二日目(1)
どれだけ黒に漂っただろう。不意に、ドン、と底から響く太鼓のような音がして急に世界の色が変わる。
――そこは、白い空間だった。
ただただ、白い。三次元だと思うのだが、境目が分からない。どこまでが床でどこまでが壁なのか天井なのか。その白以外には何も無い。物体も。陰も。何も。
そして、さくらはそこに存在していた。起立をしている。死んだわけではないのだ、と失ったと思っていた眼球で下を見やり、そうして驚愕する。そこに、あの線はない。あの、真っ青な線が、ない。そして衣服は、病院に着ていった服ではない。淡いクリーム色の、キャミソールワンピース。足下には細い皮編みのサンダル。ぽかん、とさくらはその服を見下ろす。ワンピースは確か病院に行く前に脱いだはずだった。そして、サンダルは母のもので。しかし大きさはさくらの足にぴたりとあっている。
ここは死後の世界なのだろうか。ということは自分は幽霊か何かなのだろうか。
「――成る程。これは面倒だ」
静かな声が、突然響いた。低い声。声の方向に振り返ると、そこには獣が居た。白い鬣、青い瞳。身体全体は柔らかな毛が覆っている。一見真っ白で大きなライオンのような風貌だが、大きな太い角が一本、額に付いている。その角からは、鎖のようなもので青い小さな球体がぶら下がっていた。太い尾が地面に触れている。四つ足で立っているが、それでも大きさはかなり大きい。立っているさくらとほぼ変わらぬ位の高さ。今の声はこの獣から発せられたものなのだろうか。周りを見渡すが、この獣以外には何も無い。死後の世界では、どうやら動物も喋るらしい。これは一体何だろう。地獄の門番はさくらの知る限り、黒い狼のようなものだった気がしたのだけれど。
「…なに?」
その問いかけに、その獣は答えない。
「…誰?」
もう一度問うと、それは「巡雨」と呟いた。それと同時に、脳裏にはっきりと漢字が刻まれた。さくらは目を瞬かせる。その現象の意味も状況も分からない。そもそもその巡雨というのは名前なのか。聞き慣れない響きに首を傾げる。しかしそのさくらの仕草を意に介していない様子でその生き物――巡雨は言葉を続ける。
「このままだと、零箱は消滅してしまう」
「…ぜろ…?」
「説明は後だ。乗れ」
訳が分からず、さくらが立ち尽くしたままでいるとそれは苛立ったように乗れ、ともう一度言う。一瞬迷ったが、その獣――巡雨の苛立った瞳に身をすくめ、とりあえず従うことにする。
「…ここはどこ?」
何とか、巡雨の背によじ登りながら問うと、それは歩き出しながら――周りは相変わらず白く景色が変わらないのであまり移動している実感が無いが――応える。
「ここは、“白の部屋”だ」
あまりにそのままな回答にさくらは首をかしげる。それは果たして名前なのか。
「私は、死んだの?」
「このままだと、死ぬ。ここは魂と器が離れた者が一時、整理を行う場所だ」
「…? 魂…? 私は…魂、っていうことは…死んだの?」
しかし、巡雨は首を横に振る。
「魂ではない。まだお前は、身の状態だ」
「ミ?」
字はまた脳裏に映し出されるがしかしそれだけの現象で。言葉の意味は理解出来ない。鸚鵡返しのように問うと巡雨はやや早口に答えた。
「魂はそれだけでは不定で脆い。それを器に入れる必要がある。その器と魂をつなぎ止める役割を持つのが、身だ。魂を具現化した物、とも言われているし器の内部とも言われている。魂と身と器の三をあわせた物を“身体”と呼ぶ」
魂を具現化したもの、というと幽霊のようなものなのだろうか。そうか、とさくらは息を吐く。巡雨が何を言っているのかはよく分からないが、恐らく自分は死んだのだ。器というのはさくらの肉体のことなのかもしれない。そうすると、あの線は、さくらの皮膚にへばり付いてたものなのだ。さくらは少し安堵の息を吐く。良かった、と。中身は、こんなにも艶やかで汚れない。
視線の下で軽やかに上下する鬣を見ながら、さくらはその生き物に問う。
「あなたは身体なの?」
「私は、私だ。…それよりここにいては、お前の魂の整理が始まってしまう。その前に、ここを出なければならない」
「…? その、整理が終わるとどうなるの?」
「お前は死ぬ。無になる」
ぼんやりとしていた頭が急激に働き出す。つまりは、この場にいると死ねるというわけで。逆に言えば。ここを出てしまえば、恐らく――。
さくらはまたがっていたそれから降りようと右足を巡雨の背に乗せる。
「何をする! 暴れるな!」
「お願い死なせて!」
叫びながら足をそろえようとしたとき、巡雨の角にぶら下がっていた青い球が弾けた。どろりとしたそれに手足を拘束される。ねちゃりと何か絡みつくような感覚が気持ち悪い。
「…何するの!」
「こちらの台詞だ。黙って乗っていろ」
その高圧的な言い方に、苛立ちがこみ上げる。背にかみついてやろうと歯を立てたが、鬣の堅さにすぐに顔を離した。先ほどまでは柔らかな毛だったのに。
「私の身体は、私が決める」
また、意味の分からないことを言う。
だったら、とさくらは唇をかみしめる。私の身体だって、私が決めたかった。もしもあの線がなければ、私だって。何度も何度も考えた、意味のない想像。いつだってさくらはそのときの夢を見ている。目が覚めたときに、どんな現実が待っているかは分かっているはずなのに。夢を見ずにいられない。どんなにそれが愚かしいかも分かっている。分かっているけれど、どうしても。
巡雨は、また歩行を開始したらしかった。僅かながら身体が上下する。いつの間にか拘束は解けていたが、どうせまた降りようとしたところですぐに捕まる。諦めて背に身体を預けた。鬣は柔らかな毛に戻っている。頬に触れると、とても心地が良かった。そして、暖かい。
不意に巡雨が足を止めた。さくらは顔を上げる。どうしたの、と問おうとしたとき、目の前に銀色のどろりとした大きな固まりが見えた。それはどう考えても、現実のものとは思えない。液体と固体の丁度中間のようなそれは、表面を波打たせている。
「…何?」
「白の部屋の門番だ。…突破する」
それ以上問い返す間もなく、巡雨はその固まりに向かっていく。その固まりはみるみるうちに大きさを増し、ぐにゃりぐにゃりと波打つ。徐々にこちらに向かって何か威嚇するかのように端を伸ばす。その端々から、こちらを攻撃する意図が見える。
「いや――…!」
それがこちらに飛びかかってきた。ぼこん、と何か間抜けな音がする。ムササビの跳躍のように全体を大きく広げて、包み込もうとしているかのようにさくらの視界をふさぐ。巡雨は舌打ちをして、それからそこに立ち止まる。そうして、軽く頭を振った。角の先についている青い玉が揺れる。それは徐々に色を変え、大きさを増していく。青から緑、黄色、そして橙色。銀色の固まりは、それを嫌うかのように徐々に形を小さく変化させ、後退していく。
さくらは、ただ荒い息を吐き出す。酷く恐ろしかった。目の前で小さくなっていく銀の塊から、まだ目がそらせない。またいつ大きくなり飛んでくるかもしれない。一旦そう思うと、もうそうとしか考えられなかった。
そこに、声が響いた。
「困りましたねェ」
小さくなった固まりの後ろから、ゆっくりと男が進み出た。白い髪に白い肌。唯一色を持った緋色の瞳は細く、閉じた口元は笑っているが好意的ではないのはすぐに分かる。ずるずると長い衣服もまた白い。男性にしてはやや高めの声。
さくらは息を詰めて、その男を見つめる。
「――零箱の方ですかねェ。例えどんな事情があれど、ここに入ってきたからには整理を行うのが定めなんですよォ」
「分かってはいるが、非常事態だ。宿主が整理をすることは可能だが、私がそれを行うのは――」
巡雨が言いかけると男は手でそれを遮る仕草をした。
「私の言っていたこと、聞いていましたかァ?どんな事情があれど、と申したのですヨ。つまりはァ、言い訳無用ということになりますねェ」
男がパン、と両手を叩くと先ほどの銀色の固まりがまたこちらへと向かってくる。叫びたくなる衝動を、さくらはただ必死に飲み込む。何が怖いのかも分からないが、ただただ恐ろしい。
「そこを、どけ」
巡雨が言うが男は笑顔を崩さない。
「だ・メ・で・す」
ごくりとさくらは唾を飲む。先ほどまでの降りたいという気持ちは、いとも簡単に萎んでしまっている。身体の下にある巡雨の体温だけが、何か救いのように思える。
「例えアナタが何者であろうと、ココでは私が全てなんですよォ」
男が右手を高く上げる。銀色の固まりはまた大きさを増しながらこちらに向かってくる。
「…しっかり掴まっていろ」
巡雨に言われて、慌てて鬣に掴まり直す。また巡雨が頭を振る。今度は玉が橙色から赤になり、それから紫色になった。そうして、それはゆっくりと上へと昇る。
「逃がしませんよォ」
「――行くぞ」
瞬間、そのまま巡雨の身体は上へ向かって飛んだ。飛んだというより持ち上げられたといった風であった。紫の玉が少し先を行く。巡雨に掴まったまま、下をちらりと見ると銀色の固まりは途中までしか来られないようで、ぐにゃりぐにゃりと手を伸ばすような仕草をしている。
「怖い…」
呟くと、巡雨は静かに言う。
「大丈夫だ。お前も、零箱も。必ず私が守る」