4、間抜けな四歩目
朝起きて、変わらない部屋を見たけど、あいつはいた。つまらなそうに宙に浮きながら、本棚に整頓された本を眺めてた。
「……何やってんの?」
そう声を掛けてみたら、つまらなそうな顔して言った。
「……暇だったから、眺めてた」
「本を?」
「そうだよ、なんか文句あっか?」
何故か喧嘩腰に言ったけど、触れないのだから仕方のない事だ。それに、僕には関係ないし。
「……今日も行くのか、あそこ」
「……カズがそう言ったんだろ?」
「そうだけどさ、本当にそこに来てくれるか、今頃になって心配になってきた」
「……」
「……来てくれっかな?」
「さあね、……でも、きっと来るさ」
励ましのつもりで言ったんだけど、残念そうな顔をしたのは、何故なんだろう。
*
今日は、江ノ島の水族館に行く事にしたの。新江ノ島水族館。君とは何度も行った場所だよ。君はここで一番大きな水槽がお気に入りで、ここに来るたびに必ずそこに行ってたよね。ここに来る度に、こうしてそっと水槽に触れて、子供みたいな無邪気な顔してた。……私、そんな君の横顔が好きだったよ。
「……眉」
隣にいた朋美が、また怒っちゃったみたい。君の事をなるべく思い出さないようにしたいんだけど、どうしてもダメみたいで。今日は、ここに来るまでに、十回は起こられてたかな。情けないよね、ちゃんと生きようって思ったから、こうしてるのに。やっぱりダメな奴だよ、私は。
「ここにいると、その皺が消えない気がするから、他行こう」
「……え、う、うん」
何だかそこを、離れたくなかったんだけど、朋美に無理やり引きずられて、違う所に行かされたの。でも、どこに行っても、君の影みたいなのが私に付きまとって離れてくれないの。無邪気に走り回って、私に手を差し伸べて来るんだ。「こっち行こう」って。
それを見ないように心掛けてはいるんだよ、でも、でもね。ダメなんだ。私は、弱いからさ。君がいると思うと、楽しくなっちゃって、でも、君がいないって心では分かってるから余計に辛くなって……。
「有実!見て、見て、でっかい魚!こんな魚、あたし、始めてみたよ」
「おい、有実!これ見ろよ、デッケェ魚がいるぞ!」
君の声と、朋美の声が重なる事、ここに来て増えてるんだ。無邪気に笑う君の顔が、朋美と似てるんだもの。ちょっと、びっくりしちゃった。
「ホントだ、おっきいね」
無理に作った作り笑い、朋美にはバレバレみたいだけど、何も言ってこなかったの。それが、少し嬉しかったんだ。何でかな?
「ねぇ、有実こっちにも行ってみない?」
「……いいね、行こう」
正直に言うと、あんまり乗り気じゃなかった。どちらかといえば、自分の家に戻って、また閉じこもっていたかった。……もう、君の事を、思い出したくなくなったのかもしれないね。振り返れば君がいるような気がして、振り返れば君が笑っているような気がして。でも、本当は、君を探していない、私がいたの。君の事を、忘れたがってる、可哀相な私が……。
自分で、『可哀相』なんて言っちゃったら、終わりだね。自分しか可愛がってないみたいだし、自己中っぽいし。君がいないと何もできない私が、私は嫌いだったのかも。……よく、分からないけどね。
「有実、見て見て!……綺麗だねぇ」
朋美が隣で楽しそうにしてるのに、私は楽しくなんかなかった。朋美が無理してここまで来てくれてる事、昨日分かったの。寝る前に、いろいろな事考えてたら、分かったの。
「こっちもすごいよ、有実!」
無理しないで、そう言えたらいいのに。もう、帰ってもいいよって、言えたらいいのに。なのに、何で私は言えないのかな?……口に出して言えない事って、こんなに辛かったんだね。
「……有実?どうしたの?」
「え?」
「……泣いてんの?」
「泣いてないよ?どうして?」
心配そうに私の顔を見てる朋美から、目が話せなかったの。朋美が、君に見えたの。
「有実」
君がそう私を呼んだ気がして、朋美から、目が離せなかったの。悲しそうな君の眼に、涙があった気がするんだけど、気のせいじゃないよね。だって、本当に君がそこにいるみたいに見えたから。
「か―――」
君の名前を呼びそうになったけど、それ以上言えなかった。だって、君の名前を呼んでしまったら、私が私じゃなくなる気がしたの。私が、崩れてしまう気がしたの。身勝手な事は、分かってる。だけど、本当にそう思ってたの。ずっと、ずっと。君がいなくなってから、ずっと―――。
「有実?」
今度は、朋美の声が私を呼ぶの。幻覚じゃないって分かってても、幻聴じゃないって分かってても、君が本当に見えたから。君が、『今』のような気がしたから。
「ねぇ、無視しないで」
頬を優しく叩かれて、やっと自分に戻れた気分。朋美がね、不安そうな顔して、私を見てるの。今までの私と違う私を見て、困ってるんだろうね、きっと。
「……有実、なんか今日、暗くない?」
「……そんな事ないよ、普通だよ」
微笑んで見せたけど、余計に心配させちゃったかな。自分でも、情けない顔になってるって、分かったから。水槽に映ってる自分の顔、とっても情けなかったんだ。人形みたいな、冷たい顔してたから。
「他、行こっか」
「……うん」
もし、君が今の私を見たら、何て言ってたかな?変な顔してる?馬鹿みたいだな?……。きっと、情けねぇ面してるな、みたいな事言ってるだろうね。そうして、私の頭を撫でて言うんだ、笑えよって。最期の時みたいに、私に言うんだ、笑えって。きっと、……そうだよね?
水族館を出てから、私は朋美とろくに口利いてなかった。何か話しかけられても、薄く返すだけで、ぼうっとしてて、つまらないって思われただろうね。
「……そろそろ、家に帰ろっか」
「え……。そう、だね」
家に帰りたかったのは、私じゃなくて、朋美だったかもしれないな。こんな私と一緒に居ても、どうせ、つまらないだろうから。たった二日だったけど、私は余計に暗くなった気がするの。君との思い出の地を巡ったから?それとも、私が元々暗かったから?……ダメだ、私じゃ分からないよ。君がいないと、何もできないの。君が傍に居てくれないと、―――。
荷物をまとめて、旅館を出て、電車に乗ってる頃。その電車から見える浜辺に、君が立っていた気がしたの。風に吹かれて、たった一人で立ってるの。座り込んだ君の背中がやけに小さく見えて、不安になったよ。何で、そんな悲しそうなのって。
そうやってずっと見てたら、振り向いてくれた。でも、物陰に隠れて、君の顔は、見えなかった。でも、あれは君だった気がするの。どうしても、そう思いたいのかもしれないけど、あれは、君だった気がするの。