①それは、ある日突然に。
「ねえ、あなた。そろそろ、子供が欲しくない?」
明るい陽射しが差し込むダイニング。木製のテーブルに若い男女が向かい合って座っている。テーブルの上にはパンとみそ汁、卵焼きにグリーンサラダ、焼き鮭とオレンジジュースが並んでいる。和洋折衷の食卓という感じだ。
ちょっと鼻にかかった女の甘い声に、味噌汁を飲んでいた男は目を丸くする。
「なんだよ、急に」
「だって、結婚してもう3年になるじゃない? 最近、うちの親にも『そろそろ孫の顔が見たい』って言われるのよ」
「うーん、そうだなあ。でも、昇進してから、仕事が忙しくなったし……」
男はお椀を置き、卵焼きに箸をつける。女は箸を手に取ることもなく、男の顔をじっと見つめる。
「私、来年で30歳だよ? 30歳を過ぎたら、自然妊娠率がどんどん低くなるって言われてるじゃない? 今がいい時期だと思うの」
「それは分かるけど……」
「私の会社は産休を取りやすいから、同期で出産した子が5人もいるの。それに、今なら政府から出産助成金が子供一人につき100万円ももらえるんだって」
「えっ、100万円? それはすごいな」
「ね、そうでしょ?」
女は首を傾げて、上目づかいで男を見つめる。
「私……あなたの子供を産みたいな」
「よし、分かった!」
男は箸をテーブルに力強く置く。
「それじゃあ、申し込もうか」
「本当に?」
女は声を弾ませる。
二人はニッコリ微笑んで、声を合わせる。
「レンタルベイビー!」
画面がパッと切り替わり、ピンクのキャップをかぶり、淡いピンクの制服を着た宅配業者が、「こんにちは、レンタルベイビーをお届けにまいりました!」と、玄関口でにこやかに二人に赤ん坊を差し出す。二人は大喜びで「これがレンタルベイビー?」「かわいい!」と大はしゃぎする。
「お子さんが欲しいと思ったら、まずはレンタルベイビーにご登録してください。レンタルベイビーは、若いお父さんとお母さんの子育てを助ける制度です。誰でも無料でご利用できます」
女性の声のナレーションが流れて、登録先のアドレスが表示された。
最後は、赤ん坊を抱いた女と、腕の中の赤ん坊をあやしている男が画面に向かって、「さあ、あなたも、レッツ、レンタルベイビー!」と呼びかけた。
「レンタル~、レンタルベイビー♪」とCMソングが流れる。
「――このCMを撮影する時さ、クライアントとモメたんだよ。お箸をテーブルに置くか、茶碗の上に置くかで」
秋津流はパソコンの画面を指差した。
「ふうん?」
美羽はキャラメル味のポップコーンを食べながら、相槌を打った。
火曜日の昼下がり。久しぶりに二人の休みが合って、撮りためていたドラマをソファに座って観ているところだった。
「もう、ほんっと、政府の担当者がうるさくてさ。料理も、若い夫婦ならトーストに目玉焼きにサラダにデザートがいいんじゃないかって言ったんだけど、『いや、純和風なメニューがいい』って譲らなくて。それで純和風なメニューにしたら、『今は米を食べない家庭もあるんじゃないか。そういう家庭からクレームが入ったらどうする』って、別の担当者が言うし。『多様性を考えたら、ギョーザやキムチも入れたらどうか』っていう意見も出るし、メチャクチャだったんだよね。で、結局、和風と洋風をミックスしたメニューにして、中国人や韓国人もパンは食べるだろうからって理由で納得してもらって。そんなことを決めるのにも、3週間ぐらいかかったんだよ。ほんっと、政府の仕事はもうしたくないって、このCM観るたびに思う」
「うん、このCMを観るたんびに、その話、聞いてる気がする」
美羽の言葉に、流は苦笑した。
「そっか。ごめん」
「よっぽど大変な仕事だったんだね」
「まあね。今までの三大最悪クライアントの1つだから」
流はリモコンでCMを早送りした。美羽はアイスティーを飲み、何気ない風を装って、声をかけた。
「でもさ、うちもそろそろどうかな」
「んー? 何が?」
「だから、レンタルベイビー」
その一言で、流は美羽の顔をじっと見た。停止ボタンを押していないので、ドラマも早送りされている。
「結婚して2年になったし、そろそろ生活も落ち着いてきたじゃない? あのCMじゃないけど、私も30までに子供を産みたいし……」
「まだ28じゃん」
「でも、レンタルベイビーに合格してからって考えると、今から始めてちょうどいいぐらいじゃない?」
「うーん、まあ、そうだけど」
流は困ったときのクセで、耳を触りはじめた。
「でも、美容院の仕事が忙しいんでしょ?」
「最近はそうでもないよ。指名してくれるお客さんが多いから、自分でスケジュールを調整できるようになってきたんだ。だから、仕事を夕方までにすることもできるし。帰りが遅くなることはそんなにないと思う」
「そっか。でも、オレの仕事がねえ」
「流の仕事が忙しいのは分かってるよ。でも、時間ができるのを待ってたらいつになるか分からないじゃない? 制作会社って、この先もずっと忙しいんでしょ?」
「まあ、そうだけど……オレ、講習会とか、行ってる余裕ないかも」
「あ、その辺は大丈夫みたい。調べてみたら、どうしても二人で参加する必要はないんだって。一人で行ってるところも多いみたいよ」
「ふうん、そうなんだ」
流は黙り込んでしまった。ドラマは最後まで早送りしてしまい、メニューに戻っていた。
「とにかく、レンタルベイビーだけでもやってみない? 本当に子供を産むかどうかは、それから考えてもいいんじゃないかな。その時に忙しくてムリそうだったら、もうちょっと先に延ばせばいいんだし」
「うーん」
流はしばらく耳をいじっていたが、「そうだな。レンタルベイビーの後、すぐに子供を産まなきゃいけないってわけじゃないし」とつぶやいた。
「そうだよ。私も30を過ぎたら役職に就くかもしれないから、今のうちにレンタルベイビーだけでもしておきたいんだよね」
美羽のダメ押しの言葉に、流はようやく「うん」と頷いた。
「分かった。それなら借りてもいいけど、オレはそんなに協力できないかもしれないよ?」
「うん、それはこっちで何とかするから」
美羽は何度も頷く。
「それじゃ、レンタルベイビーに申し込んでもいい?」
「うん、いいよ」
美羽は「やった、ありがとう!」と流に抱きついた。
「なんだよ、そんなに借りたかったの?」
流は苦笑いする。
「まあね。だって、レンタルベイビーの子育てって楽しそうじゃない?」
「大変だって、みんな言ってるよ」
「そうだけど。やってみないと分からないし」
「まあ、そうだけど」
「さっそく登録しよーっと」
美羽はスマフォでレンタルベイビーのサイトを探しはじめた。流は軽くため息をついて、ソファに深く身を沈めた。