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零日目(2)

 母が出かけた音をベッドの中で聞くと、さくらは床に降り立つ。母と、それからさくらのお気に入りのケーキショップまでは、車で片道二十分。ちらりと時計を見る。十時五分。

 ベージュのベッドカバーを直し、それから枕元に積んであった本を、棚に戻す。本棚には、所謂“どこにでもいる普通の女の子”が主人公の本はない。お姫様と魔法使いのお話。小人。雲の上の世界。まだ電気も通っていなかった時代のお話。それらは遠い過去のものや遠い世界のもの。母が購入してくる書籍はいつもそんなもので。恐らく母は怖かったのだと思う。さくらが、普通の女の子に憧れるのが。――例えば、友達が居て。恋をして。学校行事を楽しんで。特急に乗って行く家族旅行。お弁当を持って行くピクニック。それを、したいと言うことが。小さなデスクの上にも、教科書はない。あるのはアニメのDVD。幼い頃に見た、プリンセスの。

 けれども、さくらは、外の世界のことを知っている。それは母の外出中にこっそりと見たテレビであったり、六歳まで通っていた小学校からの知識からで。知ってしまっている。この世には、友情や恋や旅、夢、未来。そんなものがそこかしこに散らばっていることは。

 さくらは少し笑う。もう、理解はしている。さくらの元へ、救世主や王子様が助けに来てくれることはない。美しく変身することも、魔法を使うことも、窓から逃げて飛び立つことも、誰かと友情を育むことも。何も無いのだと。

 さくらは深く息を吐き出した後に、浴室へと向かう。脱衣所で服を脱ぎ、それから思い立って両親の寝室へ裸のまま向かう。カーテンが閉まった部屋は薄暗い。母のよそ行き用の衣類が詰まった小さなクローゼットを開けると、全身鏡がある。そこには、ある一点を除いて“普通の女の子”がいた。栗色の肩下まで伸びた髪の毛。ひょろりと伸びた四肢。特別美人でも不細工でもない顔。まだ、成長期を迎えていないその身体。けれど青い線は間違いなくその“普通の女の子”にべとりと張り付いていて。

 さくらは何かを払うように頭を振ると、台所に寄り、包丁――一番大きな出刃包丁はさすがに怖くて、普段使いのもの――を手に持つ。脱衣所に戻ると、悩んだ末にパジャマを入れている衣装ケースの底から、淡いクリーム色のキャミソールワンピースを引っ張り出した。何を思ったのかある日母が買ってきたものだが、結局父が嫌な顔をするのでお蔵入りをしていたのだ。さくらはそれを着ると、包丁を持って浴室の扉を開く。ボイラーのスイッチを入れると、浴槽の栓をし、湯をひねり出す。

 湯船につかりながら、溜まっていく湯を見つめる。それから、ゆっくりと包丁に視線を移す。どこに誘うか迷った末に、やはりみぞおちだという結論に達した。

 ワンピースが、浴槽の湯の中で生き物のようにひらりひらりと揺れる。

 ――産まれてきて、ごめんね。

 その言葉をぼんやりと脳内に響かせる。

 そういえば、遺書のようなものを遺してこなかった。母に、謝罪をすべきだったのだろうかとさくらはぼんやりと考える。

 幼い頃から、病院を幾つもさくらの手を引いて歩き回った母。

 「あいつ呪われてるんだぜ」と距離を置く近所の子供、「高柳さんて、何でいっつも長袖なの?」「特別扱いでずるい」そんなふうに言うクラスメイト、「俺には関係ない」と背を向ける父、「あの子、肌の病気なんだって」嬉々として話す近所のおばさん、「ちょっと難しいですね」そう言った医師。そうして皆最後に必ず問う。「どうして?」と。

――どうして、と問いたいのは誰よりもわたしなのだけれども。

 それでもさくらも、そして母もずっと夢を見てきた。この線が無くなる、夢を。

 けれど、いつしかその夢はもう見られなくなって。母は目を伏せ、さくらの部屋の扉を閉める。そしてさくらは別の夢を見る。母に、愛される夢を。

 青い線。これさえなければ、と何度それに爪を立てただろう。そして時折その線を撫でた。何かの、証に思えて。さくらが生きている価値のある人間である、何かの証。それ以上のたとえ話は、思いつかなかったけれども。

 でももうそれも終わりなのだ。さくらは目を閉じて、包丁をしっかりと握りしめた。

 大丈夫、と意味のない言葉を頬の中で呟くと奥に包丁を、進める。

 思った以上に、痛みは感じられなかった。ただ、息苦しいという感覚。こんなものなのか、と僅かに息を吐く。死ぬと言うことは、もっと辛くて嫌なものだと思っていた。

「――みつけた」

 不意に、声がした。くっきりとした、響くような声。目を開こうと思ったが、それが酷く困難だった。瞼がどこにあるのか、それをどうしたら空けられるのかが分からない。声は、まだ続いていて。

「君は死ねないよ」

 不思議な声だった。男のような、女のような。老人のような、若者のような。どれにも当てはまるようで、どれにも属さぬような、声色。さくらはただ、真っ暗の中でそれを聞いている。

「君はずっと、ゼロハコのために寿命のある限り生き続けるんだ」

 ぞくり、としたような気がしたが既に身体の感覚は無い。

 あなたは誰、と感覚のない口で言おうとしたとき、突然どこかにすとんと落ちるような感覚がした。

 そして、覚醒する。真っ先に感覚を取り戻したのは目だった。目は、いつの間にか開いていて蛇口から流れ落ち続ける湯を捕らえている。次に、耳。ドドドド、というまるで豪雨のような水の音が耳の中にこだまする。ようやく頭が少しずつ働き始める。湯をただ見ていた瞳はようやく、湯の中を見て――そして、激しく瞬いた。

 さくらは目を見開く。

 そこには、何もなかった。傷跡も。血も。湯も。そして、包丁も。ただ、何もない浴槽にさくらは座り込んでいる。慌てて顔を上げると、蛇口からは一滴の水分も吐き出されては居なかった。どうして、とその言葉は何処にも行く宛もなく只頬の中を満たしただけで。先程まで目の前で落ち続けていた筈の水はもう無く、音もしない。

 母が帰ってきているかを確認したくて、さくらは浴室の扉を開く。ワンピースには、雫の一滴すらも付着していなかった。

 そうして、あの時の声を思い出す。「君は死ねないよ」と言っていた声。――夢にしてはやけにくっきりとした声だった。

 リビングの時計を見ると、時刻は十二時を指していた。外はまだ明るい。

「…?」

 あれから二時間。寝てしまったと考えるのが正しいのだろうか。母の気配はしない。さくらは首をかしげて、玄関へ向かう。母の普段使いの靴も、鍵も見あたらない。

 悩んだ末に母の携帯電話にかけてみようとリビングへ戻り、受話器を取る。しかしさくらはすぐに眉をひそめた。音がしないのだ。電話機の裏を見ると、コードがぶつりと切れていた。刃物で切ったような後がある。

 急に恐ろしさが臀部からうなじまでを駆け抜けてさくらは座り込む。白い革張りのソファ。ベージュの分厚い遮光カーテン。焦げ茶のラグ。熱帯魚の舞う水槽。いつものリビングの筈なのに、何かが異なって見える。あぁ、とさくらは嘆息する。母が、居ないのだ。

――どうしよう。

 もしかしたら、と一つの仮説がどこからか浮かぶ。そうしてその思考はあっという間に大きくなる。死ねなかったという事実もあの時の声も全ての思いに被さって、さくらを支配する。

 もしかしたら、母はさくらを捨てたのかもしれない。

 さくらはきつく目を閉じてから、ゆっくりと目を開けて閉じられたカーテンを見つめる。学校へ行くことを強く勧めていた祖母が亡くなり、何か気が抜けたように病院通いをやめた五年前から、さくらは一度も外へ出ていない。今のさくらの足にあう靴はない。靴箱に収められているのは五年前の小さな靴と、さくらには大きい母の靴と。探しに行かなくては、と思うのにどうしても身体が動かない。

 違う、と何度も頭を振る。きっと何かがあったのだ。道路が混んでいるのか、ケーキ屋が混んでるのか。きっと何かの事情が。もしかして事故だろうか。しかしどれを想像してみても、何一つ現実味を帯びては来ない。それよりもさくらの立てた仮説の方がくっきりと見える。

 どうしてだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。優しい母。賢い父。そして、普通の娘。新婚の頃買ったと言う新築マンション。父のファミリータイプの青い乗用車。母の淡いベージュの軽自動車。パイン材の学習机。花柄のケーキ皿。外国製のホーローケトル。肌触りの良いタオル。ひらひらと尾を振る魚たち。全てが幸せだったはずなのだ。

――これさえなければ。目を閉じていても浮かび上がる線を、さくらは服の上から強く押さえつけた。


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