悲劇または始まりのタクト⑤
わたしが薄らと目を覚ましかけたときだった。
心が温まる、美味しそうな焼き立てのパンの匂いが、わたしの鼻孔をくすぐった。
そういえば、これと同じ匂いをわたしは嗅いだことがある。小さな頃、それも記憶もおぼつかない、物心ついたばかりの4歳、5歳の頃だ。
アラマ村には1度だけ、配達業を営む一家が訪れて、自家製パンを直売していた。なんでも、副業としてパン屋さんをしているらしく、彼らは手紙や荷物をひととおり送り届けた後、村門のところでお店を開いていた。今思えば、アラマ村に手紙や荷物が届いたのはそれが最初で最後のことだ。
極少数の人間しか訪れないアラマ村だから、それがとっても珍しくて、皆そのお店に訪れた。当然その中にわたしたちシュートル家もいるわけで、たくさんのお客さんで賑わっていたのを良く覚えている。
それと、小さなこどもも。
その子はわたしと同じくらいの子で、真っ黒な髪が特徴的な子だった。訪れた配達業を営む一家のこどもらしく、お客さんにパンを手渡していた。顔は今となっては、かすみがかって覚えていないけれど、パンを渡すときに見せた笑顔がとても可愛らしかったのを覚えている。今はどうしているのだろうか。それを最後に彼らはアラマ村に訪れなくなってしまったから、詳しいことはわからない。
彼らはどんな名前で、どこから訪れてきたのかも、もうわからない。
*
わたしの鼻孔をくすぐっていた匂いが遠ざかっていく。わたしは心地良かったのに、と残念に思って、追いかけるように手を匂いの方へ伸ばした。すると柔らかい肉の感触。すべすべと手触りが良く、上質な絹布のようにきめ細やかな肌触り。
なんだろう、これ、と思い、わたしはゆっくりとまぶたを開いた。わたしは驚きで全身を強ばらせた。そこには、先程出逢った少女がいて、わたしを見下ろしていたのだ。
彼女の頬にはわたしの手があって、今の感触は彼女の頬だったのである。少女はとても不機嫌な顔をしていて、わたしの意識が完全に目覚めたことを認識すると、わたしの手に指を差した。
今すぐこの手を退けろ、そう言っているのだろう。わたしは慌てて手を退かした。すると少しばかり表情が和らいでくれて、わたしはほっと胸をなで下ろした。
そんなわたしの顔をを少女は、じろじろと舐め見るように見詰める、というより、睨みつける。わたしはその冷たい視線に気圧されて、硬直した。
ややあって少女は怪訝な面持ちでわたしに伺った。
「元気、そうですね」
わたしはそのセリフの意味がよくわからなくて、ええ、まぁ、と至極曖昧なセリフを返す。
少女は眉をひそめて、下唇を指で捏ねくり回すと、ずいっとわたしの顔を覗き込んできた。わたしには見ることはできないから何とも言えないが、目を大きく見開いてしまって、大分素晴らしい顔をしているように思う。絶対そうだ。
「魔法で、脳の回路を1度ショートさせたはずなんだけどなぁ……」
少女は考え込みながら、そうぼやいた。
そうか、わたしはやっとここで彼女のセリフの意味を理解した。
わたしが気を失ったのはこの少女の魔法であったのだ。思い出すと詠唱していたような気がするが、その直後の痛みの記憶の方が強く、そこらへんの記憶が曖昧で、よく思い出せない。
景色は真っ暗で皆無。耳に聞こえた音はもうノイズ混じりで、わたしの記憶はぐちゃぐちゃに壊れている。そうなるのも無理はないだろう、この目の前の少女に脳の回路を弄られたのだから。少しくらい記憶がどうなったって構わない。命を失わなかっただけまだマシだ。
少女はわたしに元気、そうですね、と言ってきたのだから、本来ならもっとわたしは壊れてしまっている予定だったのだろう。それくらい危なっかしい魔法を、わたしは掛けられたということだ。
彼女の脳内ではわたしはどうなっている予定だったのだろう。記憶喪失か、精神崩壊か、それとも、そう考えているうちに恐ろしくなってきてしまったので、わたしは考えるのをやめた。
「実はわたし、体質的に? 魔法に少しだけ耐性があるらしいの……」
「えっ」
驚いた少女は小さく声を上げて、より一層わたしの顔を見詰める。睨みつける。
そんな目で見られても、これは本当のことで「嘘です」と、首を横に振ることができない話だ。
小さな頃からわたしには魔法に多少の耐性があった。魔法で生み出された豪炎に晒されても軽い火傷しか負わなかったり、魔法による電気ショックなんかを受けても身体が痺れるだけで命に関わるようなことはなかった。
どうしてなのか、わたしにはわからなかったけれど、わたしは他の人間とは少し違うということにを、誠に遺憾であるけれど認めざる負えなかった。
しばらくして少女は納得がいったようで、すっきりした清々しい無表情になり、近づき過ぎていたわたしたちは、少女が離れていくということにより、物理的な距離を得た。
わたしはよっこいしょっ、とおっさん染みたセリフを吐きながら身体を起こした。動かしてみると、倦怠感が身体にあることがわかった。これも少女のせいだろう。首をぐるりと回すとこきこきと気持ちいい音がした。
わたしのいる部屋を見回す。部屋は6畳程の大きさで、金持ちの屋敷の1室にしてはやけに小さい。部屋の中身は、ベッドと簡易的な木の机と、その上に置かれたランプが温かいオレンジ色の光を放っているだけだ。わたしは床の上に敷かれた毛布の上にいて、少女はベッドに腰掛けながらサンドイッチを食べていた。
ここは先程リア充がイチャイチャしていた部屋に良く似ていた。けれど、その肝心なリア充はどこを見てもいない。
「あ……起きたんですね」
扉が開き、中性的な声がわたしにかかった。綺麗な声だった。低めなため女性のものではないだろう、しかし処女のような初々しさを持った声だった。
わたしはその声に一瞬だけ心を持っていかれ、入ってきた少年に気づくまでにややあった。
少年は銀の装飾が施された高価そうな制服を着ていて、わたしはどこかの貴公子かなにかなのかと思った。そして異常なまでに真っ白な髪の毛が凄く気になった。肌も異様に白く、瞳は血のような赤をしていた。
髪の毛のせいだろうか、まるで老人のように見えてしまう。けれど端正な顔立ちをしているのがわかる。先程イチャイチャしていたリア充の端くれだ。
少年は両手に缶詰めを持っていた。はにかみながら両方をわたしに差し出してくる。
「どっちが食べたいです? サーモンの缶詰めとシュールストレミングの缶詰め」
わたしは迷わず前者を指差した。
シュールストレミングってなんだシュールストレミングって、とわたしは心の中でつぶやいた。
シュールストレミングはめちゃんこ臭い食べ物らしいです。
家の中で食べたらその臭いが数日残っちゃうらしく、なんていうか、その。
チョー臭いらしいです。