天地の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を
ツクヨミが石段を登り終えて、白い幕をそっとまくって神域の中に入ると、アマテラスは巫女の衣装を着て何かを舞っていた。
巫女装束は、儀式のときの華やかなものではない。しかしよく体にあっていた。この国で巫女装束をここまで着こなすのは、この太陽の巫女たるアマテラスくらいだろう。セミロングの黒髪はひとつに束ねられていなかったが、乱れることなく風にそよぎ、艷やかな黒が日の光の元で不思議と輝いていた。頭に巻いた飾り紐の先には、小さな勾玉が光っている。それはツクヨミの勾玉と同じ光をたたえていた。
手には鈴の代わりに、自らに供えられた榊を持っていた。鈴のような華やかな音は鳴らなかったが、葉が風に揺れる音が不思議なほど神域に響き渡っている。凛と伸びた指先が動くたびに、場の空気が透明になっていく清々しさ。音楽も言葉もなく、ただ自らの舞だけで気を変えてしまう姉神の力に、ツクヨミは一瞬我を忘れて見惚れてしまった。
「浦安の舞ですか、姉上。」
アマテラスは舞をぴたりとやめ、ゆっくりと振り向いた。その動きですら、舞の一部であるかのように。
「ええ、そうよ。」
「なぜ、あの新しい舞を?」
「なぜかしらね。」
アマテラスは指先で榊の茎を弄びながら、社殿の入り口を指差した。
「スサノオが来るまでもう少しかかるかしら。まぁ、座ろう?」
入り口の段にアマテラスは腰掛け、榊をくるくると指先でまわしながら、そっと呟いた。
「あんたは大丈夫だったの?」
ツクヨミは黙って直衣の袖をまくった。ツクヨミの右腕には、薄っすらと痣が残っていた。
「変若水で禊をして、五十鈴川の中に浸かっても、まだ穢れが消えない。」
アマテラスは榊を両手で持つと、ツクヨミの右腕に向かって祓った。葉の音が神域に響く。痣は消えなかった。僅かに小さくなったような気がした程度の効果しかなかった。
「やっぱりだめか。」
「僕はまだいい。トヨウケはこれを全身に被っていた。」
「タクハタチヂから聞いたわ。」
アマテラスは手元の榊をじっと見つめて言った。
「ツクヨミ、ありがとね。」
「なんだよ急に。」
「伊勢の結界の応急処置。」
「トヨウケから結界のことを聞いてたから。それを思い出して咄嗟に自己流で塞いだ。トヨウケのほど丁寧なものじゃないから、長持ちはしないと思う。」
「結界のために、能力、どれくらい使ってる?」
ツクヨミはようやく入り口に腰掛けると、梢の合間から見える雲を眺めて少し考えた。
「あわせて半分くらい。ちょっと負担が大きいかも。」
「結界、引き継ぐよ。伊勢の結界は日本の結界にも関わるし。」
「他にもやるべきことがあるだろ。」
「ツクヨミの方が自由に動ける。結界の件はわたしが引き取るわ。」
「姉上、姉上の能力こそ温存しておくべきでは?」
「ツクヨミ、聞いて。」
アマテラスは、ツクヨミの目をじっと見つめた。事情をあまり知らない神々はアマテラスとツクヨミは正反対の姉弟だと噂していたが、実は2人は双子かと思うほどよく似ている。光をたたえた黒い瞳は、母イザナミから受け継いだ瞳だった。
「黄泉に探りを入れたい。」
「高天原は黄泉に、黄泉は高天原に干渉しないという掟を破るのですか?」
「その掟、どこかのバカ夫婦のせいでないようなもんじゃない。」
「そうだけどさ!一応あんた高天原の主でしょ。」
「あ、ツクヨミ今わたしのことあんたって!お姉さまでしょ!」
神様ですら超えられない壁というものがある。生と死だ。これは日本だけではない。圧倒的な信者数を誇るアブラハムの宗教の唯一神(日本の神々はまぎらわしいのでデウスと呼んでいる)でも曲げられないこの世界のルールだ。
"死者は黄泉(常世)の住民となる。生者は現世の住民となる。"
死者は黄泉に住み続けることもできるが、現世に転生することもできる。黄泉の国では永遠の時を過ごすことができるが、変化はない。だから、魂の成長を求めて多くの死者は転生を希望する。
再び現世に生まれるとき、黄泉や「前世」の記憶は一時的に失うが、完全に失われるわけではない。転生した後も、記憶としてその存在の影のようなものはアーカイブされてはいる。つまり、すでに転生してしまったご先祖様にまた会うことはできるのだ。
ちなみに、死者も現世にいくつかの方法や条件のもと現れることができる。いわゆる幽霊という存在だ。お盆やお正月などの時期や、子孫や関係者のもとには表行きやすい。夢などに現れる方法も知られている。
ただし基本的に生きているものには触れることができない。また生者に見えないことも多い。霊感のある人には見えるし会話もできるが、やはり触れられない。
また長時間現世に居続けていることはできない。できなくはないが、疲労感が伴ったり、精神を病んだりしてしまう可能性が高く、とても居続けられないのだ。
一応生者も黄泉に行くことはできる。しかし、いわゆる臨死体験になるので、下手するとそのまま死んでしまうのだ。
滅多にないことだが、神も死ぬと常世の住民となり、同じルールが適用される。火の神カグヅチを生んで死んだイザナミなどはこちらに分類されることになる。イザナミは今は黄泉の女王として黄泉の国を管轄していた。
ただし多くの黄泉の神々は、現世でも信仰の対象となっているため、神は生者とほぼ同じように現世で過ごすことができる。
ただし生死の境を出入りすることは穢れ伴うため、頻繁に出入りすることは避けたほうがいいというのが暗黙の了解だ。とてつもない疲労感や能力の低下に襲われるため、ほとんどの神々は黄泉と現世を行き来しなかった。
つまりこの世界はざっくり、「この世・あの世」と「神の世界・人間の世界」に分かれている。この世の神の世界が高天原で、あの世の神の世界が黄泉。この世の人間の世界が現実世界で、あの世の人間の世界がいわゆる天国。
このルールは厳格なようで曖昧、曖昧なようで厳格に守られ続けてきたのだ。
「……今回の件、おそらく何か大きな存在が動いているはずだ。現世であれば私たちである程度把握できるが、黄泉はそうはいかない。黄泉が関わっている可能性は高いと私は思っている。」
「同感です、姉上。そうなると。」
「ええ。スサノオが敵と通じている可能性も考えないと。」
「あの子は母上を慕っているし、母上と父上から黄泉と現世の狭間にある根の国を与えられた。自然、黄泉とも近くなる。」
「まあ、あの子に限ってそんなことはないと思うけれど、一応可能性は想定しておいて。」
アマテラスの言葉に、ツクヨミは静かに頷いた。
「ツクヨミ、伊勢の結界、私が引き継いで、伊勢の神々と分担するわ。ちょうだい。」
「ごめん。助かる。」
2柱の神々は、静かに力の受け渡しを始めた。と言っても、見た目に特段変化は見られない。
そもそも神とは、世を作った絶対的な力を持つ存在であると同時に人間によって生み出されたものだ。
人間が信仰しているからこそ存在できるし、力も持てる。逆に信仰されなくなると消えてしまう。
インターネットのように、目には見えないが、確かに存在するものとも言える。
実は神々の力は21世紀のインターネットやコンピューター、AIなんかに例えることができてしまう。(実は世界中の神々が「説明が楽になった!」とネット社会に大喜びなのだ。)
神々の能力は、電波に乗ったデータのようなものだと想像してもらえればわかりやすい。御神体やお札がサーバーやパソコンやスマホで、クラウドサービスのように世界中どこでもアクセス可能らしい。
このときの2柱はまさに「送信中」「受信中」といったところか。
「あれ、ここの結界は……もしかして、時間いじった?」
「あ、そう。急いでたから、トヨウケみたいに何重にもパターンがかぶらないように丁寧に結界をはれなくて。」
「うーん、うまく引き継げるかな?」
アマテラスは額のあたりに手をあてて何か悩むような仕草をした。というのも、最高神たるアマテラスですら使えない力というものもあるからだ。
ツクヨミは夜を支配する神。夜が司る「闇」「月」「星」そしてそれらが司る「暦」「時」などもツクヨミに連なる力だ。特に「闇」を動かせる力と、「時」を操る力は、他の神々には真似できないものである。
「姉上のやりやすいように変えてもらって構わないよ」
「うーん、いい結界だからそのままにしておきたいんだよなぁ。」
アマテラスは鼻から大きく息を吸い込んだ。
「こんなかんじ?」
「そうそう、ちょっと前に押し出す感じ、わかる?」
「あー、だめ、時間のズレが元に戻っていくわ。」
アマテラスがため息をついた瞬間、伊勢の結界に光が走った。
「姉上、力技すぎません?」
ツクヨミは光が走った上空を睨んで言った。アマテラスは太陽の女神。「光」を扱う力は誰にも負けない。そして光は目立つのだ。
「時間のずれの痕跡まで消しといたわ。ちょっと残念。でも伊勢の結界にあなたが関わった証拠はもうないわ。あたしとトヨウケが話さない限りね。」
「わざとだよね?」
「まあね。光が目立てば、闇は隠れる。ツクヨミ、スサノオの件、頼むわね。」
「わかっております。」
ツクヨミがわざとらしく頭を下げたその時、ガラスが割れるようなけたたましい音が神域に鳴り響いた。
「ったく、あのバカ!」
ツクヨミが珍しく大声をあげた瞬間、水しぶきと共にひとりの若者が姿を現した。
黒髪は好き放題に跳ね上がっていて、申し訳ていどに紐でおさえつけている。安物の勾玉をやたらつけ、正装の直衣どころか、古の人々が農作業をするときの麻の服ほうがまだましと思えるほどの姿。腰には大きな太刀。それでも目を離せない圧倒的な存在感。
荒ぶる英雄神にして、三貴子の末っ子。須佐之男命が、伊勢の神域に立っていた。




