欲するならば、名を付けよ。❹
ライトなグロがあります。ダメな人にはダメかもしれません。
今わたしはアイリととてつもなく密着している。もはやひとつになってしまうんじゃないかと思うくらい横から押されていて、率直な感想を述べれば、痛い。
さきほど来たばかりのときにはここまでひとはいなかったと思うのだけれど。
ユキとわかれて市場へと飛び込んだのも束の間、ひとの荒波に揉まれ、わたしたちは意図しない方向へと進んでいる。押しつぶされながら。
しかしながらわたしにとって市場は初めてだ。言うならば初めてのおつかいのようなもので、ちょっと興奮している。しかし右も左もわからないため、意図する方向に求めるものがあるのかははなはだ疑問ではあったけれど、遠くの方に高い鉄塔が見えたので、とりあえずそこに向かって進みたかった。
本当ならここに来たことのあるアイリに道を教えてもらいたかったのだけれど、出店は日替わりであるらしい。固定ではないのだ。アンダーステラの市場はフリーマーケットに近しいものらしい。
それに加えてアイリは今、わたしの胸元に顔を押しつけられて顔を上げることができそうにない。どっちみちだ。
ひとの流れは凄まじく、とても女ふたりでどうこうできるものではなかった。いや、ここに男がいたとしても難しいだろう。
なんて言ったって、今日は年に一度のアンダーステラ特大セールなのだ。居住用であろう上に高く建てられた家と家で挟むようにして細長い看板が中に浮かんでいる。それほど大きくない板に大きな字で『SALE!!』とだけ書かれていた。
わたしは市場にセールがあるということに驚いた。ひとつの店がセールをするのならわかるが、市場全体がセールというのはまず考えたことがない。
わたしの市場に依せるイメージは、客と店の一騎打ちという色が強い。客はどれだけ値切れるか、店はどれだけ高く売りつけられるか、そんな勝負を繰り広げている。
そんな想像をしていたけれど、やはり想像と生は似て非なるものらしい。
ああ、また視界の片隅で殴り合いの喧嘩が始まった。これで今日3度目であるから驚きだ。
アイリ曰く、セール中に殴り合いの喧嘩をしたらもう店を出すこともアンダーステラに入ることもできなくなるそうだ。わたしはなんでそこだけ規則としてあるのだろう、と思ったけれど実は規則ではなかった。
暗黙の了解、ここで売る者のマナー。そういったものらしい。
だからわたしが見た3組は当然もうここではやっていけない。
一時の感情に流されて人生を蔑ろにするなんてもったいないのに、なんて馬鹿なんだろう。
でも、わたしもその馬鹿の一員なのだ。
悪魔に復讐を誓ったわたしはきっと、ぐちゃぐちゃでグロテスクな生活を送るのだろう。ひととしての尊厳を自ら捨ててしまうかもしれない。
それこそ真性の馬鹿だ。
そうわかっているのに、わたしは、思いを変えることができない。まるで誰かに決められてしまったみたいに、この感情だけは心にがっちりとはまっている。
だからわたしは逆らうことができない。もっとも、逆らおうとも思っていないけれど。
人波に流されていたが、意外と行き当たりばったりは成功するらしく、目の前にはいつの間にかドリンク屋があった。質素な木造の店のカウンターに数十種類はあるであろうドリンクが所せましと並んでいる。
何故アンダーステラにまで来てドリンク屋なのだろうと思ったけれど、目の前で猛スピードに減っていくドリンクを観せられたらなるほどと言わざる負えなかった。
セールは戦争だ。いつもは買えないものが買えるのだ。必ず取り合いが起こる。当然喉が乾くわけだ。よって売れる。
周りが宝石やら武器やら魔法具やらで商売しているなかで、頭の良い儲け方をしている。
わたしたちはカウンターにしがみついて、注文をする。店主は髪の長い女性で、黒いコートを着ていてフードを深く被っていた。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
柔らかい声音だが、良く響く声だった。歌なんか唄ったらきっと綺麗。
わたしはそれに答える。
「酸味のあるものが欲しいんですが」
「ふむふむ、酸味のあるものですか……」
店主は少し長考してカウンターの下からひとつの瓶を見せてきた。
ラベルには『SULFRIC ACID』と書かれていた。
「これなんかはどうですか? 舌が焼けるほどの酸っぱさですよ!」
「えっと……それなんですか?」
「え、あ、硫酸です、よ……!」
店主は少し戸惑いながらそう答えた。
けれどわたしには硫酸がなんだかわからない。相当酸っぱいものなのだろうか。
隣のアイリにもそのことを訊いてみたがかぶりを振って、いいえ、と言われてしまった。
「硫酸って身体に良いんですか?」
「え!」
「え?」
わたしの質問は彼女を驚かせてしまったようだ。
店主は慌てて言う。
「りゅ、硫酸は薬品ですよ! 飲んだら口とか喉とか溶けて爛れちゃうんですよ!」
「え!? なんでそんなものオススメしてきたんですか! 間違えて買っちゃったらどうするんですか!」
「ネタですよ! もう! なんで硫酸知らないんですか! 常識でしょう! このネタ殺し!!」
「な、逆ギレ……!?」
「はあ……それでご注文は?」
店主は吐くだけ吐いてけろっと元に戻った。
「…………ああ、こういうひとか」
こういうときは批難したくなってしまうけれど、もういい。路地裏ではユキとユーリカが待っているし、アイリもそろそろ休ませてあげたい。アイリはこの喧騒と雑踏の中で、もう半分寝てしまっている。
この際無視だ。
「今度こそ本当に酸味のあるドリンクを貰いたいのだけれど」
「んー、酸味のあるドリンクですか。それの他にもなにか効能とか、お望みのものはありますか?」
「そうね、元気が出るもの、が良いわ」
そこで今度は、そうですか、と店主は言ってにやりと口角を上げた。また良からぬことを企んでいそうで、わたしは身構えた。
今回はなにを差し出してくるのだろう、とあれこれと予想していると、店主はすっと空き瓶の口をわたしに向けてきた。
意味のわからない行動に、わたしは困惑気味に言う。
「……どういうつもり?」
すると店主はけたけたと気味の悪い笑いをあげながら、
「すっぽんって知ってますか?」
「なに、それ」
「亀みたいな奴なんですけどね。その肉を食うのも良いのですが、なによりその生き血を飲むと元気百倍になるんですよ……」
「なにを言っているの?」
わたしの直感が言っている。早く逃げろと。この気味の悪い女から今すぐに離れなければ、命を取られると。
でも、フードの奥から覗く赤い目と目が合った途端、足が言うことをきかないのだ。それどころか、店主の言うセリフに返事をしてしまっている。まるでメンタリストの術中にはまってしまったかのように、操られているようだ。
「差し上げますよ、元気の出るドリンクをっ!!」
不意に接近してきた刃物をすんでのところで避けたのも束の間、こつんと額にあてがわれる空き瓶の口。
きゅっと額が縮こまる感じがした。
「ゲットぉっ!」
店主の嬉々とした声音が鳴った瞬間、色白かった店主の手が真っ赤に染まる。
ぎゅるっと視界が渦を巻いた。渦の中心は空き瓶の口。わたしは吸い込まれていた。
周囲の人間がどよめき立つ。異変に気づいたアイリがわたしの名を叫んで手を掴もうとするが、もう遅かった。アイリの手が掴んだのは、結局空気だった。
わたしの身体は、ほとんどがここになかった。
「あなたを教団に引き渡す訳にはいかないんですよ、我々悪魔にとって、あなたは天敵なんですから」
わたしはそれを最後に聞いて、瓶の中へと入りきった。
*
瓶の中は、まさに地獄だった。
赤黒く脈動する子宮の中みたいな世界で、産声をあげることなく生まれた奇形児の見開かれた瞳が、わたしを取り囲んでいる。
誰のものかもわからない悲鳴と狂乱した若者の絶笑が耳をつんざく。
爆弾を踏んずけて両足が吹き飛んだ映像が脳裏で再生される。経験していないのにまるでフラッシュバックのように、無き痛みが両足に走る。
次に右手に激痛が走ったかと思うと、人差し指が目の前を飛んでいった。
腹部が裂け、大量の血が吹き出るイメージが浮かぶ。実際には裂けておらず、ただのイメージに過ぎない。
歯を全部折られた。舌が抜かれた。鼻を潰された。眼球をほじくり取られ、代わりとしてガラス玉がはめ込まれた。乳房を焼かれた。背骨にコルクが無理矢理押し込まれた。終いには性器に長い銃口がどれだけ入るか遊ばれて、性器は見事に破壊された。その頃には手足の爪は無くなっていた。爪どころか、指すらも欠損していた。
わたしはその幾つもの責苦を受けてなどいない。イメージとして脳に流れ込んできた情報でしかない。けれど情報でしかないはずなのに、あたかもわたしが経験したかのような錯覚を覚えた。
気が狂いそうだった。いやもう既に気が狂っていた。阿鼻叫喚。
いっそのこと死んでしまいたい。苦しいのは死ぬことじゃない。死なない程度に壊されることだ。今わかった。
どんな死に様でも構わない。安寧な死なんて大層なものは望まない。
……だから、殺してくれ。
「死にたい」
わたしはその言葉を幾千幾万も繰り返した。無限の責苦を誤魔化す為に、何度も何度も繰り返した。
それが億に達しようとする、その時だった。
そっと頬に触れる存在があった。新しい責苦かと思ったけれど、それは責苦にはない優しさと温かさがあってすぐに違うとわかった。
『死んだら駄目』
母のような包み込む声だった。『そのひと』はわたしをぎゅっと抱き締めて、なだめてくれた。
『大丈夫』
その言葉を幾千幾万も繰り返しながらわたしの背中をさすってくれた。するとそっと闇がわたしから遠ざかっていく。痛みが消えていく。
あなたは死んではいけない、と『そのひと』は言った。
わたしは目覚める赤子のように『そのひと』の胸の中で目をゆっくりと開いた。
赤黒い世界は真っ白な世界に変わっていた。
『そのひと』は世界の一部のようで、下半身が世界に溶け込んでいて、上半身がわたしを抱き締めていた。髪の長い真っ白な女性。
顔は朧気で良くわからないけれど、どこかユーリカに似ていた。
『ああ、アレリア。わたしの可愛い可愛いアレリア。あなたを誰にも穢させはしないよ。でもあなたは穢れを望んでいるのね、残念だわ。でもわたしはあなたを愛しているから、それを止めることはしないの。でもほんの少しわたしを介入させてちょうだい』
穢れとはきっとわたしが復讐を誓ったことだろう。
誰かはわからない『そのひと』は、わたしを宙にふわりと浮かせると光る針を差し出した。布を縫うようなちんけな針ではない。もっと大きな、言ってしまえばレイピアのような縫い針だった。
「これは?」
『あいつが言っていた悪魔を祓える武器。魔力とキュウセイの血とレアメタルで作られた人罪の結晶。その名を、〈罪装武器〉。わたしが選んだものよ』
悪魔を祓える、わたしはそのセリフに目の色を変えた。
その力は、わたしが喉から手が出るほど欲しいもの。今の願望そのものだ。
『これが欲しいでしょう?』
「ええ、とっても欲しい。でも、タダではくれないんでしょう? そんな気がするわ」
『もちろん。でもとても簡単よ』
「なにをすればいいの?」
わたしは針が欲しいが故に、せかせかしていた。
『欲するならば、名を付けよ。わたしに、名前をちょうだい?』
わたしは、なんだそんなことか、と思ってしまった。確かに『そのひと』とわたしの中で完結してしまってしたけれど、名前を訊いていなかったし言ってこなかった。
それが無かったからだなんて、少し可笑しかった。
じゃあ、なににしようかな。
「あったかく包み込んでくれたから、マリアなんてどうかしら? 聖母マリア。ローマ字表記のMARIAでも良いけれど」
すると『そのひと』は大笑いした。しかし大笑いしたと言っても、飽くまでも綺麗な様式ある笑い方だった。
『無神論者のあなたが聖母なんて口にするなんてね。良いわ、気に入ったわ。わたしはMARIA。さあ手に取りなさい、アレリア』
わたしが針へと手を伸ばすと、呼応するように針もわたしに近づいてくる。
『ああ、アレリア。わたしの可愛い可愛いアレリア。もうすぐあなたの物語のプロローグにピリオドが打たれるわ。さて、あなたのエピローグはどんな色かしら。ずっとここで見ているわよ』
針を手に取った瞬間世界が割れる。
消えた真っ白な世界の先に見えたのは雑踏。アンダーステラの特大セールの市場の喧騒と野次馬と、真っ赤に染まった店主の驚愕に満ちた悲観的な表情。
ふう、と息を吐いてみた。わたしは生きていたみたいだ。死にたいとあれほど願っても人間はどうやら死ねないらしい。
でも今のわたしに破滅願望なんてものはない。あるのは目の前の悪魔へのあまり衝動的ではなく穏やかで落ち着いた復讐心だけ。
針を持つ手に力を込めた。
MARIAの声が頭に響く。
ーーさあ、
「悪魔祓いを始めましょう」