悲劇または始まりのタクト❻
「ですよねー」
少年は、肩をすくめてわたしにサーモンの缶詰めを手渡してくる。一緒に銀のフォークも。缶詰めはプルトップのあるもので、缶切り要らずだった。プルトップを上げて引っ張れば、オリーブオイルとサーモンの生臭い匂いが鼻につくだろう。
少年は、机の上にシュールストレミングの缶詰めを置く。すると、缶詰を開くことなく机のところにあった椅子に座ってこちらを向く。
わたしは食べたくないなら持ってこなきゃ良いのに、と思ったけれど黙っておいた。
わたしはとりあえず彼になにを言えば良いのかわからなくて、ありがとう、とだけお礼を言った。
すると少年は申し訳なさそうに笑った。
「ごめんなさい、漁ったらこんなものしかなくて……。本当はパンとかあげたかったんですけど……ほら、アイリが食べてるみたいな感じのを」
どうやらわたしを気絶させた少女は、『アイリ』というらしい。
ちらりとアイリの方を向く。目が合った。
そして目が合った瞬間、彼女はとても嫌そうな顔をして唸った。
「んぅっ!」
不意にわたしが彼女を見てしまったのがいけなかったのか、彼女はサンドイッチを急いでほおばった。小さな口がぱんぱんに膨らんで、まるでどんぐりを口いっぱいに詰め込んだリスみたいだ。
いや、食べたくてあなたを見たわけではないのだけれど、なんて小言を言う暇なんてなく、アイリはわたしを睨みつけて威嚇してくる。初対面なのにずいぶんと嫌われてしまったものだ。
それに別にわたしはなにか食べたかったわけではない。だからこんな缶詰めをくれなくても良かったのに、なんて思ったけれど、口には出せなかった。
食べ物を漁ってまで持ってきてくれた優しさというか、善意というか、そういったものに少しだけ感心してしまったから。
「ところで、あなたは誰なの?」
わたしは少年に尋ねた。
少年はポケットからじゃらじゃら音を立てながら、小さな銀の十字架のネックレスを出してわたしに見せた。
わたしはそれに過剰な反応を見せてしまった。ちょっとした痴態だ。
それは5枚の葉が撒き散らされた十字架。銀で造られた、悪魔が宿ると云われる5枚葉のクローバーを、ばらばらに散りばめてあしらうことによって、悪魔を祓うことを意味している。
本でちらっと見たことあるだけだったけれど、一目でそれだとわかった。
それは証。
彼の存在を示す物。
神の使徒の象徴、祓魔法の十字架。
「ぼくは、ユキラウル=クーリア。悪魔祓い専門の公務員的な祓魔師っていう仕事をしています。そこにいるアイリも同じくエクソシストです。ほら、同じ服でしょう?」
そう言うユキラウル=クーリアの顔は朗らかで、無邪気そのものだった。
*
祓魔師。
1世紀頃から、それは存在したという。
聖キリストが生まれると同時に世界に蔓延った悪魔を滅するために、結成された魔法士団がその始まりだという。
何世紀もまたにかけて、悪魔と戦う彼らは、英雄視されているため、憧れを抱く人間も多い。
そのひとりが、わたしである。
本物のエクソシストを見たのは初めてで、胸が高鳴った。絵本や伝承を、何度読み返してきたことだろう。わたしは心の中で中指を立てながら、アラマ村に族に感謝した。
そして、神とかいう偶像も、たまには崇拝してやっても良いかもしれない。こんな出逢いをわたしにくれたのだから。
このわたしと同じくらいの歳であろう少年、ユキラウル=クーリアは自身をエクソシストだと言う。勝手にだけれど、わたしは彼の堂々たる姿勢から、かなりのキャリアを積んでいると察した。
もしかしたら、失踪したクレセリア家よりも階級は上のエクソシストかもしれない。
しかし、何故こんなところにエクソシストである彼らがいるのだろうか。村の誰かが要請したのであれば、そもそもわたしはここにいないはずだ。
厄介事は全部彼らが始末してくれるもの。わたしは逆に邪魔者扱いされるのが関の山。なのにいったいどうして。
わたしは少し混乱しながら、そのことを彼に尋ねた。
ユキラウル=クーリアは優しく笑って、
「やっぱり気になりますよね。えっと、とてつもなく簡単に言えってしまうと、ぼくたちはあなたを引き込みに来たんです」
そう笑いながらユキラウル=クーリアは応えるが、わたしは、頭上にはてなを浮かべながら、もっとわからないと返す。
だって、わたしはエクソシストになることができない。
エクソシストと魔法使いの使う魔法は、根本が大きく違うことはないが、発現される現象の質が違う。
エクソシストは圧倒的な攻撃力と制圧力を持つ、破壊魔法。対してウィザードは、物体を成形する造形魔法。
同じ魔法であるけれど、質が違うから前者は後者になれず、後者は前者になれない。なぜなら、人間が使える魔法は生まれたときから決まっているから。エクソシストの家系には破壊魔法の子が生まれ、ウィザードの家系には造形魔法の子が生まれる。そう決まっている。
故にわたしはエクソシストになることができない。
「そうですね。一般的にはあまり出回っていない話ですから。驚くのも無理はないと思います。でも、ウィザードとして生まれていたとしても、エクソシストになれる人はいるんです」
「でもそんなの」
「聞いたことない、ですか? それはそのはずです。だって、非一般的な話ですから」
終始ユキラウル=クーリアは、笑顔を顔に貼り付けたまま、わたしを蠱惑的な眼差しで見る。寒気がした。
彼の眼差しは、アイリの冷たい視線とはまた違った怖さを孕んでいて、わたしは少し後ずさる。
するとユキラウル=クーリアは急にしゅんとしたと思ったら、項垂れ、ぼりぼりと頭を掻きむしり始めた。白銀の毛がはらりはらりと数本床へと落ちていく。
「ああ、もう!」
突然叫び出す。
わたしは情緒不安定な精神疾患者のように思えてきて、この人大丈夫だろうかと心配になる。
「本当はこんな風にしたいわけじゃないんだけどなぁ……」
ユキラウル=クーリアはぼやく。
わたしはアイリにいつもこうなの、と尋ねると、目を合わせてくれなかったけれど、
「いえ、いつもはこんなんじゃないんですけど」
と応えてくれた。
でも、とアイリは続ける。
「ユキさんは、初対面の人と話すのがあまり得意ではないらしいので……」
そういうわけで、ユキラウル=クーリアは若干のコミュニケーション障害を患っているらしい。本人も苦労しているみたいだ。
それがわかると可哀想というか、頑張ってそうで可愛く思えてくる。
ややあって落ち着き始めたユキラウル=クーリアは、本題に戻る。さっきよりもローテンションになっていた。それは仕方ないか。
「その、エクソシストは一種類だけじゃないんです。これくらいなら知ってると思うんですが……どうですか?」
「うん、知ってる」
わたしは笑いそうになる顔を抑えて、努めて平静を装った。
エクソシストの種類は、最も強い第一級祓魔師から、第二級祓魔師、そして最弱の第三級祓魔師。
エクソシストが好きな私にとっては、サービス問題だ。
「そうです。ファースト、セカンド、サード。すべてエクソシストですが、実はこの中には破壊魔法が使えなくてもなれるものがあるんです」
わたしはその一言に驚愕した。
「ありえない」と心の底から思った。
「え、魔法は」
「エクソシストに求められる条件は、別に破壊魔法の有無じゃないんです。必要なのは、悪魔殲滅能力の有無なんです」
「ということは、破壊魔法がなくても」
「はい。悪魔を殺せる力を持っていれば誰にでもエクソシストになることはできるんです。もちろん、ウィザードでも」
ユキラウル=クーリアはそう言い切るが、しかし、わたしには悪魔を殺せる力なんて大層なものは持っていない。わたしに思い当たる節なんて皆無だ。
いったい何の根拠があってそんなことを言ってくるのだろう。
「どうして、わたしが悪魔を祓えると思うの? 根拠は?」
わたしは破壊魔法が使えないどころか、強靭な身体も特殊能力も持っていない。
ごく一般的な健康的な普通の少女なのだ。
それからわたしはいくつも否定の言葉を並べた。それでもユキラウル=クーリアは話を止めない。
「根拠はあります。あなたに、適正した、武器があるんです」