⑤こんにちは、ベイビー!
谷口の腕の中で、「あー」「うー」と言いながら、手足をバタバタしているものが見える。
――あれが、レンタルベイビー?
美羽は立ち上がってよく見ようとした。
「どうぞ、席を立って見に来てください。そばでレンタルベイビーを見てみたほうがいいでしょう」
青木の一言で、みな席を立ち、谷口のまわりに集まる。
白い産着に包まれたレンタルベイビーは髪の毛がうっすらと生え、つぶらな瞳であちこちを見ている。「あー」「んー」と声をあげながら、小さな手をよだれでベタベタにしていた。
――ロボットなのに、よだれまで出るの?
美羽は内心驚いていた。
「かわいい~」
「ちっちゃーい」
「この子、何歳ですか?」
「生まれて6か月です」
「男の子? 女の子?」
「女の子です」
「へえー、名前もあったりして」
「私は瞳って呼んでます。目がキラキラしてるんで」
「本当だ~、キラキラしてるう」
参加者はレンタルベイビーを覗きこみながら、谷口に質問を投げかける。谷口は司会をしていた時とは打って変わって、リラックスしている。顔がほころび、母親のような表情になっている。
レンタルベイビーは近くで見ても、人間の本物の赤ちゃんとの区別がつかないぐらい、精巧にできている。ふっくらした頬はやわらかそうで、美羽は思わず人差し指でちょんと触れてしまった。
「触らないでくださいっ」
途端に、青木が鋭く制する。美羽は慌てて手を引っ込める。
――すごい。本物の肌みたいな感触だった。
「一人が触り出したら、みんなが触ろうとするから、許可なく触らないでくださいね」と、青木に睨まれる。美羽は視線を逸らせた。
「レンタル前の講習会がありますから、その時に触れますよ」と、谷口がフォローする。
「まるで本物みたいねえ」
「まつ毛まであるんだ」
「ちゃんと呼吸してるみたいに動いてるよ。すっげえリアル」
周りを囲んだ参加者は、次々と感想を述べる。
「抱いてみると分かるんですけど、温度もあるんですよ。ちゃんと赤ちゃんの体温になってるんです」
「えー、すごすぎるう。早く抱いてみたあい」
参加者はみんな、笑顔になっている。ただ一人を除いて。
美羽の隣に座っていた女性は、突然「我慢できない」という様子で泣きだした。みんな、驚いて注目する。
「私、私だって、ちゃんと二人で赤ちゃんを育てたかったのに。あの人、連絡取れなくなっちゃって……私、どうしたらいいのか……」
その後は言葉にならないらしく、泣きじゃくっていた。みんなどうすればいいのか分からず、谷口はオロオロしている。
青木はそっと、その女性の肩に手を置いた。
「片田さんでしたね。よろしければ、場所を変えて事情をお聞かせくださいませんか。私達がお力になれると思います」
それまでとは打って変わって、優しい声音でゆっくりと言い聞かせた。女性は頷く。
青木が女性を連れて出ていこうとした時、「あのっ」と、小柄な女性が歩み出た。
「あの、私の友達でも、一人で産むことになった子がいるんです。レンタルベイビーの後で別れることになって……。でも、その子は今、立派にシングルマザーをやってます。産んでよかったって言ってますっ。だから、その……頑張ってくださいっ」
その言葉に、女性は涙を流しながら、コクンと頷いた。青木と女性が部屋から出ていき、緊張感が一気に解けた。
「なんだよ、急に、あんなこと言って。どうしたの?」
声をかけた女性に向かって、連れの男性が尋ねる。
「だって、あの人、捨てられたんでしょ? ここにも一人で来て、かわいそうだなって思ったから」
女の子は目を潤ませている。
「まったく、ジュンは優しいんだから」
男性は女性の頭を優しく撫でた。美羽はその光景を見て、ちょっとうらやましく思った。
「それじゃあ、おむつを替えるところをやってみますね」
谷口が声を張り上げて、ようやく今日の目的を思い出した。
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その日、美羽は家に帰ると、流にレンタルベイビーがいかに精巧にできているのかを興奮気味に語った。しかし、流は「へえ」「ふうん」「そうなんだ」と反応が薄い。
「それで、レンタル前の講習会は来週から受けられるから、申し込んできた」
「ふうん」
流はビールを飲みながら、スマフォをいじっている。
ところが、途中で泣き出した女性の話をすると、「何、その人。不倫してたわけ?」と急に興味を示した。
「まあ、たぶん、そうみたい」
「うちの会社にもいるんだよ。愛人が妊娠しちゃって、堕ろさせることもできないし、どうしようって青くなってた上司が。結局、離婚して愛人と再婚したんだけど、全然うまくいってなくて後悔してるってぼやいてた。浮気は身を滅ぼすぞって、飲み会のたびにオレらに言ってくるんだよ。でも、また別の人と浮気してるみたい。懲りない人だよね」
「ふうん」
美羽は少しイラッとした。
――レンタルベイビーの話は全然興味を示さないのに、何なの、いったい。
「それでさ、この間、その上司が」
「それで、レンタルベイビーは今はすべて貸し出されてるから、早くても3カ月先になるんだって。夏ごろになるみたい」
美羽は流の話を遮った。流は、ムッとした表情になる。
「オプションで借りられるベビーベッドとかおもちゃとか、ベビーカーも申し込みたいんだけど、いいよね? 無料だし」
「まあ、いいんじゃない」
流は投げやりな感じで言う。
「ねえ、レンタルベイビーに全然興味ないの? それならやめる? 無理して申し込んでも意味ないし」
美羽のキツい口調に、流は気まずそうな表情になった。
「別にそんなことはないけど……だって、オレは忙しいからあんまり手伝えないよって言ったじゃん」
「今はレンタルベイビーがいるわけじゃないんだから、手伝うも何もないじゃない。興味があるかないかって話をしてるの」
「まあ、興味はそれなりにあるけど……疲れてるから、シャワー浴びてくる」
流は飲みかけのビールを置いて、逃げるように寝室に行ってしまった。
「なによ、あの態度」
――せっかく、いい気分だったのに。レンタルベイビーを早く借りたいって気持ちがしぼんじゃったじゃない。こんなんで、レンタルベイビーを借りて大丈夫なのかな。なるべく自分でやるって言っちゃったけど、流はホントに何にも手伝わない気なのかな。少しは手伝ってもらわないと仕事と両立できないんだけど……。
美羽は不安がジワジワと広がっていくのを感じていた。