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暦月カップル短編✩

醸成月のプレローマ

作者: 橋本ちかげ

すっかり冷え込んできた秋の夜風に身をこごめて帰ってくると、お店の灯はもう消えていた。

なんだ、もう閉店か。

お客でもないのに僕はどこか、門前払いを喰った気持ちになった。閉店は午後十時。今はそれを三十分も過ぎている。店番をしている母親が面倒くさくなって、閉めたのだろう。もちろん、本来の閉店時間内ではあるので文句は言えない。

(でも開いているときは、朝まで開いてるんだよな)

ホットコーヒーが美味しい季節になって、お店も夏より持ち直したけど、父親がいないせいか、常連客の賑わいとはまだ程遠い。彼らは親父が作ったつまみにお酒を持ち込んで、夜通し騒ぐから始末に負えないのだ。そんな空気の中で育って、逆にそれがないと寂しいと思っている僕も、まあ僕ではあるのだが。

カウンターにバッグを置くと、キッチンの窓の外の桜の葉が枯れ落ちているのが街灯に照らされてみえた。赤を通り越して黄色く褪せた葉はもう、枝から落ちるばかりだ。その寒々しい様を見ていると夏など最初からなかったことになっていて、もう何か月も前から秋だったみたいにどこか寂しい気分になる。

重たいバッグを肩からおろして、電車で読みふけっていた文庫本と、塾のテキストやら筆記用具やらを取り出す。僕は小さく息を吐いた。さすがに九月に入ってから、時間が経つのが早い。秋集中講座やら模試やら夜の自習復習やらで、そうこうしているうちにもう週末だ。で、もう十月も来週が最終週だ。長いように見えて受験生の一年は刻々と過ぎていく。

(受験生ってこんなもんかな)

ここに来て、一回ずつの模試の判定が重い。その判定が着々と自分の人生を決めてるんだな、なんて言う辛い実感が出てきた。高校受験をしたときとは、だいぶ違う。一体、僕はどうなるんだろうか。夜中に勉強していて、ふと、思ってしまう。

世間の荒波を間近に実感する僕に比して、相変わらずこの店は深海の果てのように鎮まり返っていた。ここだけは、そんなあわただしい流れとは無縁な場所だった。

でももはや僕にとってあの春は、遠い昔のようにも思える。ここのところの僕は、肝腎のみくるさんにもろくに会っていないのだ。


思えばあれは。

春迫る、雪解け水みたいな澄んで冷え切った夜気が流れていた三月の末だった。

花待つ季節、僕は彼女と付き合うことになった。

園城みくるさん。

うちの店の常連客、僕より十歳上の漫画家さん。ほとんど同い年にしか見えないルックスと、仕事を吹っ飛ばして大好きなヨーロッパを放浪するのが趣味と言うぶっ飛んだ女の人。今年は日本にいるって言ってたのに。先月も逢おうと思って仕事場に行ったら、留守だった。


「僕と、付き合ってほしいんだ」

年越しに持ち越した返事を、ヨーロッパから帰ってきたばかりのみくるさんがくれたその夜を、僕は、はっきりと憶えている。

「ちゃんと付き合おっか、わたしたち」

と、なんとも軽い、みくるさんの返事とともに。

もちろんその言葉に比して、気持ちは軽いものなんかじゃなかった。そう僕は今でも信じている。僕はずっとその間、みくるさんの目を見ていたから。ずっとどきどきしていた。吸い込まれるかと思った。いつも何でもない風に見過ごしていたみくるさんの大きな瞳が、切なくすぼまれて清かな涙で潤んでいたのに気づいてしまった。

あの日、仕事場を無理くり抜け出して寒い戸外からこの店に、来てくれたせいだと思う。僕は知っている。いつからかそう思っている。いつもの気楽な顔の下に隠した、みくるさんの、本当の眼差しを。あの晩、彼女は、そんな目をしていた。だからこそ僕は、花待月に待ち続けた、偽薬効果(プラシーボ)を本当のものだったと信じることが出来たのだ。

あれは間違いなく、僕だけに見せてくれた、本当のみくるさんの顔なのだ。


大分寒くなってきた。そろそろ夜、ここで何かするには暖房がいるな。店のパソコンを立ち上げた僕はついでにエアコンもつけた。ミネラルウォーターを注いだケトルをIHのレンジにかけ、僕はつい最近ローストした豆を一掴み、ミルで挽く。

(つや)のある深い褐色のグアテマラはイタリアンローストにしてある。香ばしい焦げた苦味が立つまで煎った豆をとっぷり濃く淹れて、お砂糖をひとつまみ。秋も更けた寒い夜はこれしかない。一番、沁みる組み合わせだ。

さてメールソフトが立ち上がった。カウンターの丸椅子をこっちへ持って行こうと思って僕は、クリアケースに入った分厚いプリントアウトの存在に気づいた。それには、見るだけでお腹がいっぱいの英文がびっしり印刷されている。

先週お店に来たお客さんの忘れものだ。まだこれ、取りに来てなかったんだなあ。こんなところに放り出しておいたら、汚れちゃうぞ。僕はそれを取り上げた。そう言えば、なんか変なお客様だった。


たぶん、女子大生だと思う。冗談ではなく、表に人だかりが出来るくらい、綺麗な人だった。黒くて長い髪の毛ですら、きらきらオーラをまとっていた。この横浜では言うまでもなく、テレビのロケやグラビアの撮影が多い。もしかして芸能人かと思ったが、正直あんまりテレビは観ないので分からなかった。ただ、お客としてはひと目見て不審だった。

その人は席に座ったまま、いつまで経っても注文しないのでこっちも困ったのだ。見かねて僕が声をかけるとびっくりするぐらい形のいい眉をひそめて、すごく切なそうに十秒ぐらい黙っていた。

そしておもむろに何を言うかと思うと、テーブルに置かれた食卓塩やら、ミルクやら砂糖やらが入っているトレイの辺りをひらひら手のひらで探っていかにも残念そうに、こう尋ねた。

「…どうしてスウィッチが、ないのでしょう?」

好きな銘柄のや淹れ方のコーヒーがないと言う文句は、よく聞く。しかし、ウエイターを呼ぶスウィッチがないことで苦情を言われたのは、これが初めてだ。

「うち、そんなに広くないですから」

面喰(めんくら)いながらも、僕は答えた。それ、そんなに重要なことか。経費節減が叫ばれて久しい。そんな無駄なものを置く余裕は、うちにはないのだ。

「じゃっ、じゃあ、このまま頼んでいいと言うことですか?」

「はい、もうお決まりでしたらうかがいますけど」

その人はとても切なそうに、コーヒーとサンドウィッチを注文した。よっぽどあのファミレスとかにあるスウィッチを、自分で押したかったみたいだった。ファミレス行け。

僕の願いとは裏腹に彼女には、それから二時間以上、粘られた。その日だけ心なしか男性客が増えたのが唯一の救いだった。

その人はノートパソコンでずうっと、何かレポートみたいなのを書いていたのだ。ずっと話しかけられそうにないくらい、集中していた。息を吐く間もなく怒涛の勢いでキーを叩いていたのだがちなみにそれも全部、外国語の文章だった。

そうしている間にも彼女は、誰かを待っているみたいだった。夕方頃、テーブルに置かれたその人のスマホが鳴った。どうやら相手の人は約束の場所に来ず、勝手にどこかで待っていて、彼女を呼んでいるらしかった。彼女は、すっごい焦っていた。こんな綺麗な女の人を振り回せる人って一体、どんな人だ。

あわただしく出て行った彼女は当然のように、忘れ物をして行った。語学が堪能な母親によるとそれは、日本の旧い暦月について書かれたひどく専門的なレポートだったらしい。変な人だと思ったら、やっぱり外国の人らしかった。


彼女は店の奥の壁が背になる席に座っていた。ここ、みくるさんの指定席だった。ついこの前までみくるさんはその席で、ネームを描いたり、編集者に詰められたりして、一喜一憂して悶絶していたのだ。そんな光景にも久しく遭っていない。

(どうしてるのかな)

思い出さない日は、ない。こっちはずっと、一人で行動しているのだ。メールで十月の予定を話したのすら、半月くらい前だ。三日前のメールにまだ返信はない。スマホを開いてはため息をつくのが、日課になってしまった。


みくるさんとあんまり連絡が取れなくなったのは、九月からティーン向けのノベライズの仕事をする、と言ってからだ。小説の原作者のたっての指名でみくるさんは、挿絵を描くことになったのだ。

それがどうも、いわく因縁のある人だったらしい。その作家さんは若くしてナポレオンの伝記でデビューしたほどのヨーロッパ通で、駆け出しのみくるさんに目をつけたことがあるようなのだ。

「ちょっと、手の早い人なんだよね」

と、漏らしたアシスタントさんはあわてて口をつぐんだ。宝生(ほうしょう)、と言うその作家さんは実家が元々金持ちの整形外科か何かで本人も医師免許を持っていて、あくせくなんてしたことない、悠々自適の文筆業だそうな。その上、ヨーロッパ車を乗り回しては美人の担当編集に手を出す、なんてことも平気な派手な人らしい。

ヨーロッパに(くわ)しいこともあり、みくるさんはデビューの前後、それこそ自宅を行き来するくらい仲良くしていたが、ある時期を境にぱったりと交流が途絶えていたそうな。アシスタントさんによればそれは、その宝生さんが編集の紹介で、ヨーロピアンハーフなモデルタレントさんと浮名を流し始めた頃と一致するのだと言う。

それからみくるさんはむすっとして、その話をすると口も利かなくなるほどだったみたいだ。

(もしかして、付き合ってたのかな)

すごく下衆な想像を、したくなってしまう。そしてそれがまた、一緒に仕事するようになって、実は去年の秋ぐらいからまた元のように交流が再開していたらしいのだ。こっちはこんだけほっとかれて、考えたくないことがどんどん噴出しても、無理はないと思う。


堪え切れなくなって僕は、電話をかけた。みくるさんは、例によって留守電だ。駅からこっちに来る間、仕事場にも電話をかけたが、もう上がってるって言ってたのに。忙しいって言うけど、本当に仕事なんだろうか。あああああ、これじゃ僕、旦那の浮気を疑う主婦みたいじゃないか。なんてかっこ悪くてみみっちいんだろ。男の癖に。最近自分のすっごく嫌な面ばっかに出くわしてうんざりする。

でもみくるさんが悪いのだ。僕の不安に何も、応えてなどくれないから。僕より大人の癖に、包容力ゼロなのだ。こんちっくしょう。

ケトルのお湯が、吹きそうになっていた。ったくこんなにほっときやがって、と、口から湯気を吹いて怒っている。今の僕みたい。でもこいつと違って、この気持ち、どこにも注ぐ口が見当たらない。虚しくなって僕は、レンジをとめた。

ため息をつきながら、ケトルのお湯を濾過紙の中のコーヒーに注ぐ。よく煎った豆は、濡れた浜辺の砂のようになって香ばしい匂いだけを残して、じりじりと沈下していく。


一野谷(いちのたに)くん、これ」

塾の自習室のブースにいると、制服姿でボブカットの女の子が何かを手渡してきた。ちょうちょが描かれたかわいい封筒から(のぞ)いているのは、今秋公開の映画のチケットだ。抜きだそうとすると彼女は、その手をとめた。

な、なんと中に手紙が入っているのだそうだ。ここだと恥ずかしいから後で読んで、とその子は言うのだ。正直僕は、耳を疑った。女の子からラブレターなんていつからこの塾は、人智の及ばぬ魔境に変貌したのだ。いや、他校の子だし実際、いたずらか何かじゃないか?

あらゆる否定要素を積み重ねたが、そこにはちゃんとLINEのアカウントに電話番号、メールアドレスが揃っていた。見栄を差っ引いてもかわいい子だった。向こうは僕の学校のクラスの女の子を通して、僕のことを調べたらしい。講座や模試の会場で会話したことがあったようなのだ。

「志望校も一緒だし、悩みとか、色々話せたらいいと思って」

彼女はそう言った。で、とりあえず来週は模試もないし、二人で映画を観に行かないかと言うのだ。

その手紙は、ずっと人目につかないところに仕舞ってある。断るつもりでいたけど。明日か。すっごく気が重い。


そう言えばあれから、僕とみくるさんは映画すら観に行ってない。いつもどっちかの都合が合わなくて、すれ違ってばかりだ。

(同じ受験生か)

引き換え、僕とみくるさんは明後日の方向を向いている。出来上がったカップをテーブルに口をつけて、僕はため息をついた。苦かった。淹れ方ミスったじゃないか。これだってみくるさんのせいだ。

(分かってて付き合ったはずなのに)

いつも僕は、あの晩のことを考えてしまう。みくるさんの告白の返事を聴いた夜じゃない、僕がみくるさんのことを好きになった夜だ。


「嫌かも知れないけど、しばらくわたしと一緒にいて」

十二月の寒い夜、駈け込んで来たみくるさんは、いつもと全然違ってすごく綺麗にみえた。あの日から僕は、みくるさんと言うとあの晩のことをまず、思い出してしまうくらいに。忘れられない。いやむしろ、はっきりと思い出せる。あのときのみくるさんのことを。

泣きながら必死で僕にすがりついた冷たい指の感触や、外の冷たい夜気でしんなりと濡れた髪の毛の甘い匂い。アルコールでほどよく火照った、小さな唇が吐き出す呼気の感触と、初春に咲き始めた花のように清かで甘い、女の人の匂い。大きなフレームの眼鏡の奥で涙に濡れた瞳は、じっと僕を見て捉えて離さなかった。

確かに僕は彼女を好きになった。あの晩、悪酔いしたみくるさんがたまたま、僕を頼りにした、ただそれだけだとしても。


(みくるさんは本当に僕を好きになった?)


それはいまや僕にとって、甚だしく疑問だ。あのとき思ったように、大人の癖にドジっ子なみくるさんが僕のスウィッチをたまたま押してしまっただけで、みくるさん本人は自覚しないままここまで来てしまったかも知れないのだ。

(本当に偽薬効果(プラシーボ)だったのかな)

例えばあの晩の涙の意味を、僕はいまだに知らない。

去年の秋からまた、新しい仕事が始まって宝生さんとの交流は復活していたのだ。もしかしたらあの晩はたまたま喧嘩して、絡みやすい僕を頼りにしたかっただけかも知れない。だって相手は、趣味で小説の仕事してるほど金持ちな、医者の御曹子だぞ。ヨーロッパ車だぞ、勝てるわけなんかない。

あの春からもう半年以上も経ってしまった。もう、十月だ。手遅れにもほどがある。神無月(かんなづき)だなんて、余計なことがカレンダーにでかでかと書いてある。神様が留守でいない月。僕は誰にすがりゃいいんだ。

心の暗黒面に、僕が落ちかけていたときだった。

どんどん、と店のガラスを叩く音がした。もう零時前だぞ?なんつう非常識な。しかし僕があわてなかったのはそもそも、こんな非常識な人が誰かを僕が知っているせいだ。絶対、みくるさんである。僕は何か言おうとして、顔を上げて絶句した。

お店の窓ガラスをみて、驚愕した。げっ、みくるさんじゃない。先週あのプリントアウトを持っていた変な客だ。両拳でガラスを乱打しながら、彼女はぐしゃぐしゃに泣き腫らしていたのだった。

「ごめんなさい!ごめんなさい!こんな夜遅くにごめんなさい!」


すっごくかわいそうな気分になって、僕は店を開けた。よっぽど大切な原稿だったんだろう。だったら一週間もほっとくなよと思ったが突っ込めなかった。中へ入れると彼女は、すっごい綺麗な顔をくしゃくしゃにしていて、さすがに嫌な顔は、出来なかったのだ。

「わっ、わたしこの店にっ…ひっく、忘れ物をっ…」

輝くばかりのルックスに比して、何だか生きづらそうなくらい残念な人だ。原稿を渡すと彼女はそれをひっしと胸に抱きしめて、しばらくしゃくり上げていた。うわっ、なんて言うか、あの分厚いプリントアウトが埋もれるほど、胸が大きい。なんか見てはいけないものを見てしまった気分だ。

「まさかここに忘れてたとは、思っていなくて…」

掠れた声で彼女は泣き続けた。すっごい美人だけど、はっきり言ってみくるさんより厄介そうだった。僕は黙ってコーヒーを淹れることにした。外は、さぞや寒かったろう。

「申し訳ありませんでした。もう、とっくに閉店ですよね…?」

今さら済まなそうに、その人は言う。

「大丈夫ですよ。忘れものならずっと預かってますし、遅くなっても後ろに住んでるんで、絶対誰かいますから」

と仕方なくフォローしたが、午前零時まで開いている喫茶店は、常識的に存在しない。人それを居酒屋と言う。て言うか、こんな夜中にコーヒー飲みたかったら、ファミレス行けファミレス。

「どうぞ」

「あ、ありがとうございます。コーヒーまで」

僕が淹れたイタリアンローストの砂糖入りコーヒーを飲みながら、彼女はほっと息をついた。

「やっぱりうかがった通り、とてもいいお店でした…」

それはようござんした。

…って誰に聞いたんだよ。

心の中で突っ込んでいると彼女は震える手で、その人はスマホを操作した。どこに電話をかける気だろう。そう思っていると。

「九王沢ちゃん、原稿あった?言ったじゃんかー、ここだったら絶対とっといてくれるってさー」

おっそろしく能天気な声がした。

僕は絶句した。みくるさんだった。表に車のライト。あれっ、何してんだよ。とか思っている僕をみくるさんは何気ない感じで見て言う。

「んに、へ~たくん、着信くれたっけ。ごめん、ちょっと話し中だったからさ。秋の模試、一個終わったんでしょ?」


言葉にならなかった。なんとあの不審過ぎるお客さんは、みくるさんの知り合いだったのだ。

「ああ、去年からやってる小説の挿絵の仕事。あれの監修してもらってるんだ」

残念な人だと思ってたら、物凄い人だった。なんと九王沢さんは、イギリスから某国立大に留学して近代日本文学の研究をしていて、二十歳にして飛び級を繰り返し、博士号を二つもとってる人だった。

「ご迷惑だったと思います。あの、わたし、ここにあることが分かれば取りに来るのは別に、今夜じゃなくても良かったんですけど…」

一応、常識は弁えている人だった。非常識なのは強引に、今すぐ取りに行けと都内から車を飛ばしてきたみくるさんの方だ。

「まあまあ、気にすんなって九王沢ちゃん!」

お前はちょっとは気にしろ。人に会いに行っていい時間帯を含む社会一般の常識とか、自分を待ってる人の気持ちとか。

「へ~たくん、大学受験がんばってるらしいねえ~?今日はさー、応援しようと思ってすっごいもの持ってきたのさ☆」

と言うみくるさんがどかっと置いたのは頭蓋骨。おい。縁起悪いなあと思ってみてると、なんとそれは綺麗に透き通っていた。なんと驚くことにその骸骨は、水晶で出来ていると言うのだ。

「なんだこれ!?」

「ふっふーっ、なんだこれだろ!?」

みくるさんはにやりとして、その頭蓋骨を撫でる。いや別に僕は喜んでないけど。

「昔の魔術師が持ってた最強のお守りなのだ!」

みくるさんによればこれは五百年ほど前に、中世の魔術師やら魔女やら錬金術師やらが、自分の魔力を高めるために持っていたものらしい。転じて今は、幸運のお守りだと言うのだが。

「それね、伝説によるとノミとか工具を使ってないんだぜ。人の手でこうやって撫でてね、陶芸するみたいに作ったんだって。古代の人の指の痕が残ってると言う」

「そう…」

うう、嬉しくない。すっごい貴重なんだろうけど、得体の知れない古代人の手で作った水晶なんていやあな念が籠もってそう。こいつの呪いのお蔭で大学受験に失敗したら責任とってくれるのか。

「そんな変な顔するなよ~、五年越しでやあっと手に入れたんだよ?あーんなに頼んでるのに、あいつ絶対手放さないんだもん」

「あいつって誰だよ…?」

そう、僕が言おうとしたときだった。

「ねっ、ねえここっ、駐車場ないの!?」

なんかすっごい高そうなスーツを着た男の人が、泣きそうになりながら入ってきた。

「ああ、九王沢ちゃん原稿あったって!宝生先生」

宝生先生!?この人があの、お金持ちの作家の宝生さん?

「わたしの勝ちだねえ」

満面のドヤ顔でみくるさんがにんまりすると、宝生さんはああああ、と嘆いて、膝から崩れ落ちた。なっ、何があったんだ!?


「ついに持ってかれてしまったよ…」

どうもあの怖い頭蓋骨は元々、宝生さんのものだったらしい。

「本当は絶対、譲りたくなかったんだけどね」

同じ中世ヨーロッパの魔術マニアで、死ぬほど話が合ったみくるさんは、宝生さんの秘蔵の宝物をずうっと狙っていたらしい。

「わたしが連載当てたら売ってくれるって、いっつも言ってたんだけど、いざそうなったら全然譲ってくれなくてさあ」

ついには独身主義の宝生さんが結婚したら売る、と言う条件を無理やり取りつけたらしいのだ。直後に宝生さんは例のモデルと付き合い出したらしいのだが、それから全力でみくるさんから逃げ回っていたそうだ。

「やあっと仕事で一緒になれたと思ったら、そのモデルの子と別れててさ」

「すっごい泣かれたんだよ。去年の十二月のはじめだっけなあ、出版社の二次会行ったあと、打ち上げに六本木にラウンジ行ったんだけど。あのときは困ったなあ」

随分幼い子を、泣かせていると勘繰られたらしい。宝生さん、みくるさんとあんまり実年齢は違わないのに、気の毒なことだ。

「て言うかそんなにまで欲しいなんて、駄々っ子か…」

「だあって!ずええったい欲しかったんだもん!」

ふんす、と鼻息荒く力説するみくるさん。そんな威張ることか。しかもその泣き落としで宝生さんはついにこの賭けに乗るしかなくなってしまったのだそうだ。


「紛失した九王沢さんの原稿がこの喫茶店で今夜手に入らなかったら、諦める」


さすがに宝生さんは、絶対勝てると思ったらしい。だって九王沢さんはどこでそれを忘れたのか憶えていないし、第一、賭けが成立した時間が時間だ。いくら馴染みだと言っても喫茶店だって開けてくれるはずがない。

僕はまんまとみくるさんの片棒を担がされたわけだ。

午後十時過ぎであったと言う。東京の赤坂にある宝生さんの事務所から、車を飛ばして一時間ちょい。ご苦労様である。真夜中に喫茶店の窓ガラスを叩かされて、九王沢さんは心身ともに、疲労困憊していた。

「…今さらこんなこと言いたくはないのですが、みくるさんが、あのお店から待ち合わせ場所を変えたから、忘れたと思うんですよね…」

原稿を忘れた日といい、この人は結局、みくるさんに振り回されていたのだ。かわいそうに。


「と、言うわけでこれこそ受験最強のお守りだ!へ~たくん、わたしたちは、見事君が受験を突破することを祈っている!」

「がんばってね」「が、がんばってください…」

宝生さんも九王沢さんも、顔が引き攣っていた。なんか本当に嬉しくない。

「えっ、まさかこれ置いてく気!?」

「当たり前じゃんか。わたしと九王沢ちゃんと宝生さんの念が籠もってる。わたしはともかく、二人は超エリートだ。絶対合格できるよ。ほら」

「要らない」

僕は突き返すように言った。もう、気持ちを取り繕うことなんて出来なかった。

「そんなもの、全然欲しくないよ」

僕のただならぬ気配を察したのか、みくるさんたちの動きが停まった。けど、言わずにはいられなかった。だってそうじゃないか。こんなに毎日やきもきして、待ち続けて、欲しかったのは、こんなものじゃないだろ。

「憶えてるよねえ。あの日のこと。こっちはさ、ずうっと、あれから待ち続けてるんだぞ!?…なんだよ、そんなことも知らないで。メールしても返してくれないし。今年はヨーロッパじゃなくて、ずっと日本にいたんだろ?」

「ごめん」

みくるさんは言った。小さい声だけど、ちゃんとあのみくるさんの本当の声音だった。

「ごめんなさい。わたしも、ずっとへ~たくんに会いたかったんだ」

「だったら普通に来なよ。こんな大騒ぎしなくてもいいだろ?」

「うん。でもさ、いつ顔を出していいか、それも分からなくって」

聞くとみくるさんは、お店には顔を出していたらしいのだ。でも僕は模試や集中講座に出ていなかった。しかも母親が連絡を取ろうとすると、みくるさんは邪魔したくないからと断ったらしい。

「それでもね、わたしも何か力になりたかったんだ。へ~たくんの一生のことだから。しょうがないね、わたし。へ~たくんの喜ぶこと、判らなくて。こんなことしか思いつかなくってさ…」

と言うと、みくるさんは瞳に涙をにじませた。

「馬鹿だな」

そうして、僕はみくるさんの小さな身体を抱き寄せた。ずうっと思い出すだけだったみくるさんの感触。匂い、息遣い。遠く離れていたら、手に入らないもの。それだけで十分だった。他の何も要らない。僕はただ、こうしてみくるさんに寄り添ってほしかっただけなのだ。


「コーヒー飲んでいきなよ。今夜は、ゆっくり出来るんだろ?」

みくるさんが頷くのを見届けて、僕はコーヒーを残りの人数分淹れた。砂糖を多めに落として。色濃く煮出したイタリアンローストだ。浅煎りのコーヒーと違って、苦い深煎りには甘味がとてもよく合う。少したじろぐほどに熱く抽出した甘いコーヒーほど、寒い夜で冷えた身体に沁みて、包み込んでくれるものはない。

「やっぱりへ~たくんのコーヒーだねえ」

みくるさんが、恵比須顔で頷く。それを見て、しみじみ実感する。僕はやっぱり、みくるさんのその顔が見たかったのだ。


「合格したら春休み一週間ぐらいヨーロッパに行こうよ。九王沢ちゃんの実家、すっごい大豪邸なんだって!」

「わっ、わたしそんなお嬢様じゃないです!本当なんです!信じて下さい!」

力いっぱい否定していた九王沢さんだが、なんと実家は宝生さんなど比較にならないくらいのイギリスの大富豪なのだと言う。まあ、間違いないだろう。一見して普通の人じゃないと思ってたが、やっぱとんでもない人だった。


「疑うことないですよ。お二人はもう、満たされているんですから。ただ、それを迎える準備が出来ていなかっただけで」

その九王沢さんがどきっとするようなことを、帰りがけに言ったのだ。僕が彼女が忘れた原稿を手渡す時にうっかり、宝生さんとみくるさんの仲を疑ってしまったことを話した時だ。言うんじゃなかったと思ったけど、遅かった。

「今月は『かむなしづき』ですから」

「え、ええ」

神無月は『かんなづき』とも読むが、『かむなしづき』とも言う。さっき古典の先生に習ったばかりでカレンダーに恨み言を言ってしまった。でもそれが何の関係があるんだと思って訝っていたら、九王沢さんはさらさらと手帳にその文字を書きつけた。


「醸成月…?」


「はい。秋の収穫が終わって、新米で作ったお酒を醸す月なんです。だからこの月を古来、日本では醸成月、神無月と同じ読み方で『かむなしづき』と呼びならわしているんです」


それはすでに与えられ、準備されたものが満たされる月。


僕は息を呑んだ。そんな僕に、九王沢さんはもう一つの言葉を与えてくれた。


「わたしたちはたぶん、今欠けているものを探し続けて生きるように出来ているんです。でも本当は、幸せを見つけようと思えば、もうそれは準備され、補われたものの中にあるのかも知れません。グノーシス派キリスト教の言葉をとって、ユングはこのようにその概念を定義しました。満たされゆくもの、『プレローマ』」


「…『醸成月(かむなしづき)のプレローマ』…」


後で一人になって考えた。

今の今まで気づきもしなかった。

あのとき、やっと抱き寄せられた、みくるさんの小さな身体。今、そこにいるみくるさんそのもの。僕が欲しかったものは、これから手に入れるようなものじゃない。ただもうすでに、そこにあるはずのものだったのだ。

花待つ季節に僕がもう、手に入れていたもの。僕さえ気づけばもう少し、寄り添うことが出来ていたもの。そして、疑うからみすみす損なってしまうものだったのだ。綺麗に飲み干された三つのカップを洗いながら、僕はそこに置いていかれた言葉にこめられた想いを、噛みしめた。


プラシーボなんかじゃなかった。今だったらちゃんと断言できる。

だってそれは。

疑わなかったら、いつでもそこに準備されている、満たされゆくものだったから。


(そうか)

もしかしたら、今の僕は、醸成月(かむなしづき)のプレローマだったのかも知れない。


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― 新着の感想 ―
[良い点] センスに脱帽です。 それにしても、へーたくんの中のみくるさんはエロティックだなぁ。 [一言] お店に来たお客さんに対するへーたくんの感想から、お?ってなりました。 やはり九王沢さんでした…
[良い点] 情景描写がお上手でした。秋の寒さが画面越しから伝わってくるような感じがしました。 一人称の書き方も上手くて、主人公の気持ちに共感できました。 [一言] 文の頭を空けたほうが読みやすかったで…
2015/10/26 14:48 退会済み
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