零日目(3)
その日の夕方に、父が帰宅した。さくらは未だに電話の前に座り続けたままで。黒いスーツを着た彼は、酷く疲れているように見えた。目が少し充血している。
「――電話が通じなかったぞ」
苛立ちを隠さず開口一番そう言う父に、さくらは指で切れた電話線を示してみせる。父は露骨に眉をひそめた。
「…母さんが線路に飛び降りた」
父はネクタイを緩めながらぼそりと呟く。その言葉が何を意味しているか分からずさくらは瞬きを激しくしながら父を見つめる。父は睨むようにさくらを見返す。
「さっき、呼び出しを食らって見てきた。入院準備をしに帰ってきたところだ」
父は乱暴に背広の上着とネクタイをソファに投げ出す。
「母さんの肌着とか化粧品とか…分かるな」
「入院のしおり」と書かれた冊子を差し出され、さくらはページを開く。入院に必要なもの、とのリストがある。
「準備が出来たら行くぞ。面会は九時までだ」
さくらは、急いで――母のためというより父の苛立ちが恐ろしくて――両親の寝室へと向かう。暗い部屋の電気を付けた。
一人になって、ようやく静かに息を吐いた。何度か深呼吸をしたが、やはり父の言っていた言葉は染みこんでは来なかった。
全ての荷物を大きなボストンバッグに入れ終えると、ふと、先程見たクローゼットに目を留める。閉めた記憶の無い扉が閉められている。さくらが首を傾げてそちらに近づいたとき、父の咳払いが聞こえた。慌ててさくらは自室へ着替えをしに行く。部屋を出ると、父が荷物を持ってじっとさくらを睨み付けていた。
父の苛立ちに急かされるように家を出る。さくらは自分の服装をもう一度確認した。タートルネックのカットソー、手の甲まで隠れる大きめのカーディガン。黒い手袋。膝丈のスカートと黒い厚手のタイツ。紺色のニット帽。大判のストールで耳までをしっかりと隠して。大きめのマスク。はみ出している青い線は無い。大丈夫、とさくらは両手を握りしめる。母の大きなショートブーツは歩きにくかった。
少し車を走らせ、赤信号で止まると父はぼそりと言葉を零す。
「落ちたのはT駅だ」
そこは、ケーキショップとは真逆の駅で。
「十二時頃、といってた」
さくらが時計を見た時間だ。駅までは電車で一時間。十時頃家を出た母は、何をしていたのだろう。
それきり父は黙った。
母がそんな行動を取る理由は一つしかない。父もさくらもそれは分かっているはずで。けれどどうしても、ごめんなさい、という言葉は上手く出せなかった。
じっと窓から外を見る。まだ夕方だというのにこんなに暗い。そういえば、ずっとカレンダーを確認するということをしていなかった。いつの間にか季節が変わっていることに気づき、そうしてもう一つのことに気づく。今日は十一月三日。さくらの誕生日だ。父に悟られぬように小さくさくらは息を吐いた。ため息のような、深呼吸のような、小さな息。
偶然の筈はない。母は、十二年間で疲れ切ってしまったのだ。きっと落ちる決心をしたのは、十一時三十三分。さくらの産まれた時刻だ。
三十分ほど道を走らせ、やがて車は駐車場へと吸い込まれる。父は無言で母の入院荷物を持ち、歩く。さくらは後ろから続いた。ブーツのポコポコという間抜けな足音が、暗い駐車場に響く。
面会入り口から院内に入ると、父は先に病室へ向かうようさくらに告げ、背を向けた。
エレベーターは混んでいた。丁度仕事帰りに面会に来たという風の大人達が、列をなしている。さくらは迷ってから、横にある階段を登る。
二階まで着いた所で、不意に視線を感じた。見上げると、そこには男が居た。この病院にも、それにこの街にも似つかわしくない、そんな風貌の。一言で言うと、異様な男であった。黒い山高帽に、黒いロングコート。耳を覆う髪は銀色で、こちらを見ている瞳は、青い。その男が、じっとさくらを見つめている。
「…?」
じっとさくらもその男を見つめかえし、それから慌てて自らの身体を見る。青い線がはみ出ているのだろうか。線のはみ出しが無いことを確認し顔を上げると、あの男は既に居なくなっていて、代わりに看護師が下りてくる。不思議そうな顔でこちらを見られ、さくらは顔を伏せ、階段を上がる。
あの男は何なのだろう。出で立ちも変わっていたが、それよりもこちらを見ていたことが気になった。あの青い瞳が、さくらの持つ線と同じ色であることも。
さくらはゆっくりと、五〇四号室の扉を開ける。個室であった。薄いカーテンを開くと、そこには母が眠っている。規則正しい寝息と、機械音。鼻と口からチューブが伸びている。顔や腕の数カ所に包帯やガーゼが張ってあった。酷い外傷は見あたらなかった。
青白い顔だ、と思った。華やいだダリアはもうそこには居ない。枯れてしまったのか、摘み取られてしまったのか。いつの間にか、彼女の眉間には深い皺が刻まれていた。いつもは前髪を下ろしているので、気づかなかった。さくらはじっと母を見る。
彼女を追い詰めたのは間違いなく他でもない自分だった。どうして早く楽にしてあげられなかったのだろう。綺麗になるなどあり得ないこの肌を、どうして早く消してあげられなかったのか。“普通の女の子”になれない娘を前に、ただ母は逃げ場を失っていたのだ。
ごめんね、と心の中で呟くとさくらはゆっくりと窓を見る。五階では死ねないだろうか、と思案する。
しかし悩んだ後に、やはりここから飛び降りることにした。これ以上外を出歩くのは、例えこれから死ぬ身であってももう恐ろしい。それに、と腕をかき抱く。先程の男がまだ院内にいるかもしれない。そう思うと何か異様な恐怖を感じた。
ゆっくりと、窓へと向かう。薄そうなガラスは風の音と共に微かに揺れている。それを開け、下をのぞき込む。地面までは思っていた以上の距離があった。これなら死ねるかもしれない。さくらは面会用の椅子に片足を乗せた後に窓枠に足を乗せる。
どうやら下は、駐車場のようだった。それも、恐らく職員用の。人気はない。これなら、とさくらは唾を飲み込んだ。
風が、さくらの頬を撫でる。深く深呼吸をしてから、さくらは瞳を閉じた。恐怖はもう無かった。何故だか分からないけれど、この先にとても喜ばしい何かが待っているような気がした。甘い、柔らかい、優しい何かが。
さようなら、と唇の形で呟く。そうして窓枠から手を離して。ゆっくりと、倒れるように身体を窓の外へ預ける。
そのままさくらは落下した。全てが上に持ち上がる感覚。びゅうびゅうと音がして、ビリビリと頬に痛みを感じる。後もう少しで地面だ。
けれども。
ふわり、とさくらの身体は浮いた。そして、ゆっくりと、まるで何かに抱きかかえられるかのように地面へ腰から落ちた。一瞬、何が起こったのかが全く理解できなかった。上をゆっくりと見るとおそらくさくらが居たであろう――カーテンが外にびらびらと揺らいでいるのだ――病室の窓が見える。
「君は死ねないよ」
突然聞こえてきた声に、びくりと身体が震えたのが分かった。声の方を見ると、そこには男が立ってる。黒い服の男。階段で見た男だと、ややあってさくらは気づく。そして、その声は浴室で聞いた声だった。
「君は、自らを殺すことが出来ない」
男は薄く笑った。父よりは若く見えるような気もするが、定かではない。どこか浮世離れしている雰囲気。その笑みが、どこか居心地の悪さと恐ろしさを呼び起こす。あぁ、とさくらは思う。彼は死に神なのかもしれない。
「君を、この箱に縛り付けているのはそのセイモンだ」
男は笑いを貼り付けたまま言葉を続ける。聞き慣れぬ言葉にさくらは首をかしげた。
「青い紋様と書いて、“青紋”という。――君は望まぬまま、この箱の犠牲者になっているんだ」
この男は何を言っているのだろう。何一つさくらには分からない。しかしさくらは男から目をそらすまいと下唇を噛んだ。そうしなければ、恐怖で叫びだしてしまいそうだ。そのくらい、男の笑んだ瞳の奥は鋭かった。
「…青紋て…何ですか…」
ようやくその言葉を絞り出すと、男は笑った。
「その、線のことだよ。君の、その身体の」
さくらは呆けたように男を見る。どうしてこの男は、さくらの線のことを知っているのだろう。何重にも布で覆った、線のことを。
「――可哀相に」
さくらの言葉を待たずに、男は口を開く。
「辛かったね」
その言葉で、さくらは不意に身体の力が抜けるのを感じた。ぺたりと座り込んだままの身体にようやく感覚が戻ってくる。布越しのコンクリートの冷たい感覚。びゅうびゅうと遠くで風の音が聞こえる。
「君は…死にたいの?」
問われて、さくらは小さく頷く。そしてようやく気づいた。これで二度、自らを殺すことに失敗していると。
男は、そう、と小さく呟いてそれから頷いた。
「――その、青紋が無ければ?」
さくらは男を見つめる。通り過ぎてきた言葉を懸命に捕まえる。男は、今度はゆっくりともう一度言う。
「その青紋の無い、綺麗な身体であれば――生きていたいかな?」
それが、何を意味するのかはさくらには分からなかった。医学なのか、それとも何かの薬の押し売りか、或いは何かの詐欺のようなものなのか。沢山の医師や怪しげな占い師達が、無理だと口にしたこと。
「剥がしてあげようか。その、青紋を」
男は囁く。恐ろしく小さな声なのに、その音は鮮やかにさくらの脳内に響く。
目の前の青い瞳に吸い込まれるように、さくらは男をただ見つめる。それはいったいどういう事なのか、何一つ理解出来ては居ない。シールを剥がすように、ぺろりと剥がれるものなのだろうか。それとも皮膚を?酷くそれは痛そうに思える。
男は笑った。
「大丈夫。痛くない。そして、剥がれたとき、君は自由になれる」
どう考えても可笑しい話だ。今まで、沢山の大人に無理だと否定され続けたことを、この胡散臭い雰囲気の男が可能だという。甘い言葉にだまされてはいけない。分かっている。
けれど、と小さく思う。例えば、彼が死に神などではなく、救世主だったら。そんな、子供みたいな。莫迦みたいな。そんな夢のような、あり得ないことが起きていたら。
ごめんね、と彼は少しもすまなそうじゃなく謝った。
「急にこんなこと言ってもびっくりするよね」
じゃあ、と彼は笑って。座り込んでいるさくらの前に、膝をつく。近くで見ると、その青い目にくらくらとしそうになる。深い、青。恐怖心が消えたわけではない。けれどどうしても逃げられなかった。それが不可能なことだったのか、それともあえてそうしなかったのかは分からない。
「――ちょっと失礼」
瞬間。何が起こったのか、理解は出来なかった。彼の手が伸びてきて、さくらの耳元へ触れる。と、思った、その時。目の前がぐらりと揺れた。キィンと、深いな鋭い音が駆け抜ける。鳩尾のあたりが急にぐにゃりと潰れた気がした。平衡感覚は失われ、胃の中から何かが吹き出そうな感覚に襲われる。視界は端から黒くなり、あっという間に真っ暗になった。ズズズ、と何か重たくそして不快な音がして、それからポン、と間の抜けた音がした。その音と共に、さくらの身体はいつも通りに戻った。先程の耳鳴りも急に感じた吐き気も暗い視界もあっという間に消え失せ、ただ変わらぬいつもの身体がそこに戻る。そして、その目の前には、男の青い瞳とそれから玩具のような何かがあった。男はそれを指先で摘んで、さくらに見せるようにしている。アクセサリー、というものに近いだろうか。革の紐に親指ほどの鋏がついている。それが本当に使えるのか、或いは飾りなのかは分からない。男は、それを手のひらに握りしめる。
遠くで、風の音がする。さくらは、ただただ男を見つめる。
「――大丈夫。君の器を綺麗にしてあげる」
さくらは、ほぼ無意識に頷いた。男もまた満足そうに、うん、と頷く。
「――助けて下さい」
どうしてその言葉が出たのかは分からない。ただ、気づけばそれは言の葉として空気に浮かんでいて。そして、揺らいで消える。昔何かの映画で聞いたような、安っぽい言葉。
男は頷き、そうして手のひらをさくらのみぞおちに当てる。刹那、身体に鋭い痛みが走った。
そして同時に、吊り橋が落ちるように、さくらは何かに飲み込まれた。固い地面の感触はもう無い。ごうごうと何かの音がした気がしたが、それは気のせいなのかもしれない。爪先が付いてこないかと思うほどの速さで落下する。
先程の落下とは比べものにならないほどの、激しさ。死ぬのだ、と直感で思った。それは喜びに近かった。
全てが――髪も眼球も水分も、そして皮膚も――抜け落ちる。これでもう、醜い皮膚から逃れられる。そうしてこのまま魂だけになるのだ、とただそう思った。