二日目(2)
恐らく時間にすると数分間上昇したのだと思う。パン、という乾いた音と共にまた別の空間へと出た。天地の境目が分からない程の緑色が広がっている。ただ今回は遥か遠くに、何か橙色のような壁が見えた。
「ここは――?」
さくらが問うと、巡雨はゆっくりとさくらを下ろす。それでもその獣からはなれるのが恐ろしくて、さくらは右手で巡雨の身体に触れた。
「名前を付けたがるのは、言葉を使う者の性だな。ここは、箱と箱の隙間。名は特にはない」
いつの間にか巡雨の角に付いている球体は出会ったときと変わらず青く戻っている。
「さっきの…あれは?」
「あれは白の部屋からは出られない」
「でも」
不安が消えずにさくらが言うと、巡雨は大丈夫だともう一度言う。
「白の部屋は、それ以外の場所と繋がりはない。白の部屋を出たものには、彼らは手出し出来ぬ」
ちら、とさくらは巡雨を見る。助けてくれたと言うことは、恐らく害は加えないのだろうとは思う。しかし、そもそもが彼が脱出しようとしなければさくらは死ねたし恐らくあの門番とやらも出てこなかったのではないか。そう思うと、何処か憤りのようなものが腹の底から浮かび上がる。
「…あなたの目的は何? どうして死なせてくれなかったの?」
さくらは巡雨を睨む。今の自分にとっての敵はこいつだ、と。さくらの気持ちだけを考えるのであれば、あの黒い服の男が味方でこの獣は敵なのだ。死なせてくれる人と、死なせてくれない生き物。
「――私の目的は、零箱を守ることだ。死なせなかった理由は、それをすると零箱が崩壊するからだ」
「零箱…?」
そう言えばその言葉を今日は良く聞く。あの門番も言っていたし、そうだ。あの駐車場で出会った黒い服の男も言っていた。
「…零箱って何?」
「お前の住んでいた、世界だ」
さくらは首を横に傾げる。世界、とは何を意味しているのだろう。さくらは日本という国にいた。それは地球の中に存在しており、その地球は太陽系の中に在る。そしてその太陽系は宇宙の中の一部分で。この生き物は、さくらの思う世界の、どの部分について話しているのか。
「よく…分からない。どうして私が死ぬと…その、世界が壊れるの?」
「お前が、宿主だからだ」
急に、何か疲労感のようなものを感じる。何を言っているのだろう、とぼんやりとさくらはその生き物を見る。どうしてこんな目に遭うのだろう。特に生前悪いことをした覚えはない。あんな、酷い線を這わせて毎日が苦しかったというのに。どうして死後の世界でも、こんな目に遭うのだろう。さくらは目を伏せる。あの時、全てが終われると思った。あの線さえなければ、幸せになれると思った。けれどこの先にあったのは恐怖に満ちた世界で。そこまで考えて、さくらは不意に一つのことに思いつく。こんな目に遭う理由。それは、あの線があったからではないか、というその考えに。
「…あの、線と関係がある?」
出来れば否定して欲しいという思いでそれを言うと、巡雨はふい、と目をそらす仕草をした。その仕草に僅かな苛立ちを覚え、さくらは何か言おうと口を開く。しかし同時に、巡雨の向いた方向から声が聞こえた。
「零箱の宿主じゃの」
そこには、小柄な老婆が居た。
肩の上で真っ直ぐにそろえられた薄紫色の髪。前髪の下で輝く鬱金色の瞳は、どこか鋭く冷たく見える。白いもこもことした巻物を肩から巻き、濃い紫色の着物のような物を着ていた。
言葉を発したのは、巡雨だった。
「――四箱の宿主殿で宜しいか」
うむ、と老婆は頷く。
「四箱宿主の、歌椿と申す。そしてこちらは、登岳」
老婆はそう言って、左の袖を捲った。そこには、線があった。かつてさくらの持っていた青い線。よく見ると巻物や髪の隙間から首筋や頬にも線があるのが見て取れる。
あぁ、とさくらはほぼ吐息のみで言葉を発する。あの線を持っている人に出会ったのは初めてである。身体の力が抜ける。仲間だ、と老婆を――歌椿を見て思う。あんなに醜いものに支配された、悲劇の人。
さくらのその想いには気づかぬように、歌椿は言葉を続ける。
「さて――零箱は確か神話の浸透しておらぬ世界じゃの。何が起こったか、理解は?」
していない、と答えたのはさくらでは無く巡雨だった。そうか、と歌椿は相づちを打ち、それから少し思案するように上を向いた。
「先程お前さんたちは白の部屋を強制突破した。恐らく、その情報は天へと伝わる。――奴らが来る前に、逃げねばならん」
「奴ら…? あの、逃げるってどこに…」
その何処か緊迫感のある言葉に、白の部屋での恐怖が蘇る。今すぐにでも走って何処かへ――何処かは分からないけれど――逃げたい、と思ったが、歌椿は静かにゆっくりと歩くだけだった。
「行きがてらに話をしようかの。付いてくるが良い」
「あの…急いだほうが…」
それか巡雨に乗るとか、と獣をちらりと見るが、歌椿は取り合おうとはせず、ただ歩みを進める。後ろから巡雨も特に急ぐ風でもなくゆったりと続く。さくらは若干の焦りを覚えつつも結局は何も出来ず、二人の間を歩く。
「これから、壱箱へ案内をする。そこで保護を頼むと良い。儂は一旦零箱の様子を見てくるでの。お前さんが行くのは、得策ではない。神はまだお前さんを狙っておる。」
「…神?」
聞き慣れぬ響きに、さくらは問い返す。小説で何度か触れたことはあるが、特定の宗教を持たぬさくらは、それが確実に実在するという思いは持っていない。ギリシャ神話。日本古事記。聖書。ファンタジー小説。思いつく限りの“神”を想像してみたが、やはり自分が狙われるという理由は分からぬままだった。歌椿は頷き、独り言のようにぼそりと呟いた。
「出会ったじゃろう。神に」
神に、とさくらはその言葉を口の中で反芻する。その単語に結びつくような人物に会った記憶は無い。けれど。歌椿のその言葉を聞いた途端、銀色の髪が瞼の裏を過ぎた。青い瞳の、あの男。
「…まさか」
さくらは首を横に振る。しかし歌椿の瞳は真剣で。
「神って…神って何…?どうして私に?」
「神は、この世界の創世主じゃ。お前さんの元へ行ったのは、お前さんが零箱の宿主だからじゃ」
また、零箱という言葉が出た。それから、宿主という言葉も。
「宿主って何ですか?どうして私が…?」
「宿主とは、支えるものを宿す存在じゃ。一つの箱に、一人。必ず存在する」
「支えるもの…?」
「箱を水平に保つために、必要な存在じゃ。――零箱の支えるものは、そこの巡雨じゃの」
さくらは巡雨に視線を這わせる。獣は特に何も言わずに静かに頷いた。やはり理解するところまではいけず、さくらは視線を自分のむき出しの足にと向ける。そうして、ふと、それに気づく。
「待って…宿すって…あなたを…」
消えた線と、それと同時に現れた獣。巡雨はまた頷く。
「お前の身体の青紋に、私は存在していた」
ぞくり、と首の後ろに冷たい氷のようなものが流れた。さくらが、そして母が十二年間戦ってきたのはこの生き物だったという事実。それは酷い憎悪の対象だったはずだった。しかしながら今さくらの胸にじわりとしみ出るのは、微かな震えだけだった。
さくらはただ、目の前の生き物を見つめる。青い、瞳のそれの顔には何の表情も浮かんでいない。
頭がただ混乱している。
「…わから、ない」
ただそれだけを吐き出すと、歌椿は何処か労るような視線を向けた。その瞳が何処か優しく見える。喉が突かれたように痛む。気づけば目の前はぐちゃぐちゃになっていて。それが涙のせいだと分かると、また一層混乱した。どうしたらよいのか分からぬまま、さくらは言葉を零す。
「分からない…どうして、こんな目に遭うの?私は…もうお終いにしたかっただけで…どうして終わらないの…?」
「…さくら、良く聞くと良い。この世の中は――全て、箱で出来ておる。浅く、広い箱。そうじゃの――蓋があって。このような形の」
そう言って歌椿は両手で長方形を示して見せた。先程巡雨の言っていた言葉が急に形作られた。さくらの生きていた世界。箱、というのは比喩などではなく本当にそうだったということなのか。
「この世の中には、まず源箱と呼ばれる大きな箱が一つ、存在する」
歌椿はゆっくりと、赤子に説明をするように言葉を紡ぐ。
「その中に、神が造った箱が四つ。これらを壱箱、弐箱、参箱、そして四箱という。それから、その他にもう一つ箱がある。零箱と呼ばれる箱じゃ。お前さんが存在していたのは、その零箱になる」
「…零箱…」
さくらは呟く。言葉に出したがそれでもそれは何の意味も感じない。箱の中に世界がある。それは一体どういう事なのか。宇宙が収まっているのであろうか。歌椿はただ独り言のように言葉を紡ぐ。
「その、零箱じゃが――それは、神が造ったものではない。零箱は、壱から四の箱の人々が造ったものじゃ。所謂、人工物じゃの」
「人工物…?」
歌椿は頷く。
「そうじゃ。零箱は、壱から四の箱の住民によって作成された」
さくらはぽかん、とその老婆を見つめる。――確かに、読んだ小説の中には神の創世という話は幾つもあった。神が光を生み出した、というものや、国を生み出したなどというもの。宇宙の成り立ち、という本も読んだ。ガス爆発をして、地球が産まれたと。その中で常に変化をしてきて、生き物が生まれたと。さくらが信じてきたのは、後者だった。古代の生物――確か、海の中のプランクトンから始まった、そんな話。
「箱の中に自然――大地と空と海と山じゃの。これらを配す。植物の種をまき、温度を調節し、多種多様な命を投入する。…そうやって命は繋がり、今の零箱が出来たのじゃ」
呆然とするさくらに小さく頷くと、歌椿はまた語る。
「――神はそれを、酷く憤った。元々、壱から四の箱は神によって保たれていた。しかし、零箱を造ったが故に神の怒りを買い、神に見放されたと言われておる。神が見放すと言うことは、即ち箱のバランスが崩れると言うこと。それをまた正常な状態にするために産まれたのが、支えるもの、という存在じゃ。しかし支えるものというのは生き物ではない。魂というのとも違って…ただの“存在”じゃ。箱には生のない者は居られぬ。なので、その箱にいる人間に支えるものは宿る。身に存在を結び、器に文様を貼り付ける」
さくらは老婆を見つめる。
「…それが、宿主…?」
「そういうことじゃの」
深く息を吐く。少なくとも、今まで信じていた世界の常識と酷く異なっていることは理解出来た。ここは一体何なのだろう。いくらさくらが外界のことを知らないとはいえ、これが現実ではないのは理解出来ている。神。箱。喋る獣。銀色の塊。何もかもが非現実的だ。頭がくらくらとする。
「――地球は…その零箱にある…んですか?」
さくらの問いに、歌椿は怪訝そうな顔をする。
「チキュウというものが、どういうものかは分からぬが――」
「私は、地球に住んでいたはずで…」
「ふむ…。というと、地名なのかの?」
「地名…たぶん、違うと思う…。あの、宇宙の、中にある星で…青くて、えぇと…酸素があって…」
「星…。まあ、そうじゃの。零箱にも星があると聞いたことがある。その、チキュウとやらがあるかどうかは知らぬが…」
そうですか、とさくらは息を吐く。地球が仮にその零箱の中にあると仮定すると、それもやはり人工物なのであろう。それは酷く滑稽な気がする。幸せな家も、病んだ母も、俯いた父も全てが誰かによって造られたものなのだ。そして、自分も。
「…どうして、その、箱の人たちは…零箱を造ったんですか?」
さくらの問いに、歌椿は首を横に振る。
「それが、分からぬのじゃよ。好奇心、という者もおるし…いつかそちらに全て移住する目的だったという者もおる」
「神に…怒られるのに?」
そうじゃのう、と歌椿は少し笑った。
「仮に怒りを買っても…何かを成し遂げたかったのじゃろうのう。或いは、神とはその程度の存在でしかなかったのかもしれぬがの」