カールマイヤー
何もない、真っ白な空間。真っ白い服を着た女性が一人、そこに立っていた。
そして、彼女の目の前には同じ真っ白な服を着た女性が一人、こちらを向いて立っている。
「……あなたは、一体誰なの? どうしていつも私の前に現れるの?」
彼女が問いかけても、女性は何も答えない。その顔はまるでモザイクがかかった様にぼやけて良く見えず、一体誰なのかわからない。
「お願い、答えて! どうしてあなたは私の事をこんなに苦しめるの!? あなたは、あなたは一体……」
すると、次第に女性の顔は彼女が一番見慣れている人物の顔に変わり、瞳からは涙を零していた。
しばらくするとその大粒の涙はみるみる内に真っ赤に変色し、両目から滝の様に流れ落ちて女性の顔全体を赤く染めていった。
「……いや、そんなのいや、やめて!!」
女性の顔は風船が萎んだみたいに急激に痩せ細り、顔の肉は真っ赤な液体となって目や鼻の穴や耳、口から大量に吹き出した。
そして、ビデオの早送りの様な残像で頭を振り乱し苦しみ出した女性の髪は真っ白に萎れバサバサと抜け落ち、目からも眼球が抜け落ちてミイラ化していく。
そんな状態になっても、女性は怯えて後退りする彼女にひたひたとにじり寄り、その両肩を真っ赤に染まった両手で掴みもたれ掛かった。
「……お願い! 誰か、誰か助けて!!」
その手から逃げ出そうとしても、女性の手は彼女を掴んで離さない。
恐怖に震え、半狂乱になる彼女を嘲笑う様に女性の顔からは突然炎が上がり、その火は一気に体全体を包んだ。
肉が抜け落ち、骨にへばりついていた皮膚は異臭を発しながらドロドロと溶け出し、いつしかその姿は骨だけになった。
「キイィィィィィ!!」
鼓膜を突き破られる様な断末魔の叫び声を上げ、真っ黒に燃え尽き女性は崩れ堕ちていった。
その炎はついに彼女にも燃え移り、あっという間に体全体を包んで全てを燃やし尽くしていく。体も、感覚も、記憶も、精神も、彼女を司るもの全てを……。
「……アタマガ、イタイ……」
◇
『……中村? おい、中村!?』
「……えっ!?」
「どうした中村!? しっかりしろ!?」
気がつくと、彼女の前には眼鏡をかけた一人の男性がいて、心配そうに両肩を掴んで体を揺すっていた。
我に帰った彼女が周りを見渡すと、そこはいつも見慣れた自分の職場、ナースステーションの室内だった。
「酷くうなされていたぞ、どうした? しかも勤務中に居眠りをするなんて、顔色も悪いぞ?」
「……す、すみません……」
彼女はこの病院の精神科閉鎖病棟に勤務する看護士。まだ半年のキャリアしかない新人ナースだが、どの患者に対しても笑顔で看護にあたる勤務態度は同じ看護士仲間や医師達からの評判が良く、信頼されていた。彼女を心配して起こしてくれたこの医師もその中の一人である。
「……また、あの夢を見たのか?」
「……はい……」
「その様子だと、家でもしっかりと睡眠が取れていないみたいだな……」
しかし、彼女には一つ悩みがあった。病院の仮眠室でも一番落ち着くはずの自分の部屋でも、夜でも昼でも、例え疲れていて眠い時でも、寝ると必ず先程の様な意味不明の恐ろしい悪夢を見てしまうのだ。
顔の見えない謎の女性が目の前に現れ、彼女の目の前で常識では考えられない奇怪な行動を起こして彼女に迫ってくる。
そして、目覚めた後には必ず頭が引き裂かれそうな酷い頭痛が彼女に襲いかかる。その痛みは、とても立っている事が出来ない程の激痛。
「私が処方した薬はちゃんと飲んでいるのか? それでもまだ、悪夢も頭痛も治まらないのか?」
「……はい……」
「……うーん、医者と言う立場からすれば興味深い病状だが、本人からすればたまったものではないな……」
そんな夢を見るようになったのは一カ月くらい前。病院での勤務中に疲労で倒れ、救急室に運ばれ治療を受けてからの事だった。
最初はただの夢だと思っていた彼女も、毎日の様に襲いかかってくる悪夢に次第に恐怖を感じ始め、なんとか仕事をこなしながら当時看病をしてくれたこの男性医師の診察を受ける事になったのだ。
「……これはあくまでも私の見解だが、その悪夢の原因は疲れと共に君の鋭い感受性と関わっているのだろう、君が様々な患者と関わる事によって、知らぬ間に彼らの感情や思考が何かしらの形で君の脳神経に働きかけ、その影響がその夢となって君の目の前に現れているのだと思う、きっと頭痛もそれによる脳の疲れからだろう」
「……はあ……」
「君の真面目な勤務態度は私も素晴らしいものだと思っている、しかし、この科では懸命になるばかりに自身までもが精神を病んでしまった医師や看護士達の過去の例もある、少し気をつけた方が良いぞ」
「……でも、それは私の選んだ道ですから……」
「そうだ、少し仕事を離れてストレス発散にゆっくりと旅行にでも出掛けたらどうだ? 環境が変われば気も晴れて少しは気持ちも改善に向かうだろうし、今はあまり深く考え込まないのが一番だ」
男性医師の言いたい事は良くわかっている。しかし、過度のストレスや疲れから来るものとは何か違う、得体の知れない何かが自分の脳内に侵入して、それが意図的にあの悪夢に出てきている様な……。
自分が自分でなくなってしまいそうな不安、何か大切なものを壊されていく様な恐怖。何とも説明の出来ない不快な感覚が彼女の頭の中を支配していた。
「とにかく、今は投薬治療を続けてしばらく様子を見よう、頭痛が酷い時は無理せず薬を飲んで、眠たい時は夢を見る事を怖がらずにちゃんと寝る事だ、いいな?」
「……はい……」
「今日は夜間当番らしいな? 私はこれで帰らせて貰うが、他の当番と交代に休憩を取って絶対に無理をするんじゃないぞ? 私からも婦長に話しておくから、近い内に長い休みでも取ってゆっくりしなさい」
「……はい先生、どうもお疲れ様でした……」
医師はそう言うと部屋を出て行き、ナースステーションの中は彼女一人になった。悪夢をうなされていたせいか彼女の額にはびっしりと脂汗が浮かび、白衣の下に着たシャツの背中部分は汗で濡れて冷たくなっていた。
病棟の廊下の窓越しから見える外はすでに真っ暗。彼女が時計を見上げると、時間はすでに深夜十二時を回っている。そろそろ各病室の見回りに行かなくてはいけない時間になっていた。
「……気持ち切り替えなきゃ、仕事、仕事……」
医師から処方された真っ赤な色をした頭痛薬を一錠水で喉の奥に流し込み、彼女は机の上にある懐中電灯を手に取った。
ナースステーションの扉を開けて廊下に出ると、まるで人が誰もいないみたいに物音一つ無く静まり返っていた。
こんな夜中でもたまに寝付けずに暴れ出す患者もいたりするのだが、今日は恐ろしい程に静かだった。今まで経験の無い程の静けさに、彼女は少し不安を感じていた。
「……えっ?」
病室を覗いた彼女は目の前の光景に驚愕した。病室で眠っているはずの患者達の姿が消えてしまっていたのだ。隣の病室も、次の病室も、そのまた次の病室も誰一人いなくなっていた。
「……何で? どうして!? あの子は、あの人達はどこに行ってしまったの!?」
少しずつ彼女に心を開き始めてくれていた自閉症の少女や自殺願望を抱きながらも彼女の懸命な看護で次第に回復の兆しを見せていた男性患者の姿が無い。
そして、痴呆症が進みまともに会話が出来なくなっていたにもかかわらず彼女には満面の笑顔を見せてくれていた老婆の姿も消えていた。
日々の激務で疲れきっている彼女の、唯一の心の支えだった全ての患者達の姿が全ての病室から消えてしまっていたのだ。
「……そんなバカな! どうして、一体どうして!?」
まさか、自分が居眠りをしてしまっている間に病棟から外へ出て行ってしまったのか? いや、そんな訳がない。病棟と外を繋ぐ入り口の扉の鍵はちゃんと閉まっていた。誰も出ていった形跡なんて無かった。
それに、さっきまで他の看護士やあの男性医師もここにいたのだから、十人近くいた患者が突然全員いなくなっていたら今頃病院内は大騒ぎになっているはず。
「……じゃあ何で、何で誰もいないの!? 一体、何が起こってるの!?」
理解不能の状況に、彼女はすっかり混乱してしまっていた。慌てふためき病棟内を駆けずり回っていると、突然酷い頭痛とキィーと黒板を爪で引っ掻く様な不快な耳鳴りが彼女に襲いかかってきた。
「……痛い……、何で? 今さっき薬を飲んだばかりなのに……?」
……ドスン!
「……誰!?」
真っ暗な廊下の一番奥にある病室から、何やら物音が聞こえてきた。その音は何かが床に転げ落ちた様な衝撃音だった。そしてその病室は、現在誰も入院していないはずの空き病室。彼女は恐る恐るその病室を覗き込み、室内懐中電灯を照らした。
「……ヒッ……!!」
すると、そこには頭を残した体全体を白い布で包まれ、無数の縄で動けない様に縛られてた人間がベッドから落ちて床に横たわっていた。
黒く長い髪が顔全体を覆い、体の大きさからすると女性の様だった。しかし、彼女はこの様な患者は今まで病棟内で見た事が無かった。明らかに、そこにいるはずの無い存在だった。
「……あなたは、誰? 誰なの……!?」
女性のその異様な姿を見た彼女は恐怖のあまり手に持っていた懐中電灯を下に落とし、腰を抜かして床にヘナヘナと座り込んでしまった。
すると、その懐中電灯を落とした物音に反応したその女性は、まるで芋虫の様にズリズリと体を捻らせながら彼女の足元に近づいていった。
長い髪を床に垂らし、顔を床に擦りつけながら彼女に真っ直ぐ向かってくるその姿は気味が悪く奇妙で、とても人間の動きとは思えないものだった。
「……い、いや! 来ないで、こっちに来ないで!!」
腰を抜かした彼女は立ち上がる事が出来ず、尻餅をついたまま後退りをして逃げようとした。しかし、足が震えて上手く動かない。まるで氷の上にいるみたいに手足が滑り、そこから逃げる事が出来なくなってしまっていた。
「……フゥー、フゥー……」
女性の姿が近付いて来ると同時に、獣の様な唸り声が聞こえてくる。恐怖で叫ぶ事も出来なくなった彼女は、ついに女性に追いつかれそのまま上に覆い被さられてしまった。
彼女の体に被い被さる長い髪の隙間から覗き込んでくる身の毛のよだつ恐ろしい視線。その顔はあの悪夢の中で現れる、あの女性の顔だった。
「……お願い、もうやめて、誰か助けて……」
「キイィィィィィ!!」
「いやぁぁぁぁぁ!!」
再び鼓膜を突き破られそうな叫び声の後、突然女性の頭は木っ端微塵に飛び散り大量の血と脳みそと思しき無数の肉片が彼女の顔に降りかかった。そして、彼女の額からも血が吹き出し、ミシミシと頭蓋骨がひび割れる音が聞こえてきた。
「……頭ガ、アタマガワレルゥ……!!」
◇
『中村? おい、中村!?』
「……えっ?」
「おい、しっかりしろ!? 何を急に暴れ出しているんだ!? 落ち着け!?」
「……ゆ、夢……?」
我に帰って周りを見渡すと、そこは先程の病室ではなく灯りの点いた診察室の中だった。彼女は床に寝そべっているところを多数の看護士達に押さえられ、目の前にはあの男性医師が顔を覗き込んでいた。
「……あの、ここは? 私は一体……?」
「何を言い出しているんだ? この前夜勤中にまた倒れて、しばらく仕事を休んで診察の為にこの病院に通院して来たんだろう? 診察中に突然暴れ出して、それに自分の足でここまで歩いて来たというのに、何も覚えてないのか?」
男性医師の言う通り、彼女はそれまでの事を何も覚えていなかった。覚えていないと言うよりも、自分が倒れた事や仕事を休んでいる事、あの病室で白い布にグルグル巻きにされた女性に襲われてからの記憶がスッポリと抜け落ちてしまっていたのだ。
それどころか、診察室の鏡に写る自分の顔を見るといつの間にか目の下にはどす黒い隈が出来て、肌の色は青ざめ頬の肉はげっそりと痩けていた。まるで別人の様な自分の顔に、彼女は驚きを隠せなかった。
「……これが、私? どうして? 一体どうして……?」
「……かなり病状は悪化しているみたいだな、この様子だと記憶障害も引き起こしているみたいだし、入院治療も考えた方が良いな、次回の診察の時は必ず誰か家族の人と一緒に来るように、これからの治療について話し合わなければならないだろう」
「……入院? 先生、私は一体どうしてこんな事に……?」
「それと、この前から処方している薬は必ず毎日飲み続けなさい、仕事の事は考えないで、今は自分の病気を治す事を心掛けなさい、いいね?」
「……は、はい……」
全く理解出来ない現実に疑問心を苛まれながら、彼女は処方された薬を受け取り病院を後にした。
一体、自分は倒れてから何をしていたのだろう? どうやってこの病院までやって来たのだろう? あの時、一体何が……?
記憶の糸を辿っても、彼女は何一つ思い出す事が出来なかった。ただ呆然と、うっすらと覚えている帰り道を辿っていくしか出来なかった。
「……陽子ちゃん、お帰りなさい?」
「……ただいま……」
家に帰ると、母親が心配そうに彼女を出迎えた。優しい母親の姿と聞き慣れた声、そして生まれた時から変わらない自分の家の玄関。安らげる光景に辿り着いた彼女はそれまで抱いていた疑念から少し解放され、やっと落ち着きを取り戻した。
「……先生が今度ね、家族の人を連れてきなさいって……」
「いいのよ、詳しい話は後で聞くわ、今日はもう部屋に戻ってゆっくりと休みなさい?」
「……うん、ありがとう、お母さん……」
とりあえず、今は余計な事を考えない方がいいのかもしれない、自分は今病気にかかっているんだ、先生の言う通り治療に専念しよう。
自分なりに疑問に決着をつけ、処方された薬を一錠飲んだ彼女は自分の部屋に戻りベッドに横たわった。
「……仕事を休むなんて、同じ看護士の人達や患者さん達には迷惑をかけてしまったな、元気になれたら絶対にお詫びに行かなきゃ……」
横になって目をつむった彼女は次第に眠りについていく意識の中で仕事仲間や患者達の事を思い出していた。
激務の中、お互いを支え合って頑張ってきた先輩看護士達、懐いてくれた自閉症の少女、退院してからの夢を熱く語ってくれた鬱症状の男性、本当の孫の様に接してくれたあの老婆……。
「……あれ……?」
眠りの縁で、彼女は自分の記憶の異常に気付いた。毎日病棟で顔を合わせていた看護士や、名前も血液型も全て覚えていたはずの患者達の顔が一人も思い出せない。まるで顔全体にモザイクがかかっているみたいに記憶の中でおぼろげ、誰か誰なのかわからなくなってしまっていたのだ。
「……何で、どうして!? どうして何も思い出せないの!? あんなに親しくしていたのに、どうして誰の事もわからなくなってしまったの!?」
訳がわからず平常心を無くした彼女は、ベッドから飛び起き部屋の扉を開けて居間にいる母親の元へ助けを求めて駆け寄ろうとした。
するとなぜか、扉の外の光景は真っ暗な森の中に変わっていて、今いたはずの部屋の扉も姿を消してしまっていた。
森は空が見えないくらいに天井を覆い尽くしていて、木々の隙間からは大量の雨が降り注ぎ彼女を濡らした。
「……何で? どうして? ここはどこなの!? 何で私はこんな所にいるの!? ……いや、助けて、誰か助けて!!」
次々起こる不可解な現象に錯乱した彼女は、得体の知れない恐怖感から逃げるように森の中を疾走した。
裸足で走る彼女の足には枯れ落ちた枝の破片が何本も突き刺さり、木々を掻き分ける腕も切れて傷だらけになっていった。
「……わからない、わからない! もう何が何だかわからない! お父さん、お母さん、先生!! 誰か、誰でもいいから助けて!! ここから出して、お願い!!」
足元の木の根に躓いた彼女はそのまま前に倒れ込むと、痛みと疲労で力尽きその場で泣き崩れた。雨は更に激しさを増し、森全体には雷鳴が響き渡った。
「……どうして? 何でこんな目に合わなきゃならないの? 怖い、寒い、苦しい……、お願い、誰か……」
すると、懇願する彼女に手を差し伸べる様に上から一本の紐が垂れ落ちてきた。彼女は最後の力を振り絞り、藁をも掴む思いでその紐を掴んで思い切り引っ張った。
バサバサバサッ!!
すると、その紐に連動する様に近くの茂みから何かの影が上に引き上げられた。そして、その影は高い木の枝まで到達すると、風に吹かれている様にブラブラと揺られ始めた。
「……い、いやぁ、いやあぁ!!」
その影に釣られて森の上を見上げた彼女は絶叫した。そこには木々の枝にびっしりと隙間なく大量の人間が紐で首を吊っていて、体中には無数の刃物や金属が突き刺さり、空から降ってくる雨を血で真っ赤に染めていた。
「……いや、いや、いやぁ! もうやめて、もうやめてぇ!!」
その地獄の様な光景から何とか逃げ出そうとした彼女の上に、何か重たく正体不明のものが上から落ちてきて覆い被さった。
恐怖で錯乱状態になった彼女がその落ちてきたものを振り払おうと必死で両手を振り回すと、指先に何か糸の様なものが絡んでくるのを感じた。
「……何、これ……?」
再び雷鳴が響き、森全体が明るくなったその瞬間、彼女はそれを見てしまった。手に絡まる黒くて長い女性の髪の毛と、上から落ちてきたもの正体を。
「……そんな、また……、いやぁ、嫌だぁ……!」
落ちてきたものは先程自分が紐を掴んで引き上げたあの女性の顔をした人間の体だった。
首には何重にも紐が巻かれて肉に食い込み、頭には多数の刃物が突き刺さり頭蓋骨が割れて中から脳みそが飛び出していた。
腹部も鋭い金属片でぱっくりと裂け臓物が垂れ下がり、体中の皮膚は真っ青に変色して所々が腐乱していた。
……ケラケラ、ケラケラケラケラ……
木の上で首を吊っている人間達の目は一斉に彼女を睨みつけ、不気味な笑い声を上げながら左右に大きくブラブラと揺れ始めた。
振り子の様に揺れる人間達の首はその勢いに耐えられず、ブチッと千切れては次々にドサドサと下に落ちていった。
「……ツギハオマエ、ツギハオマエ……!」
人間のものとは思えない得体の知れない恐ろしい声と共に、またも不快な耳なりと酷い頭痛が襲いかかり彼女の言動の自由を奪った。
すると、息絶えていたと思っていた女性が自分の頭に刺さっていた刃物を引き抜き、動けなくなった彼女の側頭部にその刃を突き刺した。
頭を切り裂かれた彼女の脳に女性の頭の中から出てきた神経の糸の様なものが絡みつき、彼女の思考、記憶、人格そのものを浸食し支配していく。
「……頭ガ、アタマガァ……!」
◇
『中村? おい、中村!?』
「……えっ?」
「しっかりしろ中村!? 私の声が聞こえるか、中村!?」
「陽子ちゃん!? お母さんよ、わかる!?」
「……また、夢……?」
聞き慣れた母の声と男性医師の姿。我に帰った彼女が周りを見渡すと、先程の森も死体も女性の姿もいなくなっていた。
窓から木漏れ日が差す真っ白な病室の中、彼女はいつの間にか真っ白なパジャマを着て家族と医師と看護士達に囲まれてベッドの上に寝そべっていた。
「陽子ちゃん、もう一人で苦しまなくていいのよ? これからはここの病院に入院をして、お母さんと一緒にゆっくり病気を治していきましょうね? お母さん、ずっと陽子ちゃんの側にいてあげるからね?」
「……お母さん? 入院って、いつ……?」
「覚えていないかもしれないが、君は自分の部屋で突然暴れ出して倒れて救急車でここに運ばれたんだよ、でも、もう大丈夫だ、これからは毎日この病院で私が君の治療に専念させてもらうから、もう心配しなくていい」
「……先生……?」
「陽子ちゃん、もう悪夢は終わったのよ? これからは陽子ちゃんの病気を先生方が色々研究して助けて下さるから、これ以上怖い思いをしなくて済むのよ?」
「少し落ち着いた様だね、君の病気は必ず治してみせる、さあ、薬を飲んでもう一休みしなさい、もう君は苦しまなくていいんだからね」
そうか、私は助けて貰えたんだ、もうあの悪夢を見なくて済む様になるんだ、もうあの怖い女性の姿を見る事はない、もう眠る事に怯えなくてもいいんだ……。
母親と男性医師の暖かい励ましに、彼女はやっと未知の恐怖から解放された気分になった。薬と共に水を一口飲み込みホッとした彼女の瞳から、自然と安堵の涙が溢れてくる。
「……ありがとう、お母さん、ありがとうございます、先生……」
しかし、悪夢は終わってなどいなかった。彼女が涙で潤む瞳をタオルで拭いて母親と医師の姿を見た次の瞬間、彼女の頭の中に巣くう悪魔は最後の絶望的光景を叩きつけてきた。
「……えっ!?」
彼女の視界から、母親や医師や看護士達の顔がまるでのっぺらぼうの様に消えてしまっていた。目に写る全ての人間の顔が誰だかわからない。
顔や名前どころか、その人間との関係や思い出、全ての記憶が彼女の頭の中から消えてしまっていたのだ。
「……何で、どうして!? あなた達は誰? 一体誰なの!?」
「中村? おい、どうしたんだ中村!?」
「陽子ちゃん、お母さんよ、わかるでしょ? しっかりして!?」
「……わからない、わからないわからない! みんな誰なの!? どうして私はここにいるの!? 一体、私はどうなっちゃったの!? お願い、誰か、誰か助けて!!」
錯乱する彼女に、またしても強烈な頭痛と酷い耳鳴りが襲いかかってきた。その痛みは今までのものよりも一段と激しく、まるで鋭利なドリルで頭の四方八方を突き刺されている様な酷い痛み。
頭の脳細胞をグチャグチャに破壊される様な耐え難い激痛と異常なほどの吐き気をもよおす不快な感覚。見える全ての映像が渦を巻いて歪み出し、彼女自身を保っていた『何か』が頭の中で次々と破壊されていくのを感じた。
「……私が、壊レテイク……!」
「ちょっと陽子ちゃん、どこに行くの!?」
「出歩いたら危険だ! 病室から出るんじゃない、中村!?」
医師や看護士の制止を振り切り、病室を飛び出した彼女は逃げ込むように廊下のトイレの中へと入り、そのまま入り口にある洗面台に倒れ込んだ。
強烈な頭痛に溜まらず嘔吐した彼女がゆっくりと頭を上げると、そこには今までずっと夢の中で自分を苦しめ続けてきたあの女性の姿があった。
「……あなたは、一体誰なの? どうしていつも私の前に現れるの?」
その女性も、彼女に向かって何やら大きく口を開けて訴えてくる。しかし、その声はなぜか聞こえてこない。何度呼びかけても、女性は彼女と同じ行為を繰り返すだけだった。
苛立った彼女は大粒の涙を流がしながら両手の拳を力一杯ドンドンと女性に叩きつけ、ありったけの大声を振り絞って叫んだ。
「お願い、答えて! どうしてここまで私の事を苦しめるの!? あなたは、あなたは一体……」
すると、女性の顔全然に無数のヒビが走りその姿が歪んだ。それと同時に、彼女の手のひらが切れて血が滲み出し、女性の全身が真っ赤に染まっていった。
「……!!」
そして、彼女は気づいてしまった。自分の前にいる女性の正体は鏡に写っている自分の姿。夢に出てきた女性の顔は、彼女が一番良く知っている自分自身の顔だったのだ。
「……いや、そんなのいや、やめて!!」
信じがたい事実に気づいてしまった次の瞬間、彼女が流す涙も鏡に写る自分と同じ様に真っ赤に変色し、次第に体中の肉体が腐って崩れ堕ちていく感覚を覚えた。
「……お願い! 誰か、誰か助けて!!」
彼女の全身からは大量の血と溶け出した肉が吹き出し、長い髪もバサバサと抜け落ちていく。トイレの白い室内は真っ赤に染まり、彼女は枯れ果てた喉で苦しみの声を上げた。
「キイィィィィィ!!」
その声は、とてもこの世のものとは思えない断末魔の叫び声。彼女を苦しめてきた、あの耳鳴りの音と同じものだった。
そして、最期は顔からは突然炎が吹き出し、一瞬にして体中は火に包まれ、彼女は真っ黒に燃え尽き崩れ堕ちていった。
「……アタマガ、イタイ……」
◇
『中村? おい、中村!?』
「………………」
「……反応無し、か」
ここはある精神科閉鎖病棟の一番奥に特別病室の一室。男性医師がある患者の問診を行っていた。
何もない真っ白な病室の中で、暴れ出さない様に白い布に包まれ体中を紐で縛られた女性が一人、ベッドに横たわっていた。
医師が呼び掛けるものの、返事は無くただヘラヘラと不気味な笑みを浮かべているだけ。手をかざしても、その目からは何の反応も感じる事が出来なかった。
「……先生、陽子は、陽子は一体どうなってしまったんですか? あの子は元に戻る事が出来るんですか?」
「……どうやら、完全に精神が壊れてしまったみたいです、この様な状態になってしまった患者のケースは他にも見られ、私達も医療を通じて日々心理学研究を進めていますが、実験上効果的な治療法となると難しいのが現状で……」
「……そんな……」
「でも、決して諦めないで下さい、私達で全力を尽くして治療にあたりますし、それによって次第に彼女の病状も改善していくかもしれません、その時は、彼女には何よりご家族のお力添えが必要になるのですから……」
「……あぁ、陽子、陽子ちゃん……」
変わり果てた彼女の前で泣き崩れる母親を病室に残し、男性医師は研修中の女性医師を従え次の病室へと向かった。
「……あの様な患者には手厚い治療を施すのはもちろん、医学がまだ解明出来ていない病状に対して新たな心理療法を生み出す為の臨床実験体としても利用出来る、様々な患者と接して日々の医療知識を高めていくのも医師の仕事だ、良く覚えておく様に」
「………………」
患者の壮絶な病態にショックを受けた女性医師は、辛そうに顔を歪めながら手で頭を押さえていた。
「どうした? 頭が痛いのか?」
「……はい、最近研修続きちょっと寝不足で、眠れても何か嫌な悪夢を見るようになって……」
「……うむ、これはあくまでも私の見解だが、その悪夢の原因は疲れと共に君の鋭い感受性と関わっているのだろう、君が様々な患者と関わる事によって、知らぬ間に彼らの感情や思考が何かしらの形で君の脳神経に働きかけ、その影響がその夢となって君の目の前に現れているのだと思う、きっと頭痛もそれによる脳の疲れからだろう」
そして、男性医師はうなだれる女性医師の肩に手をかけ、優しく微笑み語りかけた。
「今度、良く効く薬を処方してあげるから飲んでみると良い」
ー完ー