⑥ざわつく心
「レンタルベイビーを借りるんだ」
翌日、ランチの時間に同僚の香奈に報告した。香奈は同じ時期に入店して、修業がつらい時もずっと励まし合いながらやってきた美容師仲間だ。
香奈は派手な髪型が好きで、今は胸に届く長い髪をピンクに染めている。色白で顔の堀りも深く、スタイルもいいので、まるでアニメのキャラみたいな雰囲気で、表参道を歩いているとよく「写真に撮っていいですか?」と声をかけられている。
レンタルベイビーの報告をしたら、てっきり喜んでくれるのかと思いきや、香奈はオレンジジュースを飲みながら固まった。
「それって、お店で誰かに言った?」
香奈は急に声を潜める。美容院の近くのカフェにランチを食べに来ていた。このカフェには美容院の関係者が食べに来ることが多いので、誰に聞かれているか分からない。
「ううん、まだ誰にも言ってないけど」
「じゃあ、言わないほうがいいよ。店長にも」
美羽はクラブハウスサンドイッチを頬張りながら、「どうして?」と首を傾げる。
「あのね、うちらが入った時に、指導係だった先輩がいたじゃない?」
「ああ、堀先輩だっけ」
「そうそう。堀先輩、うちらの研修期間中に急にいなくなったじゃない? あれって、レンタルベイビーを借りるって店長に言ったら、急に他の店に飛ばされたんだって」
「ええっ!?」
美羽が勤めているのは青山にある美容院で、系列店がいくつもある人気店だ。昔は「カリスマ美容師」と呼ばれる人もいたらしい。
AIが発達しても美容師の仕事は人でしかできないので、今や美容師は人気職だ。専門学校の倍率も高くなり、美羽の店では給料は昔の3倍になっているという。
美羽も香奈も3年ぐらいアシスタントをしてから、スタイリストになった。最近は自分を指名してくれる客も増え、給料も順調にアップしている。
「なんかね、レンタルベイビーを借りるってことは、近い将来、産休に入るってことだから、戦力外になったって話を先輩達から聞いたんだ。堀先輩は、多摩地区のお店に飛ばされたんだって」
「多摩地区……」
「それを聞いて、先輩達は子供を産む時はどうするかって、悩んでるみたい。他のお店に転職するか、独立してお店を持つか、考えといたほうがいいよって、前言われたんだ」
「えっ、でも、うちのお店は女性スタッフが多いから、産休は取りやすいって、入るときに言われたじゃない。産休取って、戻ってきた先輩もたくさんいるって」
「それはうちじゃない店の話。うちは水野店長になってから、産休は取りづらくなったみたいよ」
「えー、でも、店長も結婚してるじゃん。子供はいないみたいだけど」
「子供がいないから、産もうとする人を妬んでるんじゃないかって先輩達は言ってた」
「何それ。最低。じゃあ、レンタルベイビーを借りることを言えないんじゃ、赤ちゃん産む時はどうすればいいの?」
「うーん、やっぱ、その前に転職するか、独立するしかないんじゃない?」
「今すぐに独立なんて、ムリだよお。赤ちゃん産んだら、それこそ子育てにお金がかかるし」
「だよね。だから、転職先を探しといたほうがいいんじゃない? 普通に産休取れるお店、いっぱいあるみたいだし」
「そっかあ」
美羽はため息をついた。
「せっかく、お客さんもついてくれたのに」
「他のお店に行くことになったら、そっちに来てくれるんじゃない? 美羽のファンは多いから、大丈夫だよ、きっと」
「そうかな」
美羽は店長に報告する前に、香奈に話してよかったと心から思った。香奈は、見た目は派手でも慎重なタイプで、いつも美羽に的確なアドバイスをしてくれる。
「でも、転職って言っても、このお店、好きなのに……」
美羽がアイスティーを一口飲んでつぶやくと、「じゃあ、他の系列店はどうなのか、聞いてみる? うちだけかもしれないし」と香奈は提案してくれた。
「新宿店で働いてる子は専門学校で一緒だったから、今度聞いてみるよ」
「ありがとう。助かる」
デザートが運ばれてきたので、二人は会話を中断した。
――なんか、レンタルベイビーを始める前から問題が色々起きている感じ。ただ子供が欲しいってだけなのに。なんだか、全然ハッピーじゃないよね。
カフェの窓の外には、八重桜が咲き誇っているのが見えた。もうすぐ葉桜の季節も終わり、さわやかな初夏になる。
沈んでなんていられない。出産に向けて、一歩踏み出したばかりなのだから。