしてある人の手、距離感、土煙に霞んでゆく後ろ姿だけが本当のことのように焼き付いていました。その雰囲気を忘れたくなくて、夢を見た日にこれを書きました。別にその人が煙草を吸う人だった訳ではないのですが。
2日前に生まれた気持ちを引きずり、次の日も悶々としていたからその夜リアルな夢を見たに違いないのです。あたしにとってまぎれもなく大事なあの日は大きな出来事は何もなかったけれど、いろいろと学ぶことの多い1日であったように思います。
よしもとばななの「キッチン」を思い出し、チャットモンチーの「染まるよ」を聞きながら書きました。夜が進めば進むほどほど打つ手が止まらず、心臓がうるさかった。1年経った今も、あの頃の思いが詰まっているようで切ない限りです。
そういえばこれが私の書く初めてのちゃんとした恋愛小説だと思います。
後書き長くてすみません。
あの日、だれかに聞いて欲しかった。でも誰にも言えなかった。
ただそれだけであったと思います。
初稿:2009.07.30
改稿:2010.08.01
投稿:2018.12.27
theme music : チャットモンチー “染まるよ” 「告白」収録




