ジッポの揺れる炎
終電に合わせて店を出ていったサラリーマン風の3人組がいなくなると、店は途端に静かになった。志郎は店の外の通りに眼をやったが、季節外れの寒風がしつこく吹いており、おかげで月末の給料日明けだというのに人影はまばらだった。2階にありながら通りに面した壁が全面ガラス張りのこの店は外からの見栄えの良さもあって、ランチタイムになると服屋を見て回る買い物客が脚を休めに多く立ち寄るのでそれなりに賑わった。しかし夜になって周囲の店のシャッターが閉まると通りは暗く静かになり、人気が失せてしまう。この店のオーナーは、この辺りもじきに他の飲食店が出来てにぎわうさかい、それまでは地盤固めと思ってナ、などと景気の良いことを言って志郎を励ましたが、考えてみればこの半年ほど顔を見せていない。
志郎はグラスをシンクに下げ、コースターをしまった。店の中にはひそやかな空調の音と、甘ったるい女声のバラードが響いていた。何年も前の映画の主題歌としてヒットした曲だった。さきほどの客の中の一人がリクエストしたのだが、ツレの結婚式でかかって泣いてもうてん、と15回近く繰り返し聴くので他の二人も呆れかえり、音楽にあまり興味のない志郎もさすがに飽きがきていた。グラスを洗い終わるとレジスターの横にあるノートPCまで行き、他のアルバムの画像を適当にクリックした。
その時、ドアの方からわずかに冷たい風が吹きこんでくるのを志郎は感じて振り返った。ドアをゆっくりと閉めて入ってきたのは一人の男だった。不意を突かれて少し驚く志郎だが、
「一人やけど、ええかな。まだいけるかな。」
と男に低くささやくように言われて、ええどうぞ、と反射的にこたえた。
男はカウンターの奥に歩を進めながら、着ていたネイビーブルーのピーコートを脱いだ。それを壁に掛けるとストゥールに座る前に胸ポケットからフィリップモリスの箱とスマホを取り出してカウンターに置いた。厚手の白いコットンのボタンダウンシャツから見える首や手は痩せて筋張っていた。この店のストゥールは妙に重いくせに脚の構造のせいか動かすとやたらとガタガタいうが、男はそれを、全く音を立てずにそっと床を滑らせて座った。身のこなしに全く無駄がなく手慣れているので、見ていた志郎は、今まで何回か来ていただいた方だっけ、と記憶を探ったが、この男とは初対面のはずだった。
志郎が灰皿を男の手元に置く。男はカウンターの奥にあるウイスキーの棚をしばらく見ていたが、
「あの右から3番目はグレンロセスかな。ショットでお願いします。」
ゆっくりとした口調で言った。男のいうボトルはたしかにスコッチウイスキーのグレンロセスだった。店ではなかなか出番のない、脚の短いチューリップ型のグラスを取り出して注ぐが、ショットとしての分量にわずかに足りず、新しいボトルの買い置きもなかった。それを見ていた男は、かまわないよ、と眼を閉じてうなずいた。志郎は恐縮しながら、
「申し訳ないんで、半額にさせていただきますよ。」
と言ったが、男はフフフと小さく笑い、そんなんしてくれんでもええよ、気持ちだけで十分だから、というようなことを柔らかい口調で言いながら手を振った。
グラスをふた口ほどすすってから男はフィリップモリスの箱を手に取った。男に背を向けてウイスキーの棚を整理している志郎の耳にも、箱から銀紙を引っぱりとるときのパリッという乾いた音が聞こえてきた。ジッポのウィールが一度鳴り、振り向くと男のタバコには火が点いていた。志郎は一瞬だが男の手の中にあるジッポが淡く白い、かすかに青みをおびた光を放ったことに気づき、あ、と小さく声を漏らした。
「これ?見るかい?」
志郎の視線に気づいた男がジッポをヒョイと彼に渡す。志郎はあわてて両手をタオルで拭き、うやうやしく受け取った。
「これ、もしかして銀ですか?」
志郎の声が少しうわずった。
「そう、スターリング・シルバー。といっても、アーマーケースやからね、音が他の安いのとあんまり変わらんよ。」
「いやいや、そんな、カッコいいですよ。ホンマに欲しい時期があって、必死にバイトしたこともあるんです。」
男の言うとおり、蓋を開けたときの硬質な音は他のアーマーものとそれほど違わないが、手に吸い付くような艶やかな感触は金属とは思えない温もりを感じさせた。普段使いでつく細かな瑕があったものの、そのせいで志郎の眼には一層魅力的に見えた。
志郎から返ってきたジッポをいったんカウンターに置くと、男は胸ポケットから革のケースを取り出した。鞄に使うような厚手の革を折り曲げて縫っただけの簡素なものだが、男のジッポはそのケースにすっぽりと収まった。ケースごと胸ポケットにジッポを入れた男は、
「君のジッポ、見せてくれる?」と言った。
「え、あ、はい、でも…なんか恥ずかしいです、そんないいヤツじゃないんで…」
ためらう志郎に、ま、ええから、と穏やかに男は言った。志郎はノートPCの横に置いてあった自分のジッポを、軽くタオルで拭いてから男の前に置いた。
「あぁ、35(さんごー)か」
男は手に取る前にぽつりとつぶやいた。
「リサイクルショップで一目惚れして買ったんです。安かったし…」
ひたすら小さくなる志郎に男は、俺も持ってたよ、と優しく諭すように言った。その言葉で志郎はほっとして肩の力が抜けた。
「35年式のレプリカは、ほら、こうやって蓋が完全に180度開くからすぐに分かるんよな。」男が蓋を開けてみせる。
「本体の側面…横の面やね、今のジッポは丸みが付けられて、そこに蓋があたるからここまで開き切らへん。35だけの特徴やね。」
「そう言われてみると…そうですね、今まで気づきませんでした。」
うなずく志郎をよそ目に、男はウィールを回した。先ほどの銀製のジッポに比べると音がジジ、ジジャと、なんとなく湿っているように志郎の耳にも聞こえた。火は点かなかった。男はもう3回ウィールを回したが、火は点かなかった。志郎は恥ずかしさで頬が熱くなるのを感じた。
「ジッポの芯を交換したことはある?」
いいいえ、と志郎は素直に首を横に振る。
「そうか、オイルや石はコンビニにも売ってるけど、芯は意外と見つからんかったりするもんな。」
男は胸ポケットから再び自分のジッポを取り出した。すかさず志郎は
「あの、そのケースも見せてもらえますか?」
と頼んでみた。男はこともなげに、ええよ、どうぞ、とケースごとジッポを渡した。濃い茶色のケースは牛革らしく厚くて硬いが、まるで型を精密に採ったかのように一部のすき間もなくジッポを包んでいた。ひと目で手縫いと分かる小麦色のステッチは若干よれているところもあるが、糸が革の染料と持ち主の汗を吸ってところどころ薄い灰色に変わっていた。
「このケース、すごい味がありますねぇ。」
「いちおう一点もの、っていうことになんねんけど」
顔を上げた志郎に男が照れくさそうに笑いながら言う。
「前に住んでた家の近所にあった革細工の店で…おまけでもらったようなもんだからねぇ、希少価値いうんかな、そんなもんは…」
そこまで言って男は口ごもった。しかし、そのケースからジッポは音もなく、ひっかかることもなく取り出せた。志郎の眼には、ジッポが革の鎧をまとっているように見えた。
「火を点けてみて。」
男に促された志郎は両手でジッポをしっかりと持ち、おそるおそるウィールを回す。ジャッと音をたてて火花が散る。と、芯から青い炎が出現し、たちまちオレンジ色の穂先を立ちのぼらせた。
「わわ、一発で点きますね。」
志郎が驚嘆の声を上げるのを、男はタバコを咥えながら眼を細めて眺めていた。男の顔は誇らしげな笑みを浮かべたようだったが、軽く眉を動かすと眼を閉じて、再び眼を開けた時にはほんのわずかに寂しげな色をたたえていた。
タバコを消した男は、よし、と小さな声でつぶやいたかと思うと、志郎に向かって訊ねた。
「ハサミある?そんなに切れなくてもいいよ…ニッパか、ラジオペンチみたいな工具があればもっとええけど、どうやろ?」
そういえば、と志郎がカウンターの中を探ると、前任のスタッフが置いていった小さな工具箱が見つかった。
「飲食店にそないな道具が揃ってるんや」
男がなにやら上機嫌で笑いながら志郎にきいた。
「僕もよく知らないんですけど、オープン当初にいたスタッフさんが置いていったらしいんです。ここの前に水道工事の仕事していた人で、この店のあちこちをこれで直してくれたって聞いてます。」
へえ、と男が答え、工具箱ごと志郎から受け取った。その中から口の長いペンチと、金属を切る刃物を取り出した。そうして志郎のジッポを手に取って蓋を開けると、ペンチで芯をつまんで小指の爪ぐらいの長さを引っぱりだした。え、と志郎が声を上げる間もなくニッパに持ちかえた男は手元に灰皿を置き、芯の先端を切り落とした。煤で真っ黒な芯は灰皿の中で火が消えたマッチの先のように見えた。
次に男はジッポの火が点く部分を右手で、箱の部分を左手で持ちゆっくりとジッポの中身を抜き出した。ケースは灰皿の横に寝かせて、インサイドユニットと呼ばれる中身を左手で持ち、右手の親指と人差指で底面にある真鍮色のネジをつまんで回しはじめた。それがフリントの交換を意味することを察した志郎が、
「マイナスドライバーが工具箱にありますよ。そのほうが」
回しやすいですよ、と言おうとする志郎を男は視線で制した。ネジを回しながら、ジッポはアメリカの製品でインチサイズだから日本のミリサイズの工具とは相性が良くないよ、という意味のことを独り言のように呟いた。それに、志郎がドライバーで回す三分の一ほどの時間で男はあっさりとネジを開けきってしまった。男がインサイドユニットを軽く指で弾くと中から細かい金属の削りカスのようなものが転がり出てきたが、その色に志郎は見覚えがあった。
「うわ、フリントがこんなに」
小さくなってる、と志郎が言う間にも男は手を休めない。今度は自分のジッポを手に取るとそのインサイドユニットを引き抜き、底面にある分厚いフェルトをめくった。軽く振ると未使用の黄色く光るフリントが小さな音を立ててカウンターの上に落ちた。自分のジッポを元に戻してポケットに収めると、その真新しいフリントを志郎のジッポに仕込んだ。
「え、いいんですか?」
思わず志郎が訊ねるが、男は軽くうなずいただけでジッポを戻していく。オイルは足りてるみたいやな、と確認するように呟くと、元の姿に戻った志郎のジッポを自分のジーンズの右ポケットに入れた。そうして、ちょっと待っとってな、と言うとストゥールから降りてトイレに向かった。
戻ってきた男はストゥールに座ると、志郎のジッポを彼に渡した。
「点けてみて。」
志郎がおそるおそる、ゆっくりとウィールを回す。先ほどとはうってかわって乾いたショッという音とともに火花が勢いよく散り、すぐに芯が応えて青い炎を抱きかかえた。オイルの燃える甘い匂いが志郎の鼻に流れ込んだ。
「わっ、すご、すごい。一発で点いたことなんて今まで一回も無かったんですよ。ジッポってこんなもんだろうと思っていたんですけど」
「みんな買ったらそれきりやからなぁ。すぐに点かんのはオイル切れのせいとしか思わへんし、石の予備を持ち歩いたりなんて、まず考えへんもんな。」
男はしみじみとした口調で言った。嘆くでもなく呆れるでもなく、しかし、その底にはなにか不満らしきものが漂っているように志郎には聞こえた。
「石は必ずジッポ純正を使うこと。下手に違うやつを使ってウィール周りが詰まったら修理が大変らしいで。」
男がおどけながらも説明口調で言い、はい、と志郎が大きな声で答える。志郎は少年野球の選手だった頃を思い出していた。
「石はインサイドユニットに二個ぐらい予備を入れておくのを忘れないように。人にあげると喜ばれるで。そんなに高いもんでもないしね。」
「はい。」
「ジッポの芯は結構長い状態で中に仕込んであるから、点きにくくなったらさっきみたいに芯を少し引っぱりだして切ったらええ。」
「はい、やってみます。僕でも出来そうです…あの、さっき」
グラスに手を伸ばした男が志郎を見る。
「僕のジッポを持ってトイレに行きはりましたよね?あれは」
男が声を上げて笑い、首をかしげる志郎にこう言った。
「あれはね、ジッポを温めたんよ。」
「温めるんですか?」
聞き返した志郎に男がなおも笑いながら言う。
「ジッポは揮発性の高いオイルを燃やすよね。本体が冷え切った状態からと、人肌程度でも温められているのでは」
「あ、そうか。」
「そやから、特に寒い時期はなるべく自分の肌に近いポケットに入れておくことや。まぁ、オイルが揮発して切れやすくなるっていう人もおるけど、補給したら済むことやろ?なんやったらオイルタンクを買って持ち歩くっていう手もあるよね。ジッポの純正アクセサリにもあるぐらいやから。」
志郎が何度も大きくうなずくのを男は愉快そうに眺め、ウイスキーをひと口すすった。グラスを置いた男に志郎はきいた。
「あの、もしかして、ジッポの修理とか、ジッポのお店で働いてらっしゃるんですか?」
男は眼を閉じ、薄く笑いながら首を横に振った。
「さっきの革のケースを造ってくれた、自分の母親と同い年のおっちゃんに教わったんよ。」
「へえ」
「その人はアウトドアマンでね、ナイフやジッポやバッグに色々と、まぁうるさいというか」
そこまで言って男は口をつぐんだ。あれ、と志郎が視線を向けると男はグラスを口に当てていた。視線が手元の灰皿に落ち、目元に青い陰が浮かんだ。
「ええ人やったんやけど…何年か前にケンカになってもうて、それきりや。」
再び口をつぐんだ。志郎もつられて黙ってしまい、店の中は天井のスピーカーから流れるアコースティックギターの音だけが響いた。
男がフィリップモリスの箱を取り、新しいタバコを取り出した。
「ジッポは壊れにくいから、どうしても扱いが荒くなるのは仕方ないことかも知れんけど」
言葉を切って眼を軽く閉じた男だが、すぐに眼を開けた。
「ジッポの点きが悪いっていうツレがおったら、教えてあげてな。自分で出来るようになったら、人のんをやってあげてもええし」
「はい、やってみます。一発で点くのがこんなに嬉しいとは思わんかったし、これ、絶対喜ばれますよね。」
「そやろ」
男もつられて嬉しそうに笑う。
「なんか」
男が呟く。
「俺もこれで、少し、ほんの少しだけ肩の荷が下りたっていうか…引き継げたっていうのかな。」
志郎がハッとして男の眼を見た。思わず背筋を伸ばした志郎の姿に気づき、男は思わず苦笑いを浮かべたが、すぐに真顔に戻って言った。
「ジッポに教えてもらうことやな。オイルを補給する頃合いや、石の減り方、芯の煤け具合…毎日使てたらそのうち分かるよ。それに、」
志郎の眼を見て男が続ける。
「そのうち、自分の身体の一部みたいに思えてくるから。そうなったら、まぁまず無くさへんようになるわ。」
「はい、大切にします。…帰りにオイルと石を買っておきます。」
浮き立った口調で志郎が言う。それを聞いた途端に男がなにやら意地悪い笑いをニヤリと浮かべて言った。
「そのかわり、無くしてしもた時が辛いでぇ。あぁ、それと彼女にプレゼントねだる時はジッポだけはやめときや。それ無くしたらもっと大切なモンも無くなってまうからなぁ。」
不意を突かれた志郎はうろたえ、いや、そ、それは、とか、注意します、などと口ごもりながらごまかそうとした。その様子を眺めながら男は声をあげて笑い、フィリップモリスの箱に手を伸ばした。
以前google+に投稿した『水の街の乾いた道』という作品があり、本来ならばそれを投稿した後で続編のN1688CQ 『ギムレット』を投稿すべきでしたが、『水の街~』の原稿を紛失していまいました。『ギムレット』だけでも十分物語として成立していると判断して投稿しましたが、作中における志郎や彼の店についての描写が不十分になってしまったことが悔やまれたため、『水の街~』の役割を果たす作品を投稿すべく書き上げたのが本作です。