伊勢の海の 沖つ白波 花にもが 包みて妹が 家づとにせむ
「よっ!姉上!兄上も!」
「スサノオ、結界って何か知っていますね?」
「兄上、怖い顔しないでくださいよー。またオジサンコワーイなんて言われちゃうって。」
スサノオはからから笑い飛ばして見せたが、ふいに笑うのをやめて上を見上げた。
「伊勢の結界、変わった?」
「スサノオ、あんた気づいた?」
アマテラスが静かに尋ねた。腕を組み、わざと冷静に装う、いわゆるお姉ちゃんモード発令中だ。
「伊勢が近づいたなと思ったときはやたら闇深いし、なんか時空が歪んで禍々しいというか……。そしたら急に光が眩しくて、近づく気にもなれなかった。」
スサノオはそこまで言うと姉の方をちらりと見た。
「今は姉上がトヨウケの代わりを?」
「ご明察。さすが、高天原最大の敵ね。」
「何千年前の話だよそれ!」
スサノオはそう叫ぶと、わざとふて腐れてみせた。
数々の神話が残るスサノオは、死んだ母イザナミに会いたい一心で、父イザナギに反抗し、頼った姉アマテラスの元にも馴染めず、加えて天岩戸の一件の後は高天原を追放されている。
姉のアマテラスをはじめとする高天原の神々とはすでに和解しているものの、「高天原最大の敵」という悪名(?)は消えていない。その名残として、スサノオは三貴子でありながら伊勢に社を持たず、伊勢の神域を護る神域にも簡単に触れられない。
「で、結界はどう?」
アマテラスの問いかけにスサノオはこれまたわざとらしく考え込むふりをした。
「んーと、あれよ。トヨウケの結界は通り抜けるのがすごく面倒くさいんだ。一枚一枚丁寧に引き剥がしていく感じ。いつも通る時は予めトヨウケに連絡しておいて抜け道を作ってもらうんだけど、本当に面倒くさいんだ。でも、今日はいつもより結界そのものは異様に強いんだけど、雑。」
「雑……。」
アマテラスは思わずつぶやく。
「俺はトヨウケの結界の方が好きだな……兄上、その顔やめて。あと、相当気合入った結界だから、力も結構使っちゃってるでしょ? 俺がとやかく言うのはおかしいけれど、伊勢の神々の力をもっと借りた方がいいと思う。」
「貴重なご意見をありがとう、スサノオ。」
「それで、トヨウケは大丈夫なのか?」
「ひどい穢れをかぶって、今は動けない状況よ。変若水で禊をして、伊勢の女神たちが交代で看病してる。」
「結界は姉上だよね?」
「……そうね。ツクヨミが応急処置をしてくれて、さっき私が引き継いだ。」
「やっぱり兄上も関わっていたんだ。」
「スサノオ、トヨウケは本当に黄泉には来ていないんだな?」
「少なくとも根の国には来てないよ、兄上。来たら全力で引き止める。」
「ありがとな。」
「兄上もしっかりな。で、伊勢の結界を破るような奴は一体誰なんだ?」
アマテラスとツクヨミは顔を見合わせて黙り込んだ。
「俺も候補?」
「……残念ながらそうだ。」
「自分の立場はわかっているつもりだ。調べてもらって構わない。ただ、俺ではない。穢れをかぶって祟り神になっちゃいないし、荒れた記憶もない。伊勢への恨みも日本を壊すつもりもない。」
「スサノオ……。」
アマテラスは寂しげな目でスサノオを見つめた。
「わかっているよ。あれはスサノオの穢れじゃなかったと思う。ただ、兄として、お前が祟り神になった時は、どんな手段を使っても止める。」
「……ありがとう兄上。必ず止めてよ。」
3柱の神々はしばし何も話さずにいた。アマテラスは空を見上げ、ツクヨミは梢が落とす影を眺め、スサノオは社の柱の木目を目で追っていた。
「あ、忘れてた。嫁から差し入れで、お弁当あるけれど、食べる?」
スサノオが突然声を上げた。
「……そうね。ご飯にしましょう!クシナダさんのご飯、楽しみなのよねー。」
「こっちがおにぎりで、こっちがおかずかな。姉上も兄上も、トヨウケさんがいなくて食べてないんじゃないかって。」
「悔しいが、そのとおりだ。」
ツクヨミは静かに手を合わせた。
「いただこう。」
「いただきます!」
「クシナダ、いただきます!」
3柱の神々はおにぎりに次々と手を伸ばしていった。おにぎりは色とりどりのふりかけで飾られており、食べやすいよう小さく握られているのがまた可愛らしかった。
「そういえばスサノオ、スセリヒメたちが来てたんでしょう?」
「あれ、話したっ……ああ、インスタ?」
「そうそう、インスタ。クシナダさんとご飯したってお洒落なカフェの写真あがってたわ。あと、オオクニヌシのツイッター。」
「神もSNSからは逃れられなかったな。」
「ツクヨミは、もう少し公式アカウント動かしたほうがいいと思うよ。自分の神社の参拝時間だけ淡々と呟く……もはやbotじゃないの。このおにぎりおいしいわね!」
「なんだっけこれ。最近の朝飯によく出てくるやつなんだけど……。姉上はちょっと呟きすぎ。」
「ソンナコトナイワヨ。そういえば、オオクニヌシも来てたの?」
「ああ。スセリとオオナムチ、帰ってきてたぞ。」
「いい加減、仲良くしてあげなよ。」
「あんな奴に娘をやったこと、今でも割と後悔している。」
「あー、出た出た。めんどくさい親父ね。」
3柱の神々は、しばらく握り飯をむさぼるのに夢中になり、会話はしばらく途絶えた。どこかからか鳥のさえずりが聞こえ、それに返事を返すかのように小梢がささやく。虫の声に混ざって、参拝客の人間たちのざわめきも聞こえてきた。3柱の神々の元には、人間たちが心の奥底で願っている声も届いている。願いはいつも通り聞き受け、叶えるために手はずを整えていく。その作業を、最近の神々は「メールの仕分け」とか「とりあえず既読をつける」などと例えるらしい。
「で、伊勢の結界を破る犯人をどう調べる?」
スサノオは人差し指についた米粒まできっちり飲み込むと、静かに茶をすすり始めたツクヨミと、まだおにぎりを両手に抱えているアマテラスが一瞬だけ目くばせしあい、ツクヨミが静かに口を開いた。
「あれほどの穢れとなると、疑うべきは黄泉の者だ。」
「穢れは死、死は穢れ、か。となると、母上か?」
「当然、念頭に入れておくべきだ。」
「母上か。この間、黄泉の母上のところに遊びに行ったときには特に何もなかったけれどなぁ。」
「ええ、この間も父上と母上が伊勢に来たんだけれど、私も特に変だとは思わなかったわ。」
「確かに、特に何も言っていなかったな。」
「えっ、兄上って母上と話すの?」
「何言ってるの、スサノオ?」
「えっ、だって兄上が母上と話している姿、姉上は見たことあります?」
「ええ、伊勢で儀式があるときはツクヨミと一緒のことが多いし。」
「えー、想像つかない。」
「黄泉の者とは一緒に仕事をする機会もあるし、母上は黄泉津大神でもある。黄泉の入り口に一番近い根の国を管理しているお前と同じだ。」
「それは知ってるけどさ。兄上と母上ってあんまり仲良さそうにくだらない話をしている印象なかったからさぁ。」
スサノオはツクヨミの顔をまじまじと見つめた。兄神の顔はいつものように冷たい美しさをたたえていて、表情から本心を探ることはできそうになかった。(この顔を見て「あっ、今笑ってましたよね?」と言えるのはトヨウケしかいないことをアマテラスは知っている。)
「まぁいいや。でも俺はよくある「黄泉から穢れが漏れ出ただけ」とは思えないんだよなぁ。もっとやばい奴が動いている気がする。」
「妖怪か何かの類かしら?」
「いや、あれほどの穢れだ。神かもしれない。」
「神が……?」
ツクヨミの言葉に、アマテラスは言葉を失った。
「そう、神だ。それもかなりの力を持つ神だ。」
「姉上、俺も兄上と同じ意見だ。トヨウケほどの神が倒れ、変若水で禊をしても消え切らない穢れ。三貴子に並ぶほどの力を持つ神が裏で操っている可能性は否定できない。」
「……信じたくはないわね。」
「何かあって荒魂になっているならともかく、穢れにまみれて恨みつらみを抱えた祟り神にでもなっていたら困るな。腕が鳴るぜ。」
そう言ってスサノオはにやりと笑った。この荒ぶる英雄神は戦いや破壊を好む一面もあり、気合が入って荒ぶった戦闘モードこと荒魂状態の神々を押さえつける任務に喜んで志願する。たいていはその裏でツクヨミが動き、裏で起きていた闇深い事件を解決している。ちなみにスサノオに勝てる神はそう滅多にいないので、姉神と兄神は弟神のことを「普段が祟り神」と呼んでいる。
ちなみに、そんなスサノオは1度だけ「荒魂」を通り越して「祟り神」になったことがある。それが例の「父イザナギの命に従わず、母イザナミに会いたいと泣き叫び続けた」事件だ。当時はまだスサノオも幼かったので、スサノオが治めるはずだった大海
および地上の世界が荒れて大変なことになったくらいで済んでいる。名実ともに最強の力を持つ神と成長したスサノオが祟り神となった時の対策には、ツクヨミも密かに頭を抱えているのだ。(ツクヨミは、闇を管理するものとして祟り神対策も担っている。)
「そうねぇ。私たちと並ぶ力を持つ神となると、限られてくるわね。父上、母上、オオクニヌシ、……スサノオ、その十束剣をしまいなさい。」
「わかってるって、姉上……。俺が同じくらいの力だなと思うのは、カグツチの兄上かな。 鹿島のタケミカヅチと香取のフツヌシも武力だけで言ったらあなどれない。」
スサノオはやや残念そうに剣をしまいながら、ふと思い出したように続けた。
「外国の神々の影響も考えられないか? 最近、外国の神もよく日本に遊びに来るだろ?」
「このあいだの、世界太陽神の会で気になった話は聞かなかったわよ。」
「姉上、世界太陽神の会なんて行くんですか? あんなにアポロンがチャラくてうざいとか言っていたのに?」
スサノオは姉神の顔をわざわざ覗き込むようにしながら笑い転げて見せた。
「いい加減にしなさい、スサノオ。世界の神々との交流は重用よ。積極的に交流しなさいと他の神々に行っている以上、個人的な好みで誘いを断るわけにはいかないし。あんたこそ、世界どこか悪役みたいになっている神の会はどうだったの?」
「あ、それ? それこの間は中止。うちもスセリが帰ってきてたし、ロキも子供がどうこう言ってたし、じゃあ中止でって。そういえば、兄上はこの間の世界月の神の会は行った?」
「当然だ。」
「いいよなぁ。美人さん多いんでしょ?」
ツクヨミは冷たすぎる目で弟神を見つめた。
「スサノオ、月の女神たちは結構残酷よ。気を付けたほうがいいわ。特にアルテミスには近づいちゃだめよ。」
「はいはい、わかっていますよ。……まぁそこの線もちょっと考えておく。」
「しかし……調べようがないな。コトシロヌシからあれを借りてくるべきかもしれない。」
ツクヨミの言葉に、アマテラスとスサノオは驚いてスサノオの射干玉の瞳を見つめた。ざっと風が吹き、アマテラスの髪紐についた小さな勾玉や玉がきらめいた。スサノオの腰にごろごろとついた剣や勾玉も素朴な音を立てる。その刹那、ツクヨミの力で時間が歪められたと錯覚するほど、思い時が過ぎたのだった。
「コトシロヌシの、宣託の瞳か?」
スサノオが低い声でつぶやいた。
「そうだ。」
「あれは、人の子の力が必要になるわ。」
「生贄を探そう。」
「兄上、今は生贄になるような人間はいない!」
「トヨウケが……あのトヨウケが倒れたんだぞ?」
「わかってるよ、兄上。でもそれは兄上の個人的な情だろ? それに人の子を巻き込むのか?」
「情……? お前今何て言った? ただの情だと?」
ツクヨミの瞳の色が禍々しい黒に変わっていった。同時にツクヨミの体が黒い光に包まれていく。腕には不思議な文様が浮かび上がり始めた。古の人々が体に彫り込んでいた入れ墨によく似た文様だ。ツクヨミは荒魂と化していた。
それを見たスサノオはにやりと笑い、自ら荒魂と化していく。おさまりの悪い髪は荒れ狂う波のようにゆらぎ、腕の八岐大蛇の文様がゆっくりと鎌首を持ち上げる。
ツクヨミの手元には、黒い闇が浮かび上がった。闇の塊の中には、見えるはずのない星空がぞっとする美しさで広がっていた。スサノオの手元には水の渦が浮かび上がり、水しぶきと轟音を立てて弾けようとしていた。2柱の神は静かに構え、自らの力を兄弟にぶつけようと相手をにらみつけていた。
「ついに本気の兄上と戦える……!」
「荒ぶる英雄神とのお手合わせですか……!」
「いい加減にしなさい!」
次の瞬間、まばゆいばかりの光があたり一帯を真っ白に変えた。ようやく世界が色を取り戻した時には、ツクヨミもスサノオもいつもどおりの和魂に戻っていた。 ざっと風が吹き、ツクヨミの髪紐についた小さな勾玉や玉がきらめいた。スサノオの腰にごろごろとついた剣や勾玉も素朴な音を立てる。日本の総氏神にして太陽の女神、アマテラスの光が持つ浄化の力だった。
アマテラスは伊勢の結界の応急処置も片手間で担っているので、普段の半分ほどしか力を使えない。それでも、荒魂と化した最強の弟神たちをおさえるほどの力を発揮してみせたのだ。
「スサノオ、トヨウケは伊勢の結界を、つまり伊勢の結界を要にしている日本の結界を守る女神よ。そのトヨウケが倒れるなんて今までにない。いまこの国には何か危険が迫っている。ツクヨミが人の子の力を使わないと対処できないと判断したのなら、私はそれを信じる。いいわね?」
スサノオを静かに睨み付けていたアマテラスは、今度はツクヨミの射干玉の瞳を見つめた。
「ツクヨミ、コトシロヌシのところに行きましょう。ただし、私は二度と人の子に命を捧げさせない。それがたとえこの地を守るためでも。人の子の命を借りるなら、その子を必ず守る。いいわね?」
アマテラスはその場でゆっくりと体の向きを変えた。天を仰ぎ、それからゆっくりと舞を舞う。音もなく、歌もなく、まるで水の中で舞うかのようになめらかに体を動かした。
「伊勢の結界が強くなっていく……。」
スサノオは呆然と空を見上げた。
「結界を管理する力が、姉上から伊勢の神々に移っていく……姉上の光と共に……。」
ツクヨミは、決してこの手に入れることのできない光に触れようと手を伸ばしかけて、あまりの強さに手を引っ込めた。
「ツクヨミ、伊勢の結界の管理者を伊勢の神々に分割して移譲した。スサノオ、あなたの海の力で日本の結界そのものも強化しておいた。」
アマテラスはそう言って静かに振り返った。淡い光の中、女神は静かに微笑む。
「準備はできた。コトシロヌシのところへ行きましょう。」
いつも読んでくださる皆さん、ありがとうございます。
土曜日も日曜日も仕事で、先輩や同期が狂気の渦に巻き込まれています。
今回のタイトルの和歌は万葉集の安貴王の歌です。