暗い日曜日
観覧注意
この作品集は全て残酷な描写を含んだ内容になっております。
もし、読まれている途中で気分が悪くなったり、生理的に受けつけない場合は観覧を中止して下さい。
宜しくお願い致します。
都会から遠く離れた田んぼが広がる田舎農家の裏山に建てられた小さな墓地集落。この春、四十年の勤務を終え警察を定年退職した俺は若くしてこの世を去った後輩とその家族の墓参りにこの地を訪れた。
将来が有望出来る優秀な刑事だった。俺も長年この仕事をやってきて大切な仲間を殉職という形で失った経験は他にもあったが、あの事件だけは二度と思い出したくないあまりに残酷で恐ろしいものだった。
そう、あれは忘れもしない去年の七月二十九日、日曜日の真夏に起きた忌まわしき記憶。俺の刑事としてのキャリアを締めくくる、壮大な大捕り物劇になる筈だった連続主婦失踪殺害事件……。
◇
「買ってきましたよー、弁当」
その若僧の名前は菊池聡。ちょっと前まで警察学校で勉強していた駆け出しのペーペーで、交番勤務から昇格し俺が勤めていた署に新米刑事として配置されたばかりだった。
「一体どこまで買いに行ってたんだ! 捜査も大詰めまで来てるのに、いつまでチンタラやってんだよ!?」
「ヨシさん、俺だって遊びに行ってた訳じゃないっすよ? ほら、美味そうでしょこのメンチカツ?」
ちなみに『ヨシさん』ってのは俺の愛称だ。吉田だからヨシさん、ただそれだけだ。そんな事より、この若僧はまだ学生気分が抜けきってなくて課長から無理矢理コンビを組まされた俺は何度となく捜査の足を引っ張られていた。まぁつまり、定年間近のジジイに厄介な子守をみんなで押し付けてきたって訳だ。
「寄り道してる暇があったら飯を食いながらでもいいからさっさと今日の調書をまとめろ! でないと今日も徹夜作業になっちまうだろ!?」
「……ちぇっ、わざわざ足伸ばして美味いって評判の店まで買いに行ってきたのに、じゃあ俺一人で全部食っちまいますからね!?」
「勝手にしろ!」
確かに見た目や言動はどこにでもいるような頭の悪いクソガキだったが、仕事への熱意は人一倍あった。それもそのはず、コイツの父親も地方の交番勤務をしていた警官で、連続殺人犯に襲われた妊婦を助ける為に身代わりにその凶刃に倒れた心優しい勇敢な人間だったのだ。
父親の様な強い人間になりたい、病気がちながら女手一つでこれまで育ててくれた母親を助けてあげたい、そして何より凶悪な犯罪から人々を守ってあげられる様な警察官になりたい、最近の若者にはない熱い正義感を胸に秘めた男だった。
「うわっ、このカツ、マジでうめー! 母ちゃんの飯よりうめー! こんな美味いもん今まで食った事ねーや!」
「……ったく、やれやれ……」
元気良くカツと飯とおかずをかっ食らう若僧を半ば呆れて横目で見ながら、俺も毎晩の様に食っている海苔弁を喉に流し込み腹ごしらえを済ませた。俺には女房も家族もいないので、これまでの人生弁当づくしだ。
この頃、俺達の署は謎の連続主婦失踪事件の捜査本部が設置されほとんどの刑事がこの事件の捜査についていた。しかし、もはや署のお荷物ジジイと化していた俺はこの若僧と共に現場で捜査をしてきた他の刑事達の捜査の内容を調書にまとめるという雑用に回され、慣れないデスクワークに肩が凝っていた。
「何か、この前失踪した主婦が住んでたマンションにまた不審者情報があったみたいですね、これって何か怪しくないっすか?」
「……だから何だ? 不審者なんぞあちらこちらのマンションや住民から通報があっただろう? 課長の話だとこの事件の被疑者は大体絞れてきたという話だ、俺達がいちいち推理する必要など無い」
「でもこれヒドいっすよ? 情報主の女性の特徴欄に『デブ主婦』って書いてありますよ、特徴は捉えてると思うけど、この調査をした人あんまりですよ?」
「下らん事を喋ってないでさっさと仕事をしろ! 世間は休日でのんびりしてる日曜日くらい、せめて日が変わらない内に帰らせてくれよ!」
何とか山ほどあった調書をまとめ、頭も足もフラフラになった俺は若僧を屋台に引きずり込んで酒を飲みながら数時間説教をたれた。半分やけ酒だった事もあったが、早く帰りたいと言っていた本人がこの様、全くもって情けない話だ。
帰り道、偶然あの不審者情報があったというマンションの近くを通る事になり、酒が入って日頃の残業のストレスが溜まっていた俺はついでがしらにそのマンションを少し調べてみようと思いついた。
「おい若僧、今からそのマンションに行くぞ、監視カメラぐらいついているだろうから、管理人に言ってビデオを確認するぞ!」
「ちょ、ちょっとヨシさん! こんな時間にマンションの管理人がいる訳ないじゃないっすか!? 日が変わらない内に帰りたいって言ってたでしょ!? 俺も母ちゃん心配してこっちに来ているるらしいんで、早く帰りたいっすよ!」
「何言ってやがるこのマザコン野郎! 管理人が寝てたらこの経歴四十年の大ベテラン刑事であるこの俺が叩き起こしてやるから心配すんな! ほら、さっさとついて来い!」
暗くなったとはいえまだ蒸し暑い熱帯夜の中を千鳥足で歩いてそのマンションの前に到着すると、若僧の言う通りすでに管理人室の電気は真っ暗になっていて中に人気は無かった。
「だから言ったでしょヨシさん? 今のマンションの管理人なんてみんな派遣、住み込みなんて団地ぐらいっすよ? 絶対この時間じゃいないって思ってましたよ!」
「うるせえ! お前は黙って管理人室のポストに用件書いてさっさと入れてこい! 明日また改めてここに来るぞ!」
「……質の悪い酔っ払いだなぁ、母ちゃん、家で心配してないかな……?」
あの時俺は、酒のせいかついつい久し振りに若い頃みたいなやる気が出て空回りをしてしまったんだな。ところが、その俺の空回りは結果的には上手い具合に好転した。いや、今考えると好転とはとても言えない、決して触れてはならない最悪のシナリオの幕を開いちまったんだが……。
「……ん?」
若僧を中に残し先に外に出た俺は、真っ暗な夜道に立ちこのマンションを見上げている不審な男の姿を見つけた。野球帽を目深に被り、フードの付いた灰色のパーカーに白い汚れた作業服の様なズボン。まるで何か下調べをしている様な挙動不審な行動、どう見ても怪しい。
現行特に何かしている訳でもないし、俺も今は職務時間外だ。しかし、長年の勘からこれはとりあえず職場質問をする必要はあると判断した。俺は自分の顔を両手で叩き少し酔いを覚ませてから相手を刺激しない様にゆっくりと近づき、男に声をかけてみた。
「兄さん、こんな夜遅くに一人でどうしたの? ここのマンションの住人さんか何かかい?」
男は突然声をかけられて一瞬怯んだが、俺の顔を見るとまるで路上で車に轢かれた猫を見るかの様な嫌悪に満ちた目つきでこちらを睨んできた。
「あぁ、悪いね、おじさんさ、こういう者なんだけど……」
突然だった。俺が警察手帳を見せようとした瞬間、男がいきなりパーカーのポケットから何か黒い物を取り出しこちらに押し当ててきた。
「……がっ!?」
小型のスタンガンだった。体に高圧電力を流された俺はその場にうずくまり動けなくなってしまった。昔ならこんなもの反射的に取り押さえる事が出来たのだが、歳と酒のせいか対応する事が出来なかったのだ。余りに不覚だった。
「……ち、ちくしょう……」
男は何も言わずに今度は別のポケットから刃物を取り出すと、何の躊躇いもなく俺の喉元に刃先を突き立てカッ切ろうとした。最近、人の命の尊さも知らずに残忍な犯行をする輩が多くなったが、どうやらこの男もそんな人間の一人か。もはやこれまで、定年前に殉職とは情けない人生だ。死を覚悟したその瞬間、俺の真上を飛び越える人影が目に入ってきた。
「何やってんだ、この野郎!!」
あの若僧、菊池だった。ヤツは刃物を飛び蹴りで弾き飛ばすと、男の体を掴んで一気に地面に投げ落とした。そして、男の手を捻り抑え込むと、モタモタしながらもワッパを取り出してその両手にかけた。
「どうですヨシさん! 俺だってやる時はやるんですよ!」
「……あぁ、良くやった、上出来だ……」
この時のコイツの活躍っ振りは、さすがの俺も認めざるを得なかった。この若僧、将来必ず良い刑事になる。激痛が走り朦朧とする意識の中、俺は本気でそう思った。
ここまでの話なら良くある捕り物劇で済んだ。ああ、せめてここで終わってくれていたら俺は何も思い残す事無くこの仕事を引退できたのだが……。
「……何か、取調室の外、人でいっぱいですよ? もしかしてオレ達、出し抜いちゃったんすかねぇ?」
「これから取調べやろうってのにニヤニヤしてんじゃねぇ! それより、お袋さんがやって来るんだろ? 帰らなくていいのか?」
「何言ってんすか、これは俺とヨシさんの事件ですよ? ここはきっちりと仕事をやりこなして、マザコンなんて汚名返上してやりますよ! 母ちゃんもきっとそう言うはずです!」
「よし、それでいい、しかし後で電話だけはちゃんとしておけよ、お袋さんを心配させる様な事をしちゃいけねぇからな?」
若僧が公務執行妨害と殺人未遂で現行犯逮捕した男の名前は片山喜雄、三十四歳独身で署の近くの商店街で肉屋を経営していた。近所の主婦達には評判の店だったらしく、惣菜を買いにくる足が絶えたなかったという。
どうやら捜査本部もこの男の事をすでにマークしていたみたいで、どの罪状で署に連行するか手段を悩んでいたらしい。そこに不審者情報で立ち寄った俺達が先にヤツを捕まえた。つまり、先に取調を行う権利があるのはこちら。若僧の言う通り、俺達はまんまと本部を出し抜いた訳だ。
「……んで、お前さん、何であんな所でウロウロしてたんだ? しかも、あんな危ねぇ物持ち歩いて何をしようとしてたんだよ?」
取調室に入ってから三時間、男は俺の質問に全く答えようとはせずに黙秘し続けた。帽子を被ったまま下を向くその表情はまるで血が通ってないみたいに白く、感情が無いみたいに無表情だった。目は死んだ魚みたくドス黒く濁り、時折無意味に口元に笑みを浮かべる姿は少々気味が悪かった。
「……何か、喋ってくれないかねぇ……」
俺は何とかこの男に例の失踪事件の自白をさせたかった。なぜなら、俺をジジイ扱いして小馬鹿にしていた本部の後輩刑事達の無駄に高い鼻っぱなをへし折ってやりたかったのもあるが、俺の命を救ってくれた若僧にこの事件の手柄を取らせてやりたかったからだ。
それに取り調べで相手に吐かせるのは昔からのおれの十八番でもある。どんなに歳を取ってお荷物扱いされようと、これだけはまだまだ若い者に負けない自信もあった。
「……最近、お前さんがいたマンション近辺でうちの署が全くもってお手上げの失踪事件が連続発生しててな、その天才的な犯行で俺達みたいな平凡な人間ではさっぱり理解出来ないんだ、そいつのお陰でこっちは毎日捜査でクタクタなんだよ、出来ればアンタのこの件くらい、楽に終わらせてくれねぇかなぁ……?」
「……お手上げ?」
俺が情けない弱音をポロリと吐くと、男が釣られて口を開いた。やはりそうだ、コイツは最近の凶悪犯に良くある自己顕示力の強いタイプの男。あの失踪事件と関連、いや多分、主婦達を拉致した張本人かあるいは何か深い事情を知っている人間。しかも、大した動機も無く犯行を行っている愉快犯。俺の長年の捜査の勘はピンと反応した。
「……あぁ、お手上げだよ、四十年刑事やってる俺が言うんだから間違いない、白旗さ、下手すりゃ時効もの、もし誰がその失踪に関わっているなら、そいつは日本犯罪至上最高の天才犯罪者だよ」
「……至上最高か、ククク、良い響きだな、ククククク……」
ここまでくれば、後もう一押し。男の気味の悪い笑い声には腹が立つが、ここはグッと堪えなければ一人前の刑事にはなれない。俺は若僧の良い手本になる様に、冷静に男の自供を引き出した。
「……まさか、お前さんがやったのかい?」
「……知りたいか? そんなに知りたいなら、教えてやっても良いぞ? 品定めだよ、クソ女どもの品定めをしていたのさ、次の獲物のな」
「……ヨシさん! これって自供……!?」
これだけ吐かせればもう十分だった。やはりあの失踪事件、第三者による連続拉致事件だったのだ。俺と捜査本部の予想は見事的中、この様な人間には嘘くさく感じるほど褒め千切った方が意外と簡単に情報を漏らすものだ。しかし、今考えると最初からそれがヤツの目的だったのかもしれないが……。
「お前がやったのか!? いなくなった人達はどこにいるんだよ!? みんな無事なのか!? どうなんだ!?」
「落ち着け若僧! お前はさっさと本部の連中に連絡をして、例の件の逮捕状と男の自宅と店内の捜査許可状を取ってこい!」
男の自供によって、署の中は一気に大騒ぎとなった。男には改めて拉致監禁の疑いで逮捕状が出て、捜査官や鑑識が男の自宅や店内の捜索を開始した。この不可解な事件を引き起こした犯人の正体は掴んだ。しかし、逮捕から三日経ち、まだ男から失踪した主婦達の消息の情報は聞き出せない。ここから気力の勝負、俺と若僧は取調室に籠もって男と対峙し続けた。
「……最近の女達は、家事も子育てもろくにしないで自分達だけでスイーツだのセレブ気分だの抜かして高価な食い物に貪りつく、外で汗水垂らして働く旦那や育ち盛りの子供達には手のかからない安い惣菜を食わせて、ただ淡々と私腹を肥やしてブクブクと醜態を晒して……」
「……だから、お前さんは彼女達を拉致監禁したって言いたいのか?」
「ああ、そうだよ、醜い豚にはこの俺が神に代わって天罰を下してやった、そうしないとこの世界が汚物で溢れかえってどんどん汚れていっちまうだろう?」
しかし、途端に饒舌になった男の口から吐き出される話の内容は聞いていて反吐が出そうになるくらい悪意に満ちていて残虐なものだった。口元をへの字にしてニヤニヤと笑う男と向き合う俺達は次第に精神的にストレスを感じ始め、まともに食事が喉を通らない日々が続いた。
「……天罰ってお前さん、まさか彼女達を全員殺したのか?」
「わかってないな刑事さん? 殺したんだじゃない、間引きだよ、『ま・び・き』、不必要に餌を食らって採算の合わない家畜を処分してやっただけだ、誰もやりたがらない汚らしい雑用を俺は進んでやってあげたんだぜ? 刑事さんも少しはこの俺に感謝してくれよ?」
やはり、拉致された主婦達の生存は期待出来ない。残念だが、もうすでに全員この世には存在しないと断定していいだろう。しかし、だからと言って彼女達を家族の元に帰さない訳にはいかない。何としても、四人の遺体がある場所をこの男の口から吐かせないといけない。
「……で、遺体はどこだ? 山にでも埋めたのか? それとも海に沈めたのか?」
「……なぁ、刑事さん、牛や豚などの質の悪い家畜の肉を見違えるほど美味くするスパイスって、何だか知ってるかい?」
しかし、肝心の拉致された主婦達の遺体の場所を訪ねるといつも必ずこの男は全然関係の無い話にすり替えてくる。この前は精肉加工場内での家畜のシメ方、その前は加工工程の詳しい説明、さすがに肉屋を経営しているだけ知識が豊富だが、聞いているこちらはあまりいい気がしない話ばかりだ。
「肉を美味くするスパイスはな、『恐怖』なんだよ、地獄の様な恐怖を味わう事によって大量の脳内部質が放出し、筋肉が一気に凝縮して良いサシが生まれるんだ、あとな、血の抜き方もコツがあってな、首をかっ切って逆さ吊りするのが一般的だが、少しずつゆっくりと抜いていくのがオススメだな、余計な油も良く抜けるし、体温の低下と薄れゆく意識の中で『死』の恐怖を存分に与えてやるのが……」
「いい加減にしろよてめぇ! こっちが先に質問してるんだぞ!? お前に少しでも良心の呵責が残っているんだったら、さっさと四人を隠した場所を吐いて帰りを待っている家族の元へ返してやれよ!?」
「オイ、若僧! ここで焦ったら俺達の負けだ、黙って座ってろ!」
「……でも!」
「菊池! 我慢するんだ、我慢しろ!!」
「……ちくしょう……!」
男の胸ぐらを掴んで激昂する若僧をなだめて、俺はこのやりきれない気分を紛らわせようとタバコに火をつけた。その時、終始下を向いて喋っていた男が初めて顔を上げて俺達の顔を見た。すると、何かに気づいた様にニヤリと気味の悪い笑みを浮かべ、いきり立つ若僧の顔を舐める様に下から覗き込んだ。
「……菊池? そこの兄さん、そういえばあの日曜日の日のお客さん……?」
「……日曜日?」
「ククククク、そうかそうか、アンタがそうだったのか、これは予想外の面白い展開になったな、兄さん、アンタは良い母親に育てられたんだな、それなのに息子は仕事に夢中で、電話の一本すら連絡しないとはね……」
「な、何の話だよ!? てめぇと俺の母ちゃんと、何の関係があるんだよ!?」
今も、後悔が残る。この時、男のこの言葉の意味に気づくべきだった。熱くなった若僧を落ち着かせる為に取調室から外に出すべきだった。この男から出来る限り遠くへ引き離すべきだった。アイツをこの事件の捜査から、すぐにでも外すべきだったんだ。
「……ヨシさん、ちょっと……」
取調室に顔を出した課長に呼ばれた俺は、若僧と男を置いて外に出た。俺を呼んだ課長の顔は真っ青に青ざめ、額にはびっしりと脂汗をかいていた。
「……ヨシさん、この事件は今から警視庁の管轄に移る事になった、今すぐこの事件の捜査から手を引き、大至急あの男の身柄を東京へ輸送するぞ」
「何だって? この事件は命懸けであの男を捕まえた若僧の手柄だろうが? アイツはな、俺の命の恩人でもあるんだぞ!? その手柄をお偉いさんが権力でもって横取りしようって言うのか!? そんな真似、課長のアンタや署長が許してもこの俺が絶対に許さん! この俺の定年までの残りのクビをかけても、この手柄だけは絶対あの若僧に……!」
「違うんだよヨシさん、そんな小さい話のレベルじゃないんだ! この事件の真相は世間やマスコミに知られたらマズいんだよ! とてもうちの署の管轄だけじゃ扱いきれない、永遠に闇に葬らなきゃいけない事件なんだよ!!」
男の店に捜索に行った鑑識から、耳を疑る信じられない捜査結果が報告されてきた。男の店内の奥にある精肉を解体する作業場に、大量の人間の血液ルミノール反応が検出されたのた。それだけではない、室内の機材に飛び散っていた肉片のDNA鑑定からも、それらが失踪した主婦四人のものと一致したらしいのだ。
「……ほとんどの肉片は、作業場にあるミキサーの中から検出されたんだ、しかも、それは四人だけじゃない、俺達の捜査には上がっていないもう一人の被害者のものが……」
「……もう一人? しかもミキサーからって、まさか、彼女達の遺体の行方は……?」
俺の脳裏に、あの男の悪魔の様な笑みが浮かんできた。肉屋、ミキサー、豚、家畜、処分、そして男の言葉一つ一つ……。
「うぎゃあぁぁぁぁぁ!!」
突然、取調室から断末魔の様な叫び声が聞こえてきた。この声はまさか、若僧!? 男が何かやらかしたのか!? 俺と周りにいた刑事達は腰に巻いていた拳銃に手を当て、取調室の扉を開いた。
「若僧! 何があった!!」
その光景は、見る者全ての思考と理性を奪い去った。椅子に座りケラケラと不気味な笑い声をあげる男の足元で、あの正義感が強く凛々しかった若僧が自分の口の中に手を突っ込み、反吐を撒き散らしながら白目を剥いてのた打ち回っていたのだ。
「どうしたんだ若僧! 何があったんだ!? しっかりしろ、オイ、菊池!!」
「ああ、あが、あがががあぁぁぁぁぁ!!」
その様子は尋常ではなかった。目を血走せながら涙と鼻水を垂れ流し、突然立ち上がったと思ったら髪の毛をグシャグシャに掻き乱し頭から倒れ、自分が吐いた反吐の上で再びのた打ち回る。その姿は明らかに精神に異常を来していた。
「このままじゃ舌を噛んじまう! 口の中に何か詰めろ!」
「暴れないように手足を縛れ! 早く、救急車を呼ぶんだ!」
「ごめんなさい、ごめん、ごめ、ご、ごきゃ、ごぎゃぎゃぎゃぎゃあぁぁぁぁぁ!!」
まるで、この世の生き物とは思えない有り様だった。取調室の中は反吐の悪臭と男の悪意に満ちた空気で噎せ返り、とても人がまともにその場にいられる状態ではなかった。
「お前、コイツに何をした!? 正直に言え!!」
「……だからさ、正直に話してあげたんだよ、この兄さんの知らない真実を、日頃の感謝の気持ちを込めてね」
「……真実、だと?」
「刑事の仕事に就き毎日働きづくめの息子を心配して、田舎から上京してきたって言う中年くらいの女性が俺の店に惣菜を買いに来たんだよ、『栄養のある物を食べさせてあげたい』ってね、彼女は俺の天罰の対象になる様な醜い体型じゃなかったが、優しさで満ちた雰囲気が俺の死んだ母親にも似ててついつい興味をそそられてしまってね」
机の上には、肌の色が真っ青に変色して痩せ細った女性が椅子に縛られているのを写した男の携帯電話が置いてあった。それは以前、若僧が俺に写真を見せてくれた母親の変わり果てた姿だった。彼女の両足首はバッサリと切断されていて、その床にはおびただしい程の大量の鮮血が広がっていた。
「そんな母親の優しさをちっともわかっていないこの兄さんに、心暖まるお話とあの日曜日の真実を教えてあげただけだよ、『あの日の仕入れ品はこちらになります、毎度お買い上げありがとうございました』ってね」
俺に胸ぐらを掴まれながらも、男はこの光景を楽しむ様にケラケラを笑っていた。近所の商店街の肉屋、見つからない遺体、そして肉片が付いていたミキサー。俺の頭の中によぎった立ち眩みそうな身の凍る悪夢の真実。そう、あの夜夕飯に若僧が食べていたもの……。
「醜い豚共じゃ肉質が悪くて不味いだろうから、俺が手塩にかけてスパイスを効かせた最高ランクの上質品を使って調理してやったのさ、なぁ兄さん、栄養も愛情もたっぷりで美味かったろう? あの『メンチカツ』」
◇
それから二ヶ月後、あの若僧、菊池は入院した精神科の病院を抜け出し、近くの森の中で首を吊っているのを発見された。絶望の淵をさまよい歩き、もがき苦しみ、自分の行ってしまった禁断の行為に耐えられなくなったアイツは最期に自らの命を絶ってしまったのだ。
一人身だった俺からすれば息子の様な存在、そして命を救ってくれた恩人を亡くして今思う。あの時あの取調室で男と二人きりにさせなければこんな事にはならなかった。せめて、あの夜にアイツに弁当を買いに行かせなければ、あるいは母親が上京してきた時に真っ直ぐ家に帰らせていれば……。
あまりの残忍な犯行内容とあの店で食材を買った不特定多数の『被害者達』の混乱を避ける為、この事件には報道規制がかかり関係者だけが知る禁断の事件簿となった。もちろん、俺もこの話は誰にも話さずに墓場まで持っていくつもりだ。
『ヨシさん、食べないんですか? このメンチカツ』
寝ると必ず夢を見る。アイツの夢だ。あの若僧が笑っていた姿が、元気良く捜査に走り回っていた姿が、そして美味そうに飯を頬張っていた姿が、俺の脳裏に焼き付いて離れない。
もう、出来る事ならばこの記憶は頭の中から消してしまいたい。もう二度と、あの日の事を思い出したくない。なのに、毎晩アイツはやってくる。そして笑ってる。笑って俺の事を見ているんだ。
「何で、俺なんかが生き残っちまったんだ……」
最近、夢を見るのが怖くてまともに寝る事が出来ない。食事も喉に通らない。生きていくのが辛くなってきた。疲れたよ、頼むからもう許してほしい。なぁ、教えてくれ。俺はこれから先、どんな面をして生きていけばいいんだろうか。
そして、俺はこれから死ぬまでずっと、絶望の中で罪悪感と嫌悪感に苛まれながら、お前の夢を見続けていかなければならないのだろうか……。
ー完ー