欲するならば、名を付けよ。③
色づいた視界。目の前に広がっていたのは、俗に言う新世界というものだった。
服、人種、建物、その他有象無象なにもかもが初めて目にするもので、わたしは興奮した。きっと疲労もなく、万全な心体で到着していたら、飛び跳ねて歩いているおっさんにでも当たってしまっていただろう。なんとなくそこまでは容易に想像できた。
わたしは街の喧騒とやらを初めて聞いた。新鮮だが、あまり心地いいものじゃない。睡魔と疲労に支配されているわたしにとって、それは迷惑以外のなにものでもなかった。
アンダーステラは、所狭しと出店が並んでいる。たくさんの貴金属細工、食べ物や魔法具があった。道なんて概念はなくて、店と店の間を掻い潜って進むしかなさそうだ。
「なにやら物騒ね」
そう思ったのはどこからか怒号が聞こえてきたからだ。欲に塗れた亡者の声。
ユキが耳打ちしてくる。
「今日はまだ大人しいほうですよ」
「そうなの? わたしにはとてもじゃないけれど、そう思えないわ……」
「殴り合いの喧嘩が日常茶飯事です」
「それは、お疲れ様ね」
アンダーステラは思っていたよりも平穏はなさそうだ。毎日がこれより酷いなら、ちょっとした内乱と言ってもあながち間違いではないかもしれない。
ユキはユーリカを器用におぶって、あまり活気のない路地裏へと進んで行った。わたしとアイリもそれに続いて行く。
陽射しの入り込んでこない影の路地裏は、肌寒い以上に、静寂過ぎて怖い。こんな中をひとり(正確にはユーリカをおぶっているが)先行して行くユキが素直に凄いとわ思った。どれだけ図太い神経をしているのだろう。
「それにしても、人がいないのね」
わたしのつぶやきにアイリが反応する。
「そうですね。今日はどうしたというのでしょう。いつもはもう少しいるんですけど」
「たぶんセールでもやっているんじゃないですかね」
「なるほど、それなら今日は珍しく落ち着いているのも納得がいきます」
彼らの言ういつも通りのアンダーステラを想像すると、震えた。殴り合いの絶えない市場なんて、シュールで恐怖しか湧いてこない。
もうちょっと安全に商売することはできないのだろうか。
「ここには良く来るの?」
わたしはふたりに訊ねる。するとアイリは静かにこくりとうなずいて、声で応えたのはユキだった。
「はい、それなりには。っていうかここを通らなきゃセントラルステラには入れないんですよ」
ははっ、と疲れた声で笑う。なんだ、ユキもちゃんと疲れるんだ、と意味のわからない安心感を抱いて数秒、彼のセリフに疑問を持った。
「ここを通らなきゃならないって、どういうこと?」
「アンダーステラとセントラルステラの間にも門があるんですけど、さっきのあんな無法地帯みたいなところに作ったら何度作り直しても何度も壊されそうじゃないですか。だから敢えて人通りのない陰気なところに作ったんです」
「なるほどね」
そんなことをしなくても、アンダーステラ自体を整備した方が安全なような気がするし合理的だ。けれどわたしは変に口出しするのもどうかと思って、それは胸中に留めた。いつかわたしじゃない、もっと権力を持った人が政治家に言ってくれるだろう。 そう期待した。確証はないけれど。
「あとどれくらい歩くの?」
「歩いたとしたら、1週間以下の数日ですかね。はははっ」
「はははっ、じゃないよ!」
わたしはげんなりした。もう半日近く休まず歩いているのである。お腹も空いてきたし、そしてなにより少しでもいいから仮眠を取りたい。
うぅ、と唸る私に慌てて、ユキは弁明する
「さ、さすがに歩き続ける訳じゃないですよ! それはさすがのぼくでも無理があります! 大丈夫です、手っ取り早く転移しちゃいますから!」
「へ……? ユキってふたつ魔法が使えるの?」
魔法も血液型と同じようにひとりにはひとつの種類しか受け継がれないし、持つことができない。普通ならばそうだが、わたしの持つ限りの人智を超えるユキのことである。ふたつ魔法を使えるのではないか。
けれどわたしの考えは大きく的外れで、そりゃそうですよね、とわたしは苦笑いを浮かべた。
「まさか! ぼくはそんな特殊な祓魔師じゃないですよ。それにもし使えたならもう既に披露してますって!」
「まあそうよね」
わたしは肩を落として溜め息を吐いた。
「う、そんなあからさまにがっかりされるとさすがに傷つきます……」
「じゃあどうやって転移するの?」
「それはですね……!」
ユキはこちらを振り返ってにまにましてくる。なんとも面白い顔だ。思わず殴ってやりたい衝動に駆られる。いや、「やりたい」よりかは「みたい」の色が強い。
「この先もうちょっと歩いたところに教団のお手伝いさん、いわゆるサポーターさんがいらっしゃるんですが、」
「あ、その人が転移魔法を使えるってことね?」
「そうです! 凄いんですよ! 転移魔法って! 一瞬で、そう一瞬でお願いした場所に連れていってくれるんです。でも転移する瞬間ちょっと内臓がふわっとするのが最初は気持ち悪いんですが、慣れるとそれも気持ちいいというか……!」
「…………そう」
何故ユキはこんなにも元気に熱弁してうざったいくらいの素晴らしいドヤ顔を見せてくるのだろう。ユキが話しているのは決してユキ自身のことではない、他人のことだ。それをあたかも自分のことのように自慢してくる。
まるで好きなことに熱中する子供のように無邪気できらきらしていた。
ユキは会ったときよりもテンションがいくらか高かった。
自然に上がっているというより、無理矢理の空元気に見える。現に彼の目の下には色濃い隈ができているのだ。
それもそのはずだろう。ユキたちはいったい何時間休んでいないのだろう。もしかしたら時間で換算せずに日で換算した方が早いくらいなのかも知れない。
疲れなんて知らないのだろう、なんて思ったわたしは自分を恥じた。
彼らも人間なのである。祓魔師という存在ではあるけれど、それはたかが役職である。肩書きよりも先に来るのは人間だ。体力の限度もある。
「ありがとう」
わたしは自分がそう言っているのに気付かなかった。ユキが、これは困った、とでも言うように笑って見せてきてやっと気付いた。
改まって言うと小っ恥ずかしくて、わたしは口をむぐっと紡いでしまった。
ユキは器用にユーリカを背負ったまま、襟足をくりくりと弄って言う。
「あー、やっぱりバレちゃいます?」
「……うん。とっても隈が酷いよ」
「ははは、バレてないと思ってたんですけど……」
「それはただの馬鹿よ」
「そうですね、ユキさんは結構詰めが甘いことがありますから」
わたしがしたのを皮切りにアイリも罵倒し、わたし側に加勢する。まったく、やれやれ、と漏らしながら溜め息を吐く。けれどそうしている彼女も顔色が決して良いわけではないので、格好ついていない。
わたしはそれを指摘しても良かったのだけれど、彼女はそういうのは嫌がりそうだから、笑って誤魔化した。
「ちょっぴり座ったりして休んだら? あ、飲み物かなにか買ってくる?」
「でも、もう少しでサポーターと合流できますし」
「そうですね、それがいいと思います」
ユキのセリフを遮って、アイリがわたしに賛同した。
「なっ、アイリまでっ!?」
それからほんの少しの沈黙が続いた。ユキがわたしとアイリを交互に見る。それにわたしたちは優しい笑顔で応対した。
するとユキは観念したのか、はあ、とひとつ溜め息を吐いてしゃがんで、煤けが目立つ壁にもたらせるようにユーリカを寝かせた。その隣にユキが腰を下ろす。
そうしてユキは渋々言った。
「じゃあ、お願いします」
「なにかご要望はあるかしら?」
「……酸味のあるものを」
「了解!」
彼とは反対にわたしは陽気だった。頑固な奴を折るのは楽しいものだ。
そんなわたしの思考を見抜いたのか、それとも顔に出てしまっていたのかわからないが、ユキはわたしに言いたげな目を向けてくる。
けれどわたしたちはそんこことで臆することはなく、踵を返し、来た道を戻り始めた。
次の話でひとつ盛り上がります。