⑨トゲトゲのぶつかりあい
その夜、美羽がお風呂から上がると、空が大泣きしている声が響き渡っていた。流があやしている気配はない。
――疲れて寝落ちしてるとか?
バスローブを羽織ってリビングに入ると、ベビーベッドで空は手足をバタバタさせながら泣いている。流はそれを放って、スマフォでゲームに熱中していた。
「空が泣いてるのに、何してるの!?」
ついキツイ言い方になってしまう。
流は画面から目を離すこともなく、「あんまり過保護に育てないほうがいいって、先輩から言われたんだ。しばらく泣かせてた方が疲れて眠っちゃうみたいだよ」と悪びれずに言った。
「それは本物の赤ちゃんのことだよね? 空は泣き疲れて眠ることはないと思うけど」
抱き上げると、プーンと鼻を突くニオイがした。
「ウンチしてるじゃん。流、おむつを替えてよ」
「美羽がやってよ」
「え、なんで?」
「なんでって……」
流はこちらを見ようともしない。
「私、髪を乾かしてくるから、流が替えてよ」
流は何も答えない。空は泣き続ける。
「流、講習会で習ってきたんでしょ? できるでしょ?」
「そんなの、1回やってみただけで、できるようになるわけないじゃん」
「だったら、私が教えてあげるから」
「いいよ。美羽がやるほうが早いでしょ。空を早く泣き止ませたほうがいいんじゃない?」
美羽は久しぶりに流の態度に苛立った。
「なんでやろうとしないの? もしD判定になったらどうするの? 協力しないと、AかB判定にはなれないよ」
「今回は、結構遊んであげてるじゃん。充分、協力してると思うけど」
「それだけじゃダメだって、講習会で言われなかった? おむつを替えたり、ミルクをあげたりしないとカウントしないって」
そこまで言って、流は追い込まれないと行動に移さないのだと思い出した。空が泣いても美羽が起きなかった時は、自主的にミルクをあげていた。
流が何も答えないのを見て、美羽は空をベビーベッドに下ろすと、リビングを出た。
「ちょっ、何だよ、おむつを替えてってよ」
流が喚いても気にしない。洗面所に戻ると、ドライヤーで髪を乾かした。乾かし終えるころには、さすがに根負けしておむつを替えているだろう。
だが、ドライヤーのスイッチを切ると、大音量の空の泣き声が聞こえてきた。
「ウソ……信じらんない!」
美羽がリビングに飛び込むと、流は変わらずソファに寝転んでゲームをしていた。空は真っ赤な顔をして泣き続けている。
「ひどい、なんで替えてくれないの?」
「自分の方がひどいじゃん。空をほっぽって髪を乾かしに行ったんだから」
流はそっけなく答える。
美羽は、「ごめんね、ごめんね」と空に謝りながらおむつを替えた。おむつを替えても泣き止まなかったので、しばらく抱っこしながらあやす。
「ごめんね、パパが何にもしてくれないから、ずっと泣きっぱなしだったね」
空に言い聞かせると、流は「そういうの、勘弁してよ」とうんざりした様子で言った。
「そういうのって、何のこと?」
「オレのせいにしてるけど、美羽がやればよかっただけじゃん」
「私がここに来るまでに、おむつを替えといてくれればよかっただけじゃない。流が最初にやっといてくれれば、こんなことにならなかったでしょ?」
流は大げさにため息をつく。
「オレ、そうやってカリカリしてるのって嫌いなんだよ。追い込まれる感じになるのって、ホント、嫌」
「私だって、怒りたくて怒ってるんじゃないんだけど」
空がウツラウツラしはじめたので、そっとベビーベッドに下ろした。
「今ので不合格になっちゃったら、どうするのよ。今までやってたことが、すべてムダになるじゃない」
「あ~、もう、すぐに合格とか不合格とか、ウザいんだよね」
流は耳をしきりにいじる。
「オレ、そういうの、興味ないから」
「今さら何なの? そこまで興味ないなら、最初からやりたくないってハッキリ言えばよかったじゃん」
「だから、忙しいから協力できないって言ったでしょ?」
「忙しいからあんまりできないって言ってたけど、興味ないからやりたくないって言ってたっけ? そんな話、聞いた覚えないけど」
流は言葉に詰まった。
「それに、最近は空と一緒に遊んであげてたじゃない。どうして急にそんなことを言うの?」
「遊ぶぐらいならいいけどさ……」
「何、もしかして、おむつは替えたくないとか? レンタルベイビーのおむつさえ替えるのを嫌がってるのに、本物のウンチがついたおむつ、替えられるの? 全部私にやらせる気?」
「いや、そうまでして子供は欲しくないって言うか……」
「はあ? おむつを替えるぐらいなら子供は欲しくないってこと? おむつをしてるのなんてほんの1、2年の話なのに、それが耐えられないから子供は欲しくないっていうの? それだけの理由で?」
「……」
流は黙り込み、険しい表情で部屋を出ていった。ややあって寝室のドアを乱暴に閉める音が響いた。
「すぐに逃げるんだから」
――私、どうして、流と結婚したんだろ。
ふと、そんな思いが胸をよぎる。
――私、今まで本当の流のことを見てなかったのかもしれない。
美羽の心はざわついた。レンタルベイビーを始めてから離婚したという話は、コミュニティの掲示板でもしょっちゅう報告されている。それをみんなで励ますのだ。
――もしかして、うちらもそうなっちゃうとか……?
その夜、最近は一緒にベッドで眠っていたのに、流は寝室には来なかった。美羽は怒りと不安がないまぜになり、ほとんど眠れなかった。




