六日目(3)
「さくら!」
目の前の塊は、いつのまにか消えていた。くるり、と振り向くとそこには三体の生き物がこちらを向いている。
「ありがとう」
静かにそう言ったのは、流風で。不意にさくらは、鼻の奥がつんと痛むのを感じた。安堵で身体が弛緩する。そしてそこにいるの竜の優しさに、ただ頭を下げる。さくらの器を、命を懸けて守ってくれた生き物が居た。そうしてその器が無事で、そしてさくらに感謝をしていること。さくらはゆっくりとそれに向かって歩むと、目の前の竜の顔を下から抱く。腕を回しても上あごにぎりぎり届くほどであった。
「…ありがとうございました。私を…守ってくれて…」
それから、とさくらはその竜に触れたまま言う。
「ごめんなさい。何も…気づけなくて」
竜はただ何も言わずに目を閉じる。
「さくら」
かけられた声に、さくらは横を向き、破顔する。白い、獣。
「…巡雨」
「巻き込んで、すまなかった」
その淡々とした物言いが妙におかしくてさくらは笑い出す。
「あんなに…“宿主がお前の役割だ”なんて言ってたのに」
「それもそうだな」
さらりと言う巡雨にさくらは頬を寄せる。
「さくら。お前は問うただろう。“支えるものを辞めたくなることはないか”と」
あぁ、とさくらは頷く。そう問うたのは、遙か昔に感じる。
「私の問いは、“否”だ。私はこの箱を、この世界を、子供達を、そしてさくら、お前もを、愛している」
さくらはもう一度頷く。巡雨は目を伏せた。もう一人の人物ことを、愛しているかどうか聞いてみたい気もしたが、さくらはその問いを心の中にしまい込む。それはきっと、問うべきではない。
その時、不意に「がちゃり」という音がした。そちらを見ると、男が一人入ってくるところだった。
「睦大和!」
「…神は?」
「彼は、滅した」
そう答えたのは、巡雨で。そうか、と睦大和は息を吐く。
「…さくら。あの後なんだが…歌椿が、死んだ」
「え…?」
さくらは睦大和を見返す。手のひらのぬくもりが、僅かに思い出された。
「たぶん、寿命だと思う…登岳が、四箱の方向に向かって旅立ったから」
そう、とさくらは息を吐く。彼女が苦しんでいたことは、一体何だったのだろう。死なせたくない、守る、とそう言ってくれたあの時の言葉が本心だったのかどうかを知る術は、もう無い。それでも。あの時さくらに与えてくれた、いなり寿司。きっと、あの優しい味が何かの答えで。
「――で、お前の器は?」
「ここに」
答えたのは流風だった。そうして彼は、ふう、と息を吐く。まるでそよ風のように、大気が流れて。母の病室の、一つ下。四階から、それは何かに抱きしめられるかのように、降りてきた。
「あ…」
軽やかな温い風と共に、それはさくらの目の前の地面へと寝かされる。あの時見た母の病院着と同じ服を着ている。つるりとした、単色の肌。閉じられた瞳。腕には点滴の管が刺さったままで。
「器…」
さくらは腰を屈めて、それを撫でる。柔らかくて、そうして少し暖かい。絹小紅を抱いたときの冷たさはなかった。つまりは。
「まだ、生きている…?」
「死んでは居ない。が、このまま自然に身が戻ることはほぼ無い」
さくらは頷いた。
さて、と流風は言う。
「儂の役目もこれで仕舞いじゃ。製作所へ行けば戻れるのじゃろう?――今度こそ、幸せに生きると良い」
「…仕舞い?」
さくらは首を傾げる。流風は微かに笑った。
「儂の役目は、零箱を神より守ること。それだけじゃ」
それってどういうこと、とさくらは問おうとし、それから流風の遠くを見るような目に沈黙をする。役目が終わる。それは。
とりあえず、と睦大和は言う。
「一旦製作所に行こう。器が生きているなら、身との結合が可能なはずだ。――ただ時間が無いから急ぐ必要がある」
さくらはその言葉に頷き、それから流風の方へ身体を向ける。
「…流風に…お願いが、あります」
「何じゃ」
問うた守人に、さくらは頭を下げる。
「…零箱の、宿主になってもらえませんか?」
「儂が?」
「私を…零箱から殺したのは、あなたですよね?巡雨は…あなたに向かうはず」
「さくら…?」
「私には、もう一つ繋げるものがあるんです」
さくらは右のふくらはぎにちらりと視線を落とした。
「私は、叶うなら弐箱へ行こうと思います。舞雲を、繋げたいと」
「――さくら。でもあの箱は…」
睦大和の言葉を、さくらは笑みと共に遮る。
「睦大和。あの…製作所で、器を造るって言ってたよね。流風が…入れたりはしないのかな」
「それは…まあ…やってみなくちゃってことだが…でも…」
「嫌、ですか?」
そう問うと、流風は笑う。低く、優しげに。
「いいや。それもまた良かろう」
「…じゃあ、良いですか?」
さくらの問いに、流風は頷いた。
「――確かに承った」
「さくら…」
睦大和に笑いかけ、そうしてさくらは舞雲に触れる。
「…もしかしたら、すぐに捕まって…殺されちゃうかもしれないけど。少しの間かもしれないけど…私に、宿ってくれる?」
舞雲は静かに頷く。
「絹小紅と、約束したの。…お願いします」
さくらは皆の方を向き、ゆっくりと頭を下げる。もう、迷いはなかった。




