覚え書き・名画鑑賞を経て ~スーチン『牛と子牛の頭部』~
今日はエコール・ド・パリの画家
シャイム・スーチン(1893~1943)の油絵作品
『牛と子牛の頭部』(1925年カンヴァスに油彩。
パリ/オランジュリー美術館蔵)について
語っていきます。
画面中央を血と脂の塊のような
真っ赤なものが埋め尽くしています。
その脇に牛の頭が鎖でぶら下げられていることと、
そして題名から、
この真っ赤なものが
生皮を剥がされた肉牛の肉体なのだと
連想することができます。
全体的に筆致は辛うじて抑制を
効かせているものの、
荒々しくとても写実的とは言えない描写です。
しかし決して適当に描いてあるのではありません。
この牛の肉体は
死んでいることによって
行き場をなくした無尽蔵の
生命力そのものであるが故に荒々しいのです。
死んで解体されていることによって
かえってそれが剥き出しになっています。
さらに写実性を廃したことで
肉体の固有の特徴をではなく
肉体が象徴する普遍なものを
表すことに成功しているのです。
画家は揺るぎない眼差しで対象を直視し、
単に見えるもの以上のものを
描ききっています。
遠くの背景の部分に明るい小道があり、
その上を歩く人間が足以外全部見切れた形で、
申し訳程度の大きさで
描きこまれてあります。
道も牛の死体を通りすぎるように伸びていて、
まるで感情移入や相互関係を
否定しているかのような描かれ方です。
この人影に何らかの
表情やドラマを読み取るのは不可能です。
これらの人や道は
肉体の生命、生と死それ自体から
遠ざかる現代人の生活様式や
意識、精神の有り様を
暗示していると思われます。
画面構成上においては余白を埋め、
かつ平面的に並ぶ牛の肉体と頭部に対して
絵に奥行きを持たせる
純粋に形象的なアクセントの効果を
発揮しています。
人間が合理的に把握しているの
よりも遥かに混沌としている生命の実像、
そして死というものを普段、
そして普段のみならず
実物を前にしても
意識できず、理解できず、認識できず、
見逃してしまっている人間の鈍感さを
この絵は表現しています。