一日目
そこは、黒であった。
目は開いているのか閉じているのか定かではなく、四肢の感覚もなければ鼓動の音も聞こえない。寒さも暑さもない。身体がもう無いのか、あるけれど感じないのか。まるで眠っているときのようで。さくらは海にもプールにも行ったことはなかったが、水に浮かぶというのはこういうことなのかもしれない。
成る程これが死かとさくらは理解する。浴槽にてみぞおちを刺したときと似ている気がするが、僅かに異なる。その理由は何だろうと考え、一つの結論に辿り着く。
何かが、抜けていくような、ほどけていくような感覚がするのだ。感覚などもう無いはずなのに、何故かそんな気がする。締め付けていた衣服を、脱ぐような。抱きしめられていた腕を、離すような。
ふと、駐車場で会った男が脳内に鮮やかに描かれた。彼は、“剥がす”と言っていた。それを脳が記憶していたので、そんな感覚がするのかもしれない。
その事に気づいた瞬間、急に何かが目の前に現れた。
黒の中に蠢くそれは、紛れもなく線であった。青い線。微かに発光しているように見える。続いて何か低いうなり声のような音がその黒と青の中を踊る。
何だろう、とそれを追おうと――恐らく瞳と指先で――した瞬間、あっという間にその色も音も消えてしまった。後はただ、黒だけがまた残る。
今のは何だろう、とぼんやりさくらは考える。しかし、いくら考えても答えは浮かばず、さくらは諦めてまた黒を見つめた。
そして、母を思い出す。母は目を覚ましただろうか。さくらが居なくなって安堵しているだろうか。さくらは思いだけで笑う。きっと、哀しんだりはしていないだろうな、と。
出来るならば父と二人で幸福に生きていって欲しい。綺麗事のようだけれど、彼らのことを考えるとそうとしか思えなかった。彼らの幸せだった筈の十二年間を奪ったのは、さくらなのだから。
どうして自分はもっと早く死んであげられなかったのだろう。とさくらは考える。それは単純に、死が怖かったからかもしれない。しかしさくらの知っている死後の世界とは酷くこの場は異なっている。三途の川やお花畑は存在しないらしい。閻魔様も天国も。思っていた以上にここには何もない。恐怖も幸福も平穏も安らぎも。ずっとここに漂うのだろうか。けれども、それでいいのだとさくらは思う。青い線を見なくて良い。それは何よりの望みで、幸せなのだ、と。
そうしてさくらは、黒の中にただ埋まっていく。