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欲情ハニィに溶かされて。

恋情ハニィに溶かされて。

作者: 梶原ちな




「ほら、はやく」


近づく影と甘ったるいにおい。

その息遣いがやたら耳に響くのは、気のせいなんかじゃない。


「そのかわいい口をあけて」


椅子が軋んで、声と重なる。

片手で座席部分を押さえ込まれているから、後に下がることもできない。


「食べさせてくださいって、オレにオネダリしてよ」


これこそまさに絶体絶命。

詰められた距離と意味深な言葉に、呼吸さえも奪われる。


「――お、おおお菓子くらいふつーに食べさせてくださいいいいい!!」


あたしの口から溢れ出た絶叫は、放課後の保健室に響き渡った。






「うっわー、ムダにエロいんですけど。オネダリとかヤバすぎ。引くわ」

「他の女の子なら間違いないのにねー。あたしでよければオネダリしたげよっか?」

「長田さん声でかいって。先生が会議だからいいようなものの」

「よーしよし。だれもオレらのことなんて気にしてねーから、ハイ、あーんしような」


問答無用で近づけられる棒型の某チョコレート菓子。


だからなんで、コレを彼から食べさせられないといけないのか。

というか、みんなあきらかにこっちを見ているんですけど。気まずいことこの上ないんですけど。


「あゆのあの顔、マジでいやがってんじゃん! ウケるー!」

「んなことねーよ! あれ、いまため息ついた!? あゆ、ため息ついただろー!」


そもそも、保健室の魔女――もとい保健医のナカちゃんに会議中の留守番を頼まれただけだというのに、なぜこの無関係なひとたちまでここにいるのだろうか。

考えてもしかたないけれど、ため息をつく権利くらいほしいものだ。



保健室のドアを入ってすぐ、いつもの中央テーブルに腰を落ち着ければ。

さも当然のように右側にあの彼が、そして左側にこの彼が。


正面には友だち――になったばかりのクラスメイトふたりが座っていて、面白おかしくあたしとその両隣を見ている。


ついこのあいだまでひとりきりだったこの席は、いつの間にかこんな有様だ。


平凡、平穏、平和。そしてほんの少し退屈で。

ただ目の前を過ぎ去っていくだけだった、いとおしい日常。


それが一変してしまったのは。

この彼――村田孝也のせいに他ならない。


「あのー、自分で食べるんで、そういうのは結構です……」

「だー! それじゃ意味ねーの! 今日はバレンタインだろ!? すきなひとに気持ちを伝える日だろ!? オレはちゃんとこの気持ちをあゆに受け取ってもらいてーの!」


いやいやいや。もうそのお気持ちは正直十分なほど伝わってるし、そもそも女子が男子にあげるほうが一般的なのでは? 


なんていうあたしの真っ当な意見が彼に通じるわけもなく。


「受け取って、くれるよな」

「む、村田、くん!?」


とっさに作った両手ガードはあっさり壊されて、一瞬にして絡めとられた。至近距離で見る天下無敵のベビーフェイスはいまだ健在で、身動き取れないこの手をその眼前へと運んでいく。


目が、合った。

大きな黒い瞳が特徴の子犬のような彼の目は、いつだってこの胸を跳ね上がらせる。


「顔、まっか。ちょーかわいい」


指先に落とされた小さな熱と軽いリップ音。

とろけてしまいそうなその声に、これまで何人の女の子が落とされてきたんだろう。


ムラムラの村田。

そんなバカみたいな名前で呼ばれていた校内きっての有名人。


どうしてあたしなんかを。

そんな自問自答は、これまで幾度も繰り返してきた――だけど。


「あゆ」


なにもなかったこの日常に、特別なものをくれたのは。

間違いなくこのひとだった。


「だいすきだよ」

「っ、!」


いつもの睦言をスルーすることができなくて、反射的に身体が逃げた。

そのとたん椅子から崩れ落ちそうになって思わず目をつむると、背後からふわりと大きななにかに包まれる。


「っと、危ないな」


背中から伝わる体温と、腰に回された腕。

同じ保健委員の彼――岡崎大地に受け止められたのだという事実を知って、触れられている部分に変な熱を持つ。


村田くんと双璧をなす彼は、有名かつ優秀な生徒の手本であり、先生方の期待を一身に背負っている人間である。


――にもかかわらず、実のところなぜかあたしを必要以上に構ってはからかい面白がるという、性悪な笑い上戸だったりする。


「あ、りがと、……ん、んん?」


速やかに迅速に俊敏に、ともかくさっさと体を起こして距離をとろうとしたものの、がっちりと腰まわりが固定されていて身動きが取れない。


それに、なんとなく抱き寄せられているような。

顔の位置がやたら近いような。


「あのー、離していただきたい、んですが!?」

「……保健室ではお静かに、だろ? 長田さん」


耳朶をふるわす低音ボイスは、あたしから逃げる力を奪っていく。

抵抗とばかりに腰に回された手をぺちぺちと叩いてやれば、こぼれるような笑い声が降ってきた。


なにがそんなに面白いのか。

この男は、ほんとうに理解できない。


「大地ぃー、もう手放していいぞ! あゆー、こっちおいで」

「妬いてるのか、孝也。男なら多少の余裕を持ったほうがいいと思うけどな」

「……そっちにはいかないし、いい加減離してほしいんですけど」


腰を押さえられ、手を引っ張られ、逃げることも動くこともできずに前後から挟まれて、これはなんの拷問なのか。

あたしがいったいなにをしたというのか。


「ほらほら、あゆ。そんなのほっといて、こっち向いて。はい、あーんして。あたしからなら食べてくれるっしょ?」

「ここですかさず先手を取るみちるってば、ホント抜け目なしだね。で、このいちゃいちゃはいつまで見ていればいいの? 新手の嫌がらせ? 空気読んでさっさと帰れってことなの?」


いやいや、嫌がらせされているのはどう見てもあたしのほうです。

ってか、いちゃいちゃってなんだ。そんなの一ミリたりともしていないんですが。


にこやかに微笑んでいるはずなのに目が笑っていない岩槻さんの誤解を解く間もなく、さらに片岡さんにぐいぐいと真横から突き出される某チョコレート菓子。


ああ、なんだろうこのカオス。

ここは静かで穏やかな心落ち着く場所だったはずなのに。


これはきっと、バレンタインという名の企業戦術に踊らされたリア充の恋愛行事――あたしには縁もゆかりも無い予定だったイベントせいだ。

うん、きっとそうに違いない。


「ずっりぃぃぃぞ、ミチル! あゆのあーんは、オレがいちばんに!」

「うっさい! あたしはね、あんたとあゆについて認めた覚えはないんだかんね! それに、うちらはもうあゆにチョコもらってるし?」

「ちょ、片岡さん……!」

「手作りでがんばったんだもんね。ラッピングもかわいかったし。ってことは、あれー? ふたりはまだもらってないんだ? そっかあ、残念だね?」

「い、岩槻さん!!」


ここで突然の爆弾投下。

保健室の空気、というより前後の男子共の空気が一変する。


「あゆ」

「長田さん」


呼ばれた名前に妙な含みを感じて、思わずごくりと飲み下すなにか。


ちょっと待て。

あたしが悪いといわんばかりのこの状況はいったいなんなんだ。


「いまのハナシ、くわしく聞かせてもらおーか!」

「俺も聞かせてもらいたいんだけど、どういうことかな」


なにこの迫力。

顔が整ったひと達の凄みは、やっぱり一味も二味も違うな――なんてそんなのんきなことを考えてる場合じゃない。


「その、ふたりは他にたくさんもらえるわけでしょ? だったらあたしのは、」

「オレ、今年のぜんぶ断ってっから! あゆのだけでいい!」

「孝也と一緒にしないでほしいなあ。俺はそんなに人気があるわけじゃないんだよ」


ぜんぶ断った? 人気がない?

何を口走っているんだこの二人組は。


校内のガチ恋女子勢が、いまの発言ひとつでどれだけ傷つくのか考えたことがあるのだろうか。でもって、その矛先があたしに向けられるのをちゃんと理解しているのだろうか。実に迷惑千万である。


「で、オレの分はあるの? ないの?」

「はっきりしてもらおうか、長田さん?」


ふたつの影に迫られて、言葉につまる。

ない、わけじゃない。あることにはある。確かに。


ここまで引っ張ってしまったのは意図的なものではなくて、タイミングが合わなかった。そう、そのひとことに尽きるのだ。


実際、渡す機会がなかったわけじゃない。

朝、昼休み、そして放課後と、少なくても一日三回はこのひとたちの尊いお顔を拝むことになっている。


『じゃあ、俺たちとずっといっしょにいようよ』


あのときの一方的な約束は今もまだ忠実に守られていて、それに対してはうれしいようなくすぐったいような、不可思議な思いに駆られることが多々ある。


だから、それについてのお礼とか感謝とか、そういう名目にしてしまえばカドも立たないはずだし、他の女子から目を付けられる心配もない。


そうしよう、それでいこう。

いわゆる義理チョコ。ちょっとがんばって友チョコ。そんな感じで気軽に渡せばいい。


何度もそう思った。だけど、情けないことに指がふるえた。

指だけじゃない。何もかもがこの胸に巣食う臆病虫と連動して、この手の動きを止めてしまったのだ。


「……は、離して」


これはチャンスだ。そう思うしかない。


いっぱいもらっているだろうから、あたしのなんて必要ない、とか。

調子にのってこんなの用意してばかみたい、とか。

手作りなんて重すぎたかも、とか。


自分に言い訳するのは、もうたくさんだ。


緩んだ腕から抜け出して、足元にあったカバンを引っつかむ。

顔が熱くて、目が回って、頭が沸騰して、きっと正常じゃない。


それでもめいいっぱいこの微妙な空気を吸い込んで、吐き出すのと同時に青と紫の不織布を掴み取った。


「べ、べべつに、意味とかなくて、ふだんお世話になってるというかしてるというか! とにかくそういうかんじだから! その、」


青に包まれたケースを右側に。

紫に入れ込んだ小箱を左側に。


顔も見ないで乱暴に押し付けた。中身がどうなろうと知ったこっちゃない。

要は渡すか渡さないか、あたしのミッションはそれだけなのだから。


「いつも、ありがと、……みたいな気持ちなので! っ、はい以上! じゃ、あたしはこれで! 用事があったような気がするようなしないような感じだから! 今日はもう先に帰っててください!」


あまりのいたたまれなさとこみ上げる羞恥に耐え切れず、席を立つ。

保健室のドアから廊下へ駆け抜けるまでのタイムは、これまでにない記録を叩き出したんじゃないだろうか。


よし、渡した。渡せた。ミッションコンプリート。

とりあえず自分を褒めたたえたい。よく、がんばった。いやマジで。


止まることを知らない足。加速する、なにか。


おかしな音を鳴らしつづけるポンコツな心臓はいまにも弾け飛んでしまいそうで、冷え切った真冬の廊下の寒さなんて感じる余裕すらなかった。






*** **






「ああああ、……あしたから、どんな顔して会えばいいのやら」


とりあえず、近くの階段下に身を潜めたものの。

さっきまでの勢いはどこへやら、だだ下がりしたテンションで回想しては思わず頭を抱えてしまった。


なんでこうもっと、スマートにできなかったのか。

せめて、乱暴に押しつけた例の中身が無事であることを祈るばかりだ。


「はあ……」


正直、なんてことはないのだ。

こうやって恥ずかしがっているのはあたしばかりだろうし、いつもどおりにしていればいいのはわかる。


問題は――そう自分自身なのだ。


あたしのことだから変に意識してしまって、ふたりの気遣いも台無しにしてしまう恐れがある。以前みたいに逃げ回ったりしそうな気さえする。それが、こわい。


ああ、ばかだ。下駄箱とか机の中とか、最終手段で片岡岩槻ペアにお願いするとか、あらかじめある程度の目処はつけていたというのに。


「どうして、……顔みたいとか、思ったんだろ」


喜ぶ顔が見たかった――なんて、自分の傲慢さにあきれ返る。

親にからかわれて作ったチョコも、本を開いてネットで探して試行錯誤したラッピングも、どんなふうに受け取ってくれるのか、ほんとうは見てみたかった。


大きく吐き出されたため息が白くけぶって視界をかすませていく。

寝不足の上、これ以上冷えたら風邪でも引いてしまいそうだ。


そうか、あした休むのも手か。

そんなくだらないことを考えていると長く伸びる影がひとつ、目の端に映った。


「みーっけた。さっすがオレセンサーだな!」


聞こえてきたのはあの特徴的なハニーボイスと珍妙な発言。

そこには、満面の笑みであたしを指差す村田くんの姿があった。


「え、ななな、なん」

「ばっかだなー、あゆは。まあそこがかわいいんだけどさ」


近づいてきた彼があたしと同じ目線になるように屈んで、この髪を撫でいく。


その外見に不似合いな、大きくて骨ばった男のひとの手。

その指が触れた場所から、次々と熱を散らしていく。


「ぶっちゃけ、もらえるって思ってなかった。コレ、ありがと」


差し出された、青。

さっきまで、カバンの奥底で眠りについていたあたしの気持ち。


ちゃんと受け取ってもらえたんだ。

なんていまさらな実感がこみ上げてきて、少しだけ心臓が音を立てた。


「あけていい?」


内緒話をするみたいに耳元でそう聞かれて、返事ができずに頭を動かした。

やった、と彼が小さくはしゃいで、やわらかな青を丁寧に開いていく。


解き放たれた青の箱のふたを持ち上げて見えたのは、アラザンやココア、カラーペンに彩られたカタチのイビツなトリュフ。


一晩置いて、冷静に見るとやっぱり恥ずかしい。

もう少しなんとかすればよかった、なんて今更な後悔がこみ上げてくる。


「ヤバい、うれしすぎる。手作りなんだろ? すっげえ」

「そんな、おおげさな」

「あゆにはぜってーわかんねーよ。すきな子からもらうチョコがどんくらいうれしいかなんて」


すきな子。

そんな特別な響きの言葉が、妙に胸をざわつかせてあたしを落ち着かなくさせる。


きょうは、ほんとうにどうしてしまったんだろう。

いつもはカンタンに受け流せる言葉がどこかで詰まってしまって、呼吸がくるしい。


「あゆにあーんするのはあきめるから、オレにこのチョコ食べさせてよ」

「なっ、なんであたしが、」

「あゆの手はオレのモノなんだから。オレがすきにしたっていーだろ?」


彼が所有権を主張するあたしの右手が、強引に奪われる。


「コレだけでガマンしてるんだし、バレンタインだし、ごほーびだと思ってさ」


だからなんで、あたしがそんなことしなきゃいけないんだ。

というお決まりのセリフは、指に落とされたくちびるのせいで飲み下してしまった。


「オレとしては、口移しでもいいんだけど」


手の甲に触れるか触れないかの位置でささやかれた甘い音は、皮膚をとおして中へ押し入りあたしのどこかをゆるゆると溶かしていく。


子犬のような黒くて大きな瞳が。

子どもみたいだった無邪気な笑顔が、違うものへと変化していく。


ここで従うのがだめなのに。

わかっているのに、指先は自然と彼の手を離れて箱へと向かう。


摘み取った球形を持ち上げると、彼が満足そうに目を細めてあたしの指を迎え入れた。


「……っ、や!」


それだけで終わりだと思っていたのに。

ぬるりと生温かいものが逃げ遅れた指先を這って、小さく齧りつく。


びりりと走った痛みに思わず声をあげると、また舐めあげられては軽く吸いついて齧りつかれた。


腕を引いてもびくともしなくて、足に力が入らなくなって、逃げられずに座り込む。

それでも許してもらえなくて、ゆっくりとあたしを飲みこんでいく大きな影。


「い、っ……、」


指先からてのひらに甘噛みされたと思えば、突き刺さるような痛みが走った。

それも何度も。


消えないものを刻むように、無数の跡が赤くぬめっては熟れた深紅の口内へと押しやられる。凍りつく床に、彼から溢れた甘い雫が点々と落ちていく。


熱を帯びた目が爛々と、あたしをその黒の虹彩へ引きずり込む。

濡れた赤いくちびるが、牙を剥いて近づいてくる。


食べられる。

このひとに。


そんな考えが頭をもたげた瞬間、とっさに目の前の体に身を寄せて顔を押しつけた。

逃げ道がないのなら、恥を忍んででもここにすがるほかない。そう思った。


「――あゆ?」

「むら、たく、ん……、ま、って。ストップ、っ!」


なんとか喉から搾り出した声が、獰猛な子犬に待てをかける。


てのひらを伝って、制服のソデに入り込む雫のつめたさと彼の吐息の熱。

その欲にあてられて力の抜けた身体が、搔き抱かれて呼吸が止まる。


「ああああ、もー! またおあずけかよ! 次はぜってー途中でやめたりしないからな! あー、ガマンガマンガマンしろ、オレ」


いやいや、あたしにだって拒否権というものがあるわけで。

そんなツッコミが口をつく前に、さらに強く抱きしめられて閉じ込められた。


「なあ、あゆ。……このチョコはトクベツだって、そう思ってもいーよな?」


そう耳元で問われたものに、彼が溶かしてしまったあたしの一部がうねりを上げてめぐりめぐる。


いっしょうけんめい作ったのは、間違いない。

クラスで配ったブラウニーとは、違うものだし。

ラッピングが終わったとき村田くんの顔が思い浮かんだのは、事実だから。


だから、この答えはウソじゃない。


「――――、」


彼にしか聞こえないくらいの、そんなささやき未満の声で返答すると、どこか泣きそうな情けない声が耳をかすめていった。


じんじんする手はつめたいし、顔は痛いくらい熱いし、鼓動はやかましいし、苦しくて窒息しそうだったけど、その言葉があまりにもあたしを満たしていくから。


しかたなくもう少しだけ、そのままでいることにした。






「あれ、長田さんひとり? 孝也は?」

「汚した、……汚れてた床を掃除して、ると思うよ」


保健室のドアをそろりと開けると、中にいたのは岡崎くんただひとり。

足元の荷物を見るにあのふたりはもう帰ってしまったらしい。


この男とふたりきりになるくらいだったら、村田くんといっしょに戻ってくればよかった――なんて考えが頭をよぎったけれど、それはそれでなんだか気恥ずかしくて無理だったと思う。


「うちの駄犬がなにか粗相をしたのかな?」


何もかもお見通しだといわんばかりの、そのにやけ面が憎らしくてたまらない。

口の端に浮かんでいる意地悪な笑みを殴ってやりたい衝動に駆られたけれど、ここはぐっとこらえることにした。


ここで相手のペースにのってはならない。それこそまさに思うツボってやつだ。

冷静になろう、そうしよう。


そんな彼をさっさと無視して保健室の奥、衝立の向こう側の流し台まで歩を進める。


じんじんと痛みを放つ、甘くべたついた手を一刻もはやく洗って、さっきのことはもう水に流してしまいたい。できれば記憶ごと消去してもらいたい。


『だって、あゆの手はオレのモノなんだから』


噛み跡だらけの右手はその言葉どおり彼のものなのだとあたしに見せつけて、このココロを掻き乱す。蛇口をひねって流れ出すつめたい水が痺れる指先と思考を沈めて、このまま忘れさせてくれればいいのに。


流水の向こうに薄れていく彼の赤。ほっと胸を撫で下ろした――のが運のツキだった。

もう一度繰り返す。これが、運のツキだった。


「ずいぶんと酷く噛み付かれたみたいだね」


真後ろから聞こえた低音が、その長い指先を蛇口に伸ばして水を止めてしまう。

噛み跡だらけの右手に妙な視線を感じて、勢いよくスカートの影にそれを隠した。


「だ、大丈夫、いつもの悪ふざけだし。それよりもう帰ろうよ! ナカちゃんにはメモ残しておくから」

「そうだな。ここのところ日が暮れるのが早いからね。長田さん、送っていくよ」

「いえ、けっこうです」


後に逃げられないなら横から脱出するのみ、と足をカニのごとく動かして衝立の向こう側に生還を果たす。さっさとメモを書いてしまおう、とテーブルに歩み寄ればそこには、あたしが押し付けたあの紫の包みが開かれてあった。


これ見よがしなアピールに、うっ、とペンを持つ手が止まる。

乱暴に押し付けたわりにカタチは保っていたようで安心したけど、なんでわざわざここに広げておくんだこの男は。


「ああ、長田さんどうもありがとう。うっかり開いたままだったよ」


ウソつけ。絶対わざとだろうが。


「手作りって聞いたけど、すごいね」


あたしを追い抜いてテーブルに手をついた彼が、箱の中からチョコレートでデコレーションされたクッキーをひとつ摘み出す。


「別に、すごくないよ。カンタンなのだし。それに岡崎くんは甘いもの苦手そうだから、こっちのほうがいいかなと思って」

「それはご配慮いただいてどうも。しかし意外な才能だね。正直、驚いた」

「ほんと大したことないし、お口に合わなかったらごめんね。と、いうことではやく帰ろうか!」


動揺が思いっきり表れたメモの文字を見ぬふりして、カバンを持ち上げる。

帰ろう。もう帰ろう。さっさと帰ろう。よし、帰ろう。


「――長田さん、孝也の荷物持っていったほうがいいんじゃないかな」

「あ、そうだね。あれ、これってどっちが村田くんのだっけ? 岡崎く、」


このとき、すでにあたしは彼の術中に嵌っていたのかもしれない。

少なくても口は閉じておくべきだった――と悔やんでも後の祭りだったけれど。


「は、むっ、んん……!?」


突如、口のなかに何かが押し込まれて息が詰まった。


口内に広がる香ばしいかおりと、ビターチョコのほろにがさ。自分がくわえているものが目の前のクッキーだということが分かるまで、正味数秒。


そして恐る恐る視線を正面に切り替えると。

クッキーを突き出す彼の手と、その嘘くさいにこやかな表情が目に入った。


「これで長田さんのあーんは俺がもらったってことかな?」


こいつは、いったい、なにを、いっているんだ?

そんなあたしの困惑を表情から読み取ったのか、彼がおなかを抱えて笑い出す。


「ははっ、やたら俺のこと警戒してるからリクエストにお答えしただけなのに、その顔」


はいそうでした。彼はこういうひとでした。

知っていたのに、だから身構えていたのに、油断したあたしがほんとうにばかでした。


怒りと羞恥にふるえるこぶしを握り締めて彼をにらみつける。してやられたのが悔しいわ、笑われているのが恥ずかしいわで、怒りのやり場がどこにもない。


「それにしてもまさか俺までもらえるとは思わなかったよ。孝也は別だとしても」


薄闇を背にあたしを見るその瞳が、少し揺らいだ気がして思わず息を飲む。

それこそ彼の思惑だったのかもしれないけれど、どうしても放っておけない気がした。


そんな一瞬のためらいを、またも利用されると思わずに。


「………なんて、ね」


噛み跡のついた右手を急に引っ張られたと思ったら、すぐ目の前にその顔があった。

視線が重なって、それがあたしを飲み込んでしまいそうで、身動きひとつ取ることができなかった。


くわえていたクッキーの反対側の角に立てられた白い牙。

ぱきん、と折れるのは一瞬で、彼の前髪があたしの鼻先をわずかにかすめて通り抜けていく。


「ごちそうさま」


彼の口内へ消えていったあたしの欠片が、咀嚼して飲み込むところまで見届けて我に返った。意味深な響きと、口の端から見えた彼の舌がやたら赤くて目がチカチカする。


「うまかったよ。姉貴に見つかったら取り上げられそうだな」


そんなひとことを残して、さっさと自分の荷造りをはじめてしまったその背中になんの反論もできず。わずかに残ったクッキーの残骸があたしの口内を甘く侵していくのに、飲み込むこともできない。


なにこれ。どうすればいいの。

そのまま呆然と立ち尽くしていると、遠くから近づいてきた足音とともにドアが乱暴に開け放たれた。


「さっみー! 掃除したし、もう帰ろーぜ!」

「うるさいぞ、孝也。ドアの開け閉めは気をつけろよ」

「おう! ……ってあれ? あゆ、どしたー?」


ずんずんと床を蹴って近づいてきた村田くんのつめたい手が、あたしのおでこへとあてられる。その拍子にわずかな欠片が完全に口のなかで溶けて、飲み下してしまった。


「なんか赤くね? 具合わりーの?」

「おまえに床汚すような酷いこと、されたせいじゃないのか? 手も痛そうだし」

「え!? オレのせい!? ごめんなー、あゆ。そんな痛かった?」

「遅くなってごめんなさい。お留守番ありがとう。そしてこれはなんの騒ぎかな?」


騒ぎ立てる村田くんの後ろから、絶対零度の魔女の降臨。

制服の襟首を掴まれた村田くんが、あたしに助けを求めてこの手を引き寄せてくる。


「孝也が長田さんに何か悪さをしたみたいですよ?」

「あらあら、ほんとこまった子ね。村田くん、おすわり!」

「えええええ!? ひでえ! オレ、扱いが犬じゃん! あゆー!」


そんないつもどおりの光景を穏やかな笑顔で見守る岡崎くんの長い指先は、秘密だよとでもいうようにそのくちびるに押し当てられていた。


悪さしたのはいったいどっちなんだ。


じんじんと疼く右手と口に残った甘さがいつまでも消えなくて、もうバレンタインなんてこりごりだとひとり頭を抱えるしかなかった。






****** **


最後まで読んでくださってありがとうございました。

この作品は『欲情ハニィに溶かされて。』の番外編になります。


遅ればせながらのバレンタインネタになりましたが、久々に楽しく書けました。

下記の拍手に短いおまけ話を載せています。

お時間のあるときにお読みいただければ幸いです。


ありがとうございました。


****** **




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