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千早ぶる神様と過ごした私の話  作者: さうざん
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ぬばたまの、夜渡る月の、さやけくは、よく見てましを、君が姿を

「はぁ、はぁ……。」


夜明け前の、東の空が薄明るくなっていく時。伊勢の外宮の正殿の前に、一人の女神が息を切らして立ちすくんだ。この社の主である豊受大御神トヨウケノオオミカミだ。


正確に言うと、神としての名前は豊宇気毘売トヨウケビメ神という。神とはいえ、見た目はまるで大学生くらいの若い見習の巫女といったいでたちだ。黒くて長い髪は低い位置で団子のように結び、そこには花の飾りのついた髪留めがついていた。月下美人の花を模した飾りで、豊穣の女神であるトヨウケが、個人プライベートで一番大切にしているものだ。


実は、トヨウケは昼間、何もすることがなければ、一般の人々のような服装をして伊勢を散策するのを趣味にしていて、楽しみにしていた。伊勢名物や門前町の散策を、いろいろなチェックも兼ねてすることもあれば、コンビニスイーツを買い込んでいることもある。服装は現代の若者の流行に合わせているが、この月下美人の髪飾りだけは、修理しながら愛用し続けた。トヨウケが誰よりも愛しいと感じている神からの贈り物だったからだ。外宮の関係者でその事実を知っているものは、月下美人の花の髪飾りを付けた若い女の子が、嬉しそうにスーパーやコンビニの袋を抱えて歩いている姿や、その後にどこからか漂ってくるおいしそうなにおいに、思わず口角をあげてしまうのだった。


その普段は穏やかなはずの薄明るい空に、今朝は雨雲のような黒々とした何かが漂っていた。トヨウケはそれを睨み付ける。


「な、なんなの……あれは!?」


黒々とした何かは、雫を絞り出すかのようにぎゅっと集まった。ごわごわとした音があたりに響き渡る。


「伊勢の結界が危ないかもしれない……!」


トヨウケは息をのんだ。伊勢の結界が破れることは、伊勢を要にしている日本の結界が破れるも同義だ。それは日本の最高神である天照大御神アマテラスオオミカミの住まいであり、それゆえに日本を守る結界の要となっている伊勢の神域が穢れることになる。


漆黒の空から、絞り出されるように何かが落ちてきた。重たく、暗く、冷たいものが、音もなく静かに迫ってくる。トヨウケは、冷たく澄んだ息を思いっきり吸い込んで、手を空に向けた。祓詞を静かに、それでもよく通る声で唱える。


「掛介麻久母畏伎伊邪那岐大神筑紫乃(カケマクモカシコキイザナギノオホカミツクシノ)……」


黒い雫を包み込み、追い返すようにトヨウケの手から暖かな黄色の光が広がった。稲穂の色のような、新緑の色のような、そして月の光のような、静かで暖かな光だった。黒い雫はゆっくりと元に戻っていった。


(なんとか、私の手で守り切れそう。)


トヨウケはそう思った。続けて祓詞を唱えようとした瞬間、重い鈍痛がトヨウケの腕を襲った。黒い雫が割れ、中から黒くて禍々しい何かが零れ落ちる。


「これは、穢れっ!?」


祓詞も悲鳴も上げる間もなく、トヨウケは禍々しい穢れに体を捕らわれた。バランスを崩して倒れたトヨウケの力がみるみる奪われていく。立ち上がることもできなくなり、息をするのもつらくなり、意識がもうろうとした。その時、弱っていくトヨウケの目に、沈みゆく月の姿が映った。


「……助けて。」


その時、トヨウケは頭に暖かい何かを感じた。髪につけた月下美人の花の髪飾りがぼんやりと光り、静かで暖かな月の光がトヨウケを包んだ。穢れの禍々しさが、一瞬だけ弱まった。


「伊勢は、このトヨウケが、必ず……!」


トヨウケは右手を伸ばして叫んだ。トヨウケの体から絞り出すように光があふれる。その光に禍々しい黒い穢れが吹き飛ばされた。続いて、伊勢の結界が再び元に戻っていく。まるで傷跡がかさぶたでふさがっていくように。


しかし、この伊勢の守り神はもういつものように凛として立っていなかった。女神の右手はぽとりと地面に落ち、女神から光が消え、トヨウケの体には穢れが黒い痣となって浮かび上がった。


「ツクヨミさま……どうか……たすけ……て。」


「トヨウケ!」


一陣の夜風をまとって、月光をまとった男神が姿を現した。夜空のような黒と紺の直衣のような衣を身にまとい、射干玉に輝く黒髪は複雑にまとめられ、風に揺れている。不思議な文様の描かれた仮面が、ぞっとする整った顔の右半分を覆っていた。日本という国とその神々の多くの父母である伊弉諾尊イザナギノミコト伊邪那美尊イザナミノミコトの間に生まれた子どもたちの中でもっとも貴いといわれた三貴子、最高神アマテラスの弟にして、月と暦の男神、そして夜の世界を支配する神、月読命ツクヨミノミコトだ。


「トヨウケ!」


ツクヨミは仮面をはぎ取り、トヨウケの元に駆け寄った。トヨウケの体に触れたとたん、その穢れがツクヨミに反応する。トヨウケを抱えた右の腕に黒い痣がゆっくりと浮かんだ。激痛が走る。それでもツクヨミはトヨウケを抱きしめた。


「なぜ、なぜ逃げなかったんだ……。なぜ、俺は……!」


月の神の慟哭が、ゆっくりと開けていく夜空に響いた。










「……ツクヨミ様。」


朝。境内からは既に人の声がする。参拝客が早くも訪れているようだ。だが正殿の前で倒れたままのトヨウケとツクヨミの姿は参拝客からは見えないようになっている。それでも真後ろから声をかけてくる者は、神しかいない。


「タクハタチヂか。」


栲幡千千姫命タクハタチヂヒメノミコトという女神が立っていた。彼女は織物と安産の神で、正式な名は万幡豊秋津姫命 (ヨロヅハタトヨアキツヒメノミコト)と言い、アマテラスの息子である天忍穂耳命アメノオシホミミと結婚して、天火明命アメノホアカリ瓊瓊杵尊ニニギノミコトという神を生んだ。また、アマテラスのそばに仕える役割も担っている。ツクヨミから見れば、タクハタチヂは姉の息子の嫁かつ姉の忠実な秘書、といったところだ。


「アマテラス様のご命令で伺いました。」


「そうか。」


「アマテラス様は、ツクヨミ様に、直ちに禊をして内宮に来るようにと、おっしゃっています。」


「そうだろうな。」


ツクヨミは放心状態でつぶやいた。姉が何を考えているのか、手に取るように分かったが、今はそれに従いたくない気持ちがした。


「それから、根の国にいらっしゃる弟君のスサノオ様からも。あの世とこの世の境目である黄泉平坂ヨモツヒラサカに、トヨウケ様は来られていないそうですよ。ですから……。」


あいつらしい、とツクヨミは思った。随分遠慮のない伝言だが、それでもトヨウケがまだ死に至っていない、つまり本当に最悪の状態にはまだなっていないことを的確に伝えてきた。姉弟の言葉を聞いて、ツクヨミはいつもの冷静な自分を取り戻しつつあった。


「そうだな……。タクハタチヂ、すぐに禊の支度を整え、トヨウケの穢れをできる限り払ってくれ。できる限りでいい。そのあとは外宮の正殿で静かに寝かせてやってくれないか?」


「もちろんです。そのために参りましたから。」


「頼んだ。」


タクハタチヂは、穢れが自分に移らないように、聖域で丹念に清められた布にトヨウケをくるむように抱え上げた。タクハタチヂは神通力を使用していたものの、それでも女神がやすやすと抱えられるほど、トヨウケの小さな体は弱っていた。


ツクヨミは、そのトヨウケの顔を一瞥すると、黒い直衣の裾を翻して後ろを向いた。一瞬こぼれ落ちそうになった涙は、誰にも知られないようにこらえた。


「あの、ツクヨミ様。」


「ん?」


「ツクヨミ様はどちらに?」


「まず自分の社に戻って、変若水オチミズで禊をする。禊をしないと、内宮に足を踏み入れた瞬間にアメノタヂカラオに投げ飛ばされるからな。」


「失礼ですが、変若水を使うほどではないのではないでしょうか。あれはツクヨミ様をはじめとする神々が力を込めて作った神の水、貴重なものでしょう?」


「ああ、そうさ。でも、伊勢の守り神たるトヨウケすら破られた。油断はできない。」


「……はい。」


「そうだ、タクハタチヂ。トヨウケも変若水をいくらか持っている。あとでいくらでも補充するから、禊にふんだんに使ってください。」


「わかりました。ツクヨミ様もお気をつけて。」


ツクヨミは頷くと、瞬時にその姿を消した。あとに残されたのは、朝には似合わない生ぬるい夜風だけだった。


「アマテラス様が全幅の信頼を寄せるトヨウケ様が、意識を失うほどの穢れ……、そんなもの、この日本で誰が?」


タクハタチヂは正殿に向かって歩く。風がさっと吹き、禊の準備が次々と整っていく。


「まさか……そんなことないわよね。」


タクハタチヂは、胸に沸いた想いを振り切った。今はトヨウケの穢れを払うことが最優先である。







書きたかったので書きました。

ゆるゆると書いていきたいと思います。

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